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美しいくらし
山の魔女が紡ぐイタリア薬草暮らし 「ラファエロの丘から」主宰
林 由紀子
第1回 ロレッタとの出会い

春の野草たち。すべて食べられる


「ネローネという山の小さな集落に住んでいる、薬草を自由に操る魔女さんがいるんですって」

そんな話を耳に挟んだのはもう13年以上前のこと。当時私はイタリア中部、マルケ州のアドレア海岸線沿いの港町ペーザロから引っ越してきて数年で、田舎でのワンオペ育児や自宅の陶芸工房の仕事も軌道に乗り、少しだけ精神的余裕が出来てきていた。都会の雰囲気のかけらもない、中世の面影の残る小さな村が点在するアペニン山脈の麓で、山と川、丘に囲まれたこの土地で、さてどんな面白いことが見つけられるかとピンピンと頭にアンテナを立てていたころだ。

筆者の自宅から見えるアペニン山脈

緩やかな穀物栽培地帯のマルケ州北部。ペーザロの海岸線を南下し、ファーノというこれまた別の港町からフラミニア街道沿いに真っすぐ内陸へ向かうとたどり着くアペニン山脈の麓、カッリという小さな中世の村の郊外に私は住んでいる。近郊にはルネサンス文化で栄えた画家ラファエロの故郷ウルビーノがあったり、紙漉き文化で栄えたファブリアーノがあったりと、文化的にもなかなか豊かな地域だ。

我が家の窓から見える景色は、牧草畑だったり、麦畑だったりと牧歌的で、その背景にどーんと見えるアペニン山脈の連なりの1つに、そのネローネ山はある。噂によると、どうやらその魔女さんは結構な人嫌いで、あまり寄り付かれるのを喜ばないらしい。

私は山の麓に移り住んでから、家の周りの野山で近所のおじいちゃんおばあちゃんから山菜取りや野草摘みを教えてもらっており、彼らから料理の仕方やら食べ方やらを数多く伝授されていたので、さらに踏み込んで自分の極度のアトピー体質を改善できる薬草を知りたいものだと思っていた。薬草を学びたい1つ目の動機はおしゃれなハーブライフとは程遠い、自分の健康のための切実な願いだった。

2つ目の動機は、ファエンツアの国立美術陶芸学校で焼き物を学んでいた時に出会ったマヨリカ焼きの薬壺たちだ。中世からルネサンスにかけて作られていた薬草ベースの製剤がこの薬壺に入れられ、修道院薬局などで販売されていた。美学生時代、私はこの薬壺の美しさに完全に恋してしまったのだ。

マヨリカ焼きの薬壷

現在のマヨリカ焼きと違い、土や釉薬が言いようのない味わいを持ち、色の複雑さや滲みやムラがアンティークの魅力を生んでいる。精製されすぎていない素材の持つ魅力だ。一つひとつの壺には、唐草模様などとともに、まるで物語のタイトルかのように内容物がカリグラフィーで書かれている。乾燥した薬草であることもあれば、蒸留水だったりポマードだったりすることもある。それらが一挙に並べられているさまは壮観で、学生時代は美術館に通いその美しさに見とれていた。はて、恋焦がれる薬壺の中に入れられる製剤はどのような役割を果たしていたのか? 当時の薬草や植物の立ち位置とは? その時代の精神性とは? 美術と薬学の融合というテーマは当時の私の頭の中でぐるぐるしていた。

ふと気がつけば、それを学べるフィールドが家のすぐ近くにあるではないか。野生の薬箱ほど素晴らしいものはあるだろうか。でも、本を読むだけでは断片的で経験値が上がらない。できれば詳しい人に伝授してほしい。できればそれが山の魔女さんであってほしい。それが私の彼女への執着の始まりだった。

さて、どうすれば山の魔女さんと出会えるか考えあぐねていた時、薬草仲間の友人から彼女の薬草のワークショップの話を聞いた。と言っても彼女が自主的に開催することはまずなく、彼女のところに出入りするお弟子さんが計画し、そこに先生として呼ばれる、という形式だ。

早速嬉々として申し込み、彼女に出会える日がやってきた。名前はロレッタ・ステッラ。ステッラはイタリア語で星を意味するので、「星のロレッタ」といったところか。

「山の魔女」と呼ばれているロレッタ


まず彼女のまとう空気に驚いた。人間界から遠く離れて暮らす、まさしく初老の森の魔女そのもので(ある意味そうなのだが)、これは皆が魔女さんと呼ぶわけだ、と納得がいく容姿である。目には澄んだ光をたたえている、と書くと二流ファンタジーのような印象だが、本当に澄んだ光をたたえているのだからしょうがない。聞くと私の母親と同い年だそう。小さく痩せた体からはエネルギーの循環する様子が透けて見えそうで、私たち10名ほどの参加者と一緒にいるのに、不思議と彼女の周りだけ別の時間が流れているようだ。まるで、彼女の精神や髪の1本1本が周りの自然と同化して溶け込んで見えるようだった。自然の中で撮影されるナチュラルなイメージを求めた人物写真像のような、不自然で人工的な剥離感は全くない。私はしばらく彼女をまじまじと見つめてしまった。

