
8月の夏の山。エリンジウムが美しい
アペニン山脈沿いの8月のじりじりとした暑さは、山の緑をアフリカ大陸から来るドライヤーのような熱風で乾燥させ、春は色とりどりの花畑だった山頂のあたりも、カラカラになった牧草地のように一面麦わら色になる。34℃を超える猛暑だというのに、どこか空気中に秋の気配をはらんだ雰囲気があるから不思議だ。
8月の間は、初夏とは違い青々とした薬草はあまり見られなくなり、収穫も落ちついてくる。朝早くのうちか夕方日が落ちかけるころ、やっと涼しくなるので、ロレッタとの過ごし方もフィールドワークより室内が必然的に多くなる。そうなると私たちは乾燥し終わったフェンネルシードを種と枝に分けたり、スギナの茶色い茎の部分を切り落としたりと、日中にひたすら黙々と単純作業をすることも少なくなかった。
ロレッタは、1つの薬草が一番いいタイミング――それを薬草の世界ではイタリア語でテンポ・バルサミコと呼ぶのだが――になったところで採集して製剤を作るので、初夏は一気に薬草の採集が始まり慌ただしくなる。乾燥させたハーブはとりあえずざっくり枯葉や不純物を取り除き、大きな紙袋に入れて保存しておく。そして、採集の落ちつく8月に薬草の細かな処理作業をゆっくりするのだ。
でも、こういった単純作業から学ぶことも実に多い。「何もかも手作業で行われていた古代の製薬は、プロセスに深い意味があったんだよ。そのプロセスこそが儀式であり、植物を崇拝する貴重な時間でもあったからね」というのがロレッタの言葉だ。

乾燥した薬草をきれいにして袋に詰める

カラッと乾燥した野生のフェンネル
乾燥にかかる時間は植物それぞれで全く違い、乾燥の過程での植物のふるまいが実に興味深い。例えば野生のゼラニウムの一種、ヒメフウロは糖尿病やある種のがんに効果を発揮する薬草なのだが、採集した後に干しておいても、一向に水分が抜けていく様子がない。ひょろひょろと細く華奢な容姿なので、あっという間に乾燥してしまいそうなのに、いつまでもカラッと干しきらず、かんぴょうのようにしんなりとしている。
ロレッタはこのしぶとさともいえるヒメフウロの様子が楽しいらしく、「ほら、この子の様子を見てごらん。2週間もここに干してあるのに、しなびただけで全然カラッとしていないだろ? 花が開きすぎたのを採ってしまうと、干してあってもそのまま種まで出来そうなくらい粘るからね、咲きかけのタイミングで採るのが大事なのさ。同じ日に収穫した他の植物は、ごらん、このとおりカラッカラさ」と、まるで手がかかる子ほどかわいいとでも言いたげにニコニコしながら話していた。明らかにヒメフウロの生命力を讃えているのが分かって、ほほえましかった。もしくは自分と似た何かをヒメフウロから感じているのか? とも思ってふと笑いそうになったりもした。

なかなか乾燥しないヒメフウロ
ロレッタはこのような、植物の独特のふるまいを「サイン」と呼んでいる。1つの植物が持つ形態や、その植物の持つ特性――例えば種を飛ばす仕組みとか、好んで生える場所など――何らかの自然界における必然的な理由。そのサインにどんな意味があるのかを考えるとき、彼女は必ず古書にあるその植物の解説を読み解きながら、彼女が受け取ったサインと本を照らし合わせる。彼女の感知したサインの答え合わせをするかのように。
本が古ければ古いほど、彼女にとっては信憑性があるようだ。「ルネサンス以降の本はあまり信じてはいないね。宗教色がありすぎて」なんて以前言っていたのを覚えている。私はその理由を、自然と密接して暮らしていた昔の人のほうが、野生の勘や観察力が鋭かったからなのではないかと捉えた。
そういえばロレッタはいくつか自然界のサイン、「シグニチャーの教義」とも呼ばれる古代の知識のありかたと、その古書の話を以前してくれたことがある。その話を聞いた時、わたしは過去にタイムスリップし、まるで別の価値観でものごとを捉え、世界がカチッと音を立てて1つの輪になったのをはっきりと感じ、胸が高鳴ったのを覚えている。
中世からルネッサンスにかけて発展したシグニチャーの教義は、ざっくり説明するとこうだ。
自然界におけるすべての動植物の形態には必然性があり、我々人間の四肢や臓器や器官、肉体の形態とそれらが類似性を持つのも偶然ではない。自然界(ここでは大気や惑星、銀河など宇宙を構成するものすべてを指す)と人間はある種の親和性やシンパシーで結ばれており、それらの形態が似ているとき、そこに特別な関係性があると考えられた。この考えかたは、もちろん医学においても応用された。とくに薬用植物においては形や色、匂い、生育場所や時期などが、なにかしら人間の肉体や気質、特性と重なり親和性や類似性を持つとき、それらの要素が人間の健康へのケアに有効だ、というわけだ。
有名な例で言うと、クルミの実が人間の脳の形によく似ているため、クルミは脳の発達に良いとか、ニンジンの丸い切り口は瞳に似ているので、目にいいいものだ、というような考え方だ。しかもこのようなフィロソフィー(哲学)は、ミクロコスモスとマクロコスモスという対概念が基礎となっている。大宇宙であるマクロコスモスは我々人間の肉体や精神であるミクロコスモスを内包しながらも、ミクロコスモスにもマクロコスモスの本質が内在しているという壮大な解釈の仕方だ。大きな宇宙の持つシステムが、大きさこそ変われど私たちの肉体や精神の内部にも同じように存在している、そう古代の哲学者たちは考えたというわけだ。

ミクロコスモスとマクロコスモスを描いたアナーニ大聖堂(イタリア中部、ラツィオ州)のフレスコ画
ロレッタは豪雪の降ったある年の冬、家が雪に埋もれ、全く家から出られずにしばらくの間一人きりで過ごす機会があったと語っていたことがある。ロレッタのことだから、保存してあったキクイモやクマネギのペーストなどで食べ繋いだのだろう。身の回りにある野生のものを食べて過ごす習慣がついている彼女が、たとえしばらく家に籠りっきりになっても、全く困らないであろうことは容易に想像がついた(本当に頼もしい限りだ)。
その時にじっくりとラテン語からイタリア語に訳してみた古書が、このシグニチャーについて、ドイツの錬金術師であり医師でもあったOswald Croll(オズワルド・クロール/1560-1609)という人が論じていた文章だった。ボローニャ図書館でオリジナルの本からコピーしてきた文章を、一人じっくりと雪に埋もれて向き合ったその時間が、最高に幸せだったと言っていた。私はそのイタリア語訳をぜひ読んでみたく、ロレッタに手を合わせて読ませてもらえないかお願いした。ロレッタはお前なんかにわかるのかねえ、とでも言いたそうな表情を浮かべて私をじっと見たが、ふと「まあいいよ」と言って本のコーナーに行った。いつもの綱渡りをする心持ちになる瞬間だ。今日も綱からは落ちずに済んだ。
わたしは、どんな本が出てくるのかロレッタの居間でワクワクしながら待っていた。(つづく)
(写真提供:林由紀子)
【ラファエロの丘から】
http://www.collinediraffaello.it/