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美しいくらし
山の魔女が紡ぐイタリア薬草暮らし 「ラファエロの丘から」主宰
林 由紀子
第4回 初夏の薬草で作る聖ヨハネの聖水とロレッタのお守り

マルケ州の麦畑

6月も中旬になると、イタリアじゅうの人々が心待ちにしているイベントがある。小麦の脱穀祭だ。私の住むマルケ州一帯は軟質小麦の一大産地で、春の青麦が一面に広がるすがすがしい景色から、6月の穂がまぶしい金色の景色まで、季節の移り変わりとともに変化する麦畑を楽しめる喜びがある。
近年の脱穀祭では、刈り入れの終わった農地に脱穀機をドンと置き、生演奏をするバンドを呼んで、彼らの演奏をバックに大仕事が終わったと言わんばかりにダンスを踊ったり手打ちパスタを食べたりする。普段は贅沢が出来なかった昔の農民も、この日ばかりはワインにご馳走に舌鼓を打ったに違いない。

小麦はイタリアの食文化の核だから、脱穀祭は1年で一番大切な収穫の季節であり、最も日が長くなる夏至の時期と重なる。植物のエネルギー、生きとし生けるもののエネルギーが最高潮に達すると考えられている夏至の時期は、様々なフォークロア(民間伝承)がイタリア全国にあり、その風習はもともと農耕文化に根付いた祈りの儀式であることが多いのだが、キリスト教以降はそのような風習も、様々な聖人を祭るものとして塗り替えられてきた。

その中の1つに、マルケ州でとてもポピュラーな〈聖ヨハネの夜〉の風習がある。もう7、8年も前にロレッタに教えてもらった、大好きな風習だ。聖ヨハネの夜は6月23日の夜と24日の夜明けまでの間。古代ギリシャの哲学者であるテュロスのポルピュリオスは、夏至について「空間世界と非空間世界の通過点や境界であり、時間を持つ世界と時間を持たない世界、つまり永遠との境界である」と言及したと伝えられており、まるでこの世から無限宇宙へつながる細い通り道のような捉え方をされていたようだ。つまり我々を取り巻く、万物を含む大きなスケールの世界のエネルギーにあやかることができる、まさに真夏の夜の夢なのだ。

先人はこの日のためにどのようなことを祈っただろう。豊作祈願、子宝祈願、病や魔除け祈願、恋愛成就。世界中、場所や宗教は違えども、考えることはあまり変わらない。それぞれの願い事に効用があるといわれているハーブを集め、泉の水に浸して1晩、月の光を浴びせる。美しいフラワーバスは、その香りとエネルギーを1晩かけて水に移す。月の光の恩恵を受けた聖水は「ヨハネの聖水」と呼ばれ、翌朝の洗顔や身体拭きに使われ、夏至のエネルギーは魂にも体にも取り込まれる。私も、用意した聖水で家族に顔を洗ってもらったり、飼いネコにも飲ませたりと楽しんでいる。
イタリアで親しまれている、まだ熟れていない緑のくるみの実から作るノチーノというリキュールがあるのだが、このノチーノを仕込む日も昔から6月23日から24日と決まっている。ヨハネの夜にちなんだ、植物と夏至の関係は奥深い歴史が多い。

青いクルミで作るノチーノの仕込み


ロレッタの話だと、ヨハネの聖水に必ず入れなければいけないハーブはセント・ジョーンズ・ワート(和名セイヨウオトギリソウ)、ラベンダー、ネピテッラミント、ニガヨモギ、ローズマリー、ヘンルーダで、その他あればバジルやイチゴノキ、モノギナ、ニンニクを入れる地方もあるそうだ。同じ風習でもところ変われば使われるハーブも意味合いも変化する。

セントジョーンズワートの花が持つ赤いイペリチン

その中でも、セント・ジョーンズ・ワートというハーブはその名の通り、聖水の名前でもある洗礼者ヨハネと大きな関りを持っている。セント・ジョーンズは洗礼者ヨハネのことだが、彼がサロメによって処刑された時に流された血が、このセント・ジョーンズ・ワートの持つ赤い色素と重ねて考えられたためだ。この赤い色素は薬効成分のヒぺリシンで、古代から火傷や傷の治療薬として重宝されてきた。6月の開花時期のこのハーブをよく観察すると、花びらや葉のふちに小さな黒い点が無数に見られる。これを指でこすってみるとどうだろう、指先には赤黒い液が残る。まるで本当に血のような風情だ。
ヨーロッパ各地ではセント・ジョーンズ・ワートを浸した抽出油が家庭常備薬として古くから愛されているが、その色もまさに深紅で、古代の人がこの色から血を連想したことは簡単に想像できる。効用といい、姿や色といい、聖人の名前と結び付けられた理由はうなづける人気者だ。

