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美しいくらし
山の魔女が紡ぐイタリア薬草暮らし 「ラファエロの丘から」主宰
林 由紀子
第3回 ロレッタの家は薬箱
ロレッタの家に時々通わせてもらえるようになってから、私の暮らしは見えない豊かさに溢れていた。彼女のレンズを通して見る植物の世界、山や自然がこんなに魅力に溢れていることに改めて気がつき、それを共有させてもらえることがとてつもない幸運に感じた。

ロレッタは本当に独特の世界観をまとっていた。古い時代のもの、中世まで遡るような時間軸を持ち、当時の人々の暮らしと価値観、植物との関わり方や植物の立ち位置について精通していた。彼女はそういった知識を、主に中世の本草書(薬物⦅生薬⦆について記された書物)や古書から学び取り、自然と人間の関係がより密接だったこの時代の考え方をとても大切にしているということがよく伝わってきた。学者や研究者だと、このような話題は植物民俗学のような分野で学ぶ内容であろうから、座学で得られる知識は持ち合わせるだろうが、彼女の場合は心と体で体現し、自らの身をもって実験しているように見えた。

植物の古書を眺めるロレッタ


誰かに向けて発信する目的は全く感じられず、あくまで自分の信念に基づいた暮らしをしている。人知れずひっそりと山で暮らし、山の草を食(は)み、山の薬草で自身のケアをし、時々タバコや生活用品を買いに里に下りるくらいで、何も不足しているようには見えない。むしろ消費主義の、あればあるほど欲しくなる魔のスパイラルからは完全に別の次元で、彼女の暮らしは満ち足りた誇り高い鼓動を打っているように見えた。

私はそのような彼女の暮らしの魅力的な要素を吸収したくて、気持ちはおおいに高揚していたが、彼女の暮らしの波動を乱さないよう、十分に気をつけなければいけないことだけは身に染みて感じていた。私の訪問が、邪魔になってはいけない。出来れば私の訪問が、彼女にとって何かのかたちでプラスになれば嬉しい、そう思っていた。
大事なのは長居しすぎないこと、質問攻めにしないこと、自分の目でよく観察し、頭でよく考えること。そして自家製の味噌を持っていくこと。コロナの時、麹作りから始めた手前味噌は、私が作れてロレッタが作れない、数少ないものの1つで、彼女の家を訪れるお礼に、と持っていくととても喜んでくれた。

ロレッタの家に住み着いた黒猫

幾度か通うようになってから彼女の家を改めてよく観察した。それぞれのスペースに役割と意味があり、外の庭も含めて全体が〈生きた薬箱〉のようだった。ビジュアルが、なのではなく、流れる空気がそうだった。家の中はお客を通す居間、薬用リキュールやチンキ、ドライの薬草を保存する部屋、薬草を干す部屋などに分かれていて、どこも所狭しと瓶が置いてあったり薬草がぶら下がっていたりする。窓の外にはたいてい野良の黒猫がいるのだが、薬草を操る老女と黒猫という絵面があまりに出来すぎで、いつも笑ってしまう。きっとこの猫もロレッタに惹かれてここに居座ることに決めたに違いない。庭でロレッタが何か摘んでいると、黒猫はついて行って日なたでごろんとしている。

そして、彼女の庭。ここは初めて見たとき、全く手を入れていない、生やし放題の空き地のように見えたので、足元を気にせずどんどん入ったら、こっぴどく叱られた。ロレッタが甲高い声で叫んでびっくりしたものだ。

「ああ! そこにはミントの新芽が出ているんだよ! 踏まないで! アッ、そっちはニオイスミレが……もう、庭から出て!」

ぼうぼうの放置された空き地かとばかり思っていた私は、慌てて庭の外へ移動した。ロレッタは私を見てため息をつき、馬鹿に塗る薬はないとでも言いたそうな表情をしていた。
その日はもう庭には入れてもらえなかったが、後日ここが彼女にとって大切な観察のための庭ということが分かった。ぱっと見ただけでは分からなかった植物のコミュニティ形成が、その庭ではされていたのだ。

ダマスクローズが満開のロレッタの庭


お怒りが収まった後日、改めて庭に入らせてもらうことが出来た。庭にはロレッタが様々な場所から採集してきた野生の薬草や植物が植えてある。イチジクやヘーゼルナッツの木、山から採ってきたクマネギ、知り合いが持ってきたジャスミン、冬の食材キクイモ、染色植物であるホソバタイセイ、初めからそこに自生していたもの、連れて来られたものが皆そこで共存している。毎年何百輪と花を咲かせるダマスクローズの株も植えてある。このローズももとは1本だけの苗だったもので、ここに植えられたのにはある物語があった。

ローズのリキュール作り

この地域はルネサンス期に栄えた貴族の小さな城が点在しており、そのほとんどは崩れて廃墟となっているが、庭に薬用や加工用のローズを植える習慣があったので、よくよく探すとその末裔かもしれないローズと出会えることがある。ある時ロレッタは近くの城の廃墟の庭だったらしき場所でこのローズの苗を見つけ、1本だけ持ってきた。それが増えて大きな株となり、毎年えもいわれぬ香りのローズをたくさん咲かせている。乾燥にしたり、リキュールにしたり、お酢の香り付けに使ったり、花の貴婦人であるダマスクローズは用途が多い。

