夏至を過ぎると山に差し込む光は変わる。まちの中にいるとその変化は気が付きにくいのだが、夏山の光は明らかに黄金色に変化し、光の粒子は大気中のエネルギーがピークを迎えたあとの憂いを帯びてくる。夏雲が出ても、30℃を超える暑さでも、その変化の境目はあまりにもはっきりとしているので驚くほどだ。麦を刈り終わった畑が、光を反射しながらさらに風景を金色にしている。

庭に咲き残ったジャスミンとラズベリー
夏の薬草摘みは日中に行うと暑いので、朝早くか夕方の少し日差しが落ち着いた時間を選ぶ。必然的にロレッタの野外授業も、朝から正午ごろまでか、午後4時過ぎになる。
私は特に夕方ロレッタを訪ねて行くのが好きだ。少しずつ涼しくなっていく夕方に、薬草茶に入れるジャスミンの花を摘ませてもらいに行ったことがある。暑さのピークを過ぎた庭は、ほっと一息ついているように見えた。これ以上は暑くならず、あとは涼しくなっていくだけ、という安心感がある。朝に強く香るダマスクローズとは反対に、ジャスミンは夕方に香り始めるという。それを確かめたかったことも、この時間を選んだ理由だ。
夕方のけだるい日差しの中で、もう終わりかけのジャスミンの花を摘んでいると、ふと何もかもがクリアになる瞬間があった。この時、この時間に、ここにいる不思議。その不思議さとは裏腹に、全てがはっきりと必然であること、成るべくして成っていることが、理屈ではなく実感として染み込んでくる。足の下には地、頭上には天がある。その全てがさまざまな力で作用しあい、世界を作っている。当たり前のことだが、この現代において一体我々人類の何パーセントがそのことを意識しているだろう。このような生物間のエネルギー循環のような話題は、現代であれば量子生物学などで説明ができるエビデンスも幾人かの研究者は出している。でもそこは学説を通して納得するというより、太古からの野生の勘で腑に落としてみたい。そう思った。
草に埋もれて座るロレッタを見ていると、もしエネルギーの対流が見える眼鏡というものがあるのなら、彼女と草花たちの輪郭は一体化して見えたはずだと思う。知らず知らずのうちに、ロレッタと自然の波長は同調している。そんな印象だ。もちろん現実には可視化できないが、ひしひしと伝わってくる何かはただただ美しい。
ここでいう自然は、我々の周りを取り囲む森や山や林だけではない。動物としての私たち人間を含めた生態系が、地球上に存在している所以。 以前もお話ししたミクロコスモスとマクロコスモス――つまり、人間の内面にある小宇宙と、我々を取り巻く大宇宙を実感して“生きる”ことを指している。

錬金術の根幹にも深く関わる、ミクロコスモスとマクロコスモスの概念
でも、本当は何一つ難しいことはないのかもしれない。ただ土に足を着けて、耳を澄まして目を開いて世界を観察すればよいのだ。よく見れば見るほど、世界は精密で巧妙で、完璧な生命体プログラムで組み立てられている。その中で、植物もまた動物と同じように、子孫繁栄のために日々戦場で戦っている。そのバトルのために体内に蓄えている成分を、我々は薬や毒と呼ぶ。そして、美味しく栄養価のある蜜をいただいたり、虫を引きつけるための芳香に魅了されて花の香りを纏おうとしたりする。遠くに行くことのできない、黙する彼らに甘んじて。
「そろそろ中に入ってお茶を飲もうか。あたしゃ腹も減ったよ。今日はもうお開きさ」
ロレッタの声にはっとして我に返った。ああ、そうだった、ジャスミンを摘んでいたんだっけ。なんだか目を開いたまま夢を見ていたようだ。ぼんやりしていた私を見て、ロレッタは相変わらずのアホ面だねえとでも言いたそうに「ほら、結構摘めたじゃないか。紙袋に入れるといいよ、花が呼吸できるから」と言った。
家に入ってお茶を飲みながら、私はこんな質問をした。
「ねえ、私たち人間も昔は、きっと動物のように鋭い野生の勘があったのよね。動物が自分のケアに必要な草を知っているように、一つの植物の形や香りや生態を観察して、これは〇〇〇に効くはずだという確信を持った瞬間があったからこそ、先人たちの体験の積み重ねが今の薬学へとつながっているのよね」
「なんだい唐突に。そりゃ当たり前じゃないか。それはセルフメディケーションとか動物薬理学といった内容のことだね。ネアンデルタール人やホモサピエンスの骨が見つかった古い遺跡から薬草も一緒に見つかったりしたそうだしね。間違いなく現代の私らよりは、心や体のケアに必要なものを嗅ぎ分ける本能は発達していただろうよ。言ってみれば、現代では野生のアンテナは退化したってことかね」
ロレッタの言葉に、まるで白昼夢のようなジャスミン摘みの最中に抱いた、あの感覚を思い出す。植物たちの根から、茎から、葉から細胞レヴェルで私の足を介して伝わってくるエネルギーが、私の中にあるわずかな野生の本能のようなものと共振する感覚。頭の中で把握するものではなく、地中から湧き上ってくる何か。
ロレッタはさらに続ける。
「人類の大部分は人間同士のことでいっぱいいっぱいで、自然全体や宇宙のことわりは隅に追いやってしまったけれどね。中世くらいまでは、自然環境と密接した暮らしだったから、そういう感覚や価値観は今とは比べ物にならないほど強かったはずだよ……ってこの話は何度もしてるじゃないか」

著者が最も感銘を受けたミクロコスモスとマクロコスモ
スのフレスコ画
私はまたふとアナーニの大聖堂で見たミクロコスモスとマクロコスモスのフレスコ画を思い出した。1000年以上前に生きた人々は、このことわりをしっかりと胸に刻んでいたのだろう。
ああそうだ、この“ことわり”だ、と私は思った。
ロレッタと一緒にいて学んだのは、草木の知識であることは変わらないが、我々が“全体の一部”だという自然の摂理を忘れない、ということだ。ロレッタを師とするうちに気付けば私は、薬草の名前や効用を覚えるよりも(もちろんそれもあるのだが)、他者に全く、本当に全く同感を求めない彼女の生きざまに触れ、自然に向けるまなざしを研ぎ澄ます方向へと歩み寄ったように思う。誰に教えるでもなく、彼女は「生きざま」という言葉にはしにくいエネルギーを発散していて、私はそこに惹きつけられるのだ。
私はロレッタに冗談っぽく言ってみた。
「さっきね、庭でジャスミンを摘んでいて、いろいろなことがつながったの。どうやら私には、ここでしか感知できない宇宙からのメッセージがあるみたいだから、申し訳ないけどこれからもしつこく通わせてもらうわね」
ロレッタはやれやれ、といつもの呆れ顔を見せたあとまたニヤッと笑った。(つづく)
(写真提供:林由紀子)
【ラファエロの丘から】
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