夏至の時期の薬草の収穫

さて、このハーブは別名〈悪魔よけ〉とも呼ばれている。夏至の夜に年に一度の集会を目論む魔女たちが天を飛び回る時間、ヨハネの聖水を準備するためにハーブを摘みに出る乙女たちは、まずこのセント・ジョーンズ・ワートを魔除けとして道端で摘んだそうだ。そして聖水用のハーブを摘んだあとも、ドアや窓から魔女たちが入ってこないよう、ジュニパーベリーやローズマリー、オリーブ、ローリエ、イチジクとクルミの枝をリースや編み込みにしてドアや窓にぶら下げていたそうだ。どちらにしても夏至の植物の力は聖なるもので、治癒、守護、未来への展望を支えてくれる存在だったのは間違いない。

聖ヨハネの聖水の話は以前からちらほらと耳には挟んでいたが、ロレッタから詳しい話を聞けたとき、なんとロマンチックなのだろうと感動した。ロレッタはこの風習に関して、いろいろな文献を読んだそうだ。そのうちでも一番の愛読書になったのは、アルフレッド・カッタビアーニという作家が書いた『フロラーリオ』という、花にちなんだ風習を紹介した本だと教えてくれた。早速わたしもその本を購入して読んでみた。そして私もそれからは、6月23日の夕方いそいそと野へ出かけてゆき、必要なハーブを揃えて聖水作りに備えるようになった。車で移動しながらでも、すべてのハーブを揃えるのはまあまあ大変だ。

本来、風習通りに聖水を用意したければ、23日の夜中に出かけるべきなのだろう。23日から24日かけて日付が変わる夜中の12時ごろ、森の中を歩きながらハーブ摘みをすることで本当のマジックは起こるのかもしれない。月の光に照らされながら、私たちのけものとしての本能は研ぎ澄まされ、もしかすると植物たちのささやきもこの時ばかりははっきりと聞こえるのかもしれない。
そう思うと、この聖水のビジュアル的な美しさの向こうにある、人々の切実な信仰というものを思った。迷信やオカルト、分かりにくいもの、証明しにくいものに疑心的な私たちだが、日本人も寺院参拝や護符などのお守りを身に着ける習慣があり、聖地はいつも鎮守の森であることが多い。鳥居のような結界が、この風習の場合は時間と空間が混ざりあう日付変更線だったのかもしれない。

洞窟で行われた聖ヨハネの夜のワークショップ


毎年、この聖ヨハネの夜が近くなると必ずロレッタのワークショップが開催され、聖水作りとロレッタの話を聞きに20人以上の人が訪れる。去年はネローネ山の小さな洞窟の中にある、1200年代に作られた聖ルチアのフレスコ画が祀られた祠までロレッタと一緒に行き、山の中でワークショップが開かれた。ロレッタはいつもこの日のために毎年お守りを作る。私の知る限り、彼女がいつも身に着けている唯一のお守りだ。小さな巾着型の布袋の中に彼女が摘んだ聖ヨハネの聖水用のハーブが詰まっていて、ひもで首に下げられるようになっている。ワークショップの時、手作りのお守りを入れた小さな箱を差し出してロレッタは言った。

ロレッタのお守りとフロラーリオの本

「はい、みんなお守りは見ないで手だけ入れて1つだけこれだ、と思うのを取って。どれが当たるかはお楽しみ。それぞれに合う袋が当たるはずだよ」

参加者はみなワクワクを隠せないような表情でお守りを手探りで選んでいた。そしてこんな色が当たったとか、可愛い柄の布だとか言いながら、すぐに大事そうにお守りを首から下げていた。それぞれの人に、その人自身に合った効果を発揮してくれるに違いないだろう。心地よいエネルギーに包まれながら、一番星が見えるころ私たちは山をおりた。

私もこのワークショップで手に入れた、ロレッタの作った布袋をお守りとして身に着けている。植物に守られ、植物の言葉が分かりやすくなるような感覚が、日々私を幸せにしてくれている。昔の人も日々植物とのつながりを感じていたのだろうか、と感慨深い気もちになる、素敵なお守りだ。(つづく)

(写真提供:林由紀子)

【ラファエロの丘から】http://www.collinediraffaello.it/
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【はやし・ゆきこ】
1999年からイタリア在住。現在はマルケ州のアペニン山麗で暮らす。ファエンツア国立美術陶芸学校卒業。陶芸家として現代アートの制作に携わる傍らマルケ州をはじめとする中部イタリアの美術工芸、食文化、薬草文化などの学びと体験の旅をコーディネートする「ラファエロの丘から」を主宰。2018年、現地の食の歴史家や料理家とともにアソシエーション「Mac Caroni」を立ち上げ、消えゆくマルケ州の食文化を継承するための活動にも尽力している。近年は植物民俗学的視点からの薬草文化を研究、近郊の山で学びのフィールドワークを進めている。京都芸術大学通信講座非常勤講師。
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