こんなふうに、1種類につき1株、1本だけを植えるという決まりで色々植えてきたところ、増える子、消える子、遠ざかりあう子、近づきあう子、それぞれが思い思いに行動するそうだ。それをロレッタはじっと観察して、彼らの行動を見守っている。放置されているように見えた庭も、彼女によって選ばれた植物たちのミクロのコミュニティ形成があり、生存のための活動を繰り返しているのだ。

薬用のもの、食用のもの、葉や花を摘むものもあれば、根を乾燥させるものもある。彼女の暮らしに必要なものは、ほぼこの庭のもので間に合っているそうで、ここでは育たない高い標高を好む植物や川のほとりに育つ植物などは、このネローネ山のどこに生えているかは熟知している。彼女の体内カレンダーは四季の巡りの中で、季節の薬草がいつ生えるのか、きちんとインプットされているのだ。

エルダーフラワーでシロップの用意

春から初夏にかけてのこの季節、生食できる野草のサラダ類や、シロップを作るためのエルダーフラワー、乾燥させてハーブティーにするためのダマスクローズが庭を賑わせている。エルダーフラワーはそのマスカットのような甘い香りが初夏の空気中にはっきりと感じられるほど、この近郊の野山ではポピュラーな植物で、丘から山まで、どこにでも咲き乱れている。

5月から6月にロレッタの家を訪ねると、エルダーフラワーの飲み物が作ってあることが多い。これといったレシピはないようで、山の水にエルダーフラワーとレモンのスライス、少々のはちみつを混ぜたものだ。多くの人はこの季節にエルダーフラワーのシロップを作り、保存しておくのだが、ロレッタは基本的に甘いものが好きではないので、エルダーフラワーの花が旬の季節にこの飲み物を楽しみ、あとは花をハーブティー用にドライにしているようだ。私はこのシロップが大好きなので、この10年ほどは家族用に4、5リットルほどは作り、年間を通して消費している。ロレッタにそう言うと「あんな甘い飲み物はきらいだね!」といつもの毒舌が始まるのだが、そんなやり取りも正直私にとってはお楽しみなのだ。

夏の間に野山が初夏の花に溢れると、いくらでも生えているから摘むのもそう難しくはないと感じてしまいがちだが、雨が降れば花は香りを失うし、満開でも手の届くところに咲いていなかったりと、タイミングとちょうどいい場所が重なるのはそう簡単ではない。野生とお付き合いするというのは、植物たちとだけでなく、天気や標高などにも影響されるので、山という環境全体を学ぶという嬉しい課題が出てくる。
ロレッタの初夏の庭を見つめていると、わくわくする気持ちが湧きあがってきた。(つづく)

仕込み中のエルダーフラワーのシロップ

【保存用エルダーフラワーのシロップのレシピ】
《材料》
エルダーフラワーの大輪 10房
ミネラルウォーター 500ml
無農薬レモン 1個
砂糖 450g
レモン汁100mlまたはクエン酸7g

1 エルダーフラワーは出来るだけ大気汚染のない環境のものを収穫し、さっと洗って虫などを取り、茎を取り除いて花だけにする。
2 ミネラルウォーター500mlに1のエルダーフラワー、輪切りにした無農薬レモン1個分を入れてよく混ぜ、24時間から36時間ほど常温で置いておく。
3 浸水しておいたエルダーフラワーとレモンをガーゼで濾して軽く絞る。
4 濾した液体に砂糖、レモン汁またはクエン酸を入れ、火にかけてゆっくり溶かす。ぐつぐつとは沸騰させず、ふつふつ沸くくらいで火を止めて、熱いうちに煮沸しておいた瓶に入れて蓋をし、逆さにする。
5 冷めたら保存のため冷暗所へ。6か月ほどで完成。一度開封したら冷蔵庫で保管し、2週間で消費する。

《効用》
フラボノイドやアントシアニンを含み、免疫系に働きかけウイルス感染を予防するほか、緩やかな発汗、利尿作用がある。

(写真提供:林由紀子)

【ラファエロの丘から】http://www.collinediraffaello.it/
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【はやし・ゆきこ】
1999年からイタリア在住。現在はマルケ州のアペニン山麗で暮らす。ファエンツア国立美術陶芸学校卒業。陶芸家として現代アートの制作に携わる傍らマルケ州をはじめとする中部イタリアの美術工芸、食文化、薬草文化などの学びと体験の旅をコーディネートする「ラファエロの丘から」を主宰。2018年、現地の食の歴史家や料理家とともにアソシエーション「Mac Caroni」を立ち上げ、消えゆくマルケ州の食文化を継承するための活動にも尽力している。近年は植物民俗学的視点からの薬草文化を研究、近郊の山で学びのフィールドワークを進めている。京都芸術大学通信講座非常勤講師。
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