おしゃべりではないが、薬草のことになると息継ぎもせず言葉が音楽のように溢れ出る。私は彼女の一挙手一投足を観察していた。気に入らない人には、相手に向かって露骨に嫌な顔をしたかと思うと、最後にはきちんとにっこりしてあげている。辛辣なのか、優しいのか。
かと思うとニコチン切れだと巻きたばこをいそいそと吸い出したりする。茶目っ気この上ない。これは本物だ、参った。そう思ってしまった。

ワークショップに参加した人たちと森の中を歩く

森の中でワークショップが始まった。私たちと一緒に森を歩きながら、ロレッタは出会う植物一つひとつの説明をしていく。俗名、学名、用途、効用、フォークロア(民間伝承)……あまりにするすると話をするので、3、4種類の植物を観察し説明するころには頭は既にこんがらがってきた。外国語でワークショップを受けているのだから仕方がないと思いながらも、きちんと理解できない分、気持ちは焦る。彼女の言葉を取りこぼしたくない、そんな気持ちで必死に着いていくだけで1日が過ぎたのを今でも覚えている。

彼女のワークショップは、野生に生えている食用または薬用のハーブを観察し、どのような土地を好んで育つか、四季を通してどのような姿でいるかなど、1年を通してじっくりと植物を見つめることをとても大切にしていることが分かった。この植物の名前はこれ、薬効はこれ、では終わらない。

特にフォークロアの話は心に残った。植物と人間の生活に密着した風習、迷信、言い伝え……どのように生活と植物が結びついてきたかが伝わってくる。ただ、神話などのように基礎知識のいる内容のものも多く、ギリシャ神話の神々や占星術までもざっくりは知っていなければ話の良さは分からない。西洋文化の基礎を持つイタリア人たちはふむふむとうなずいているなか、唯一の東洋人であった私は頭をひねりながら聞いていた。そんな私を見てロレッタはにやりとしていた、ような気がする。質問しすぎると嫌われそうだったので我慢していたが、それでもやはりいろいろと知りたくて4つ5つと質問してしまい、よくしゃべる日本人だねえという彼女のコメントに、会場がどっと沸いたりした。
そうして彼女との初対面の日は終わり、私はなんだか素晴らしい宝物を見つけてしまったような気持ちになって、家路についた。

ロレッタのワークショップに初めて参加したときの筆者(写真左)

そんなワークショップにいくつか参加するうち、少しずつ物足りなくなり、もっと個人的にやり取りがしたい、出来れば自宅に伺わせてもらい、彼女が住むネローネ山の自然に触れたい、と思うようになってきた。一人でネローネ山に出かけていけばいいことなのだが、彼女のフィルターを通して見る山にとても惹かれていた。さて、家に客人が来ることをあまり好まないロレッタに、どうやって訪問の許可を取ればいいのか、どうすれば気に入ってもらえるのか。ドキドキしながら考えた。既にロレッタの許可を得て弟子のようなかたちで家に出入りしている人も数人は知っていたが、基本的には人嫌いの彼女のもとに出入り出来ていることをちょっと鼻にかけている人もいたので聞きづらかったし、他の人に聞いても要領を得ない感じでなにやらハードルを感じる。どうやら唯一の方法は当たって砕けろということらしい。

ふと思いつき、電話帳で彼女の電話番号を調べてみることにした。ロレッタの住むカルデッラという小さな集落には昔は20人前後住んでいたようだが、現在ここに住むのは彼女一人だ。ペラペラとページをめくると、あるある、良かった。もちろん携帯電話などは持っておらず、家の固定電話しかない。これではまるで片思いの男の子に電話を掛けたいが緊張してしまう少女のようではないかと思いながら、ええい、ままよと思い受話器を取った。

「もしもし、……ユキコ? ああ、あのうるさい日本人の。うん、うちに来たいって? 何のために?……うん……まあいいよ。でも質問攻めはごめんだよ。やることは山ほどあるからね。いつ来るの?……明後日の午後2時ならいいよ。はいはい、じゃあね、チャオ」

ガチャン、と電話を切られたときの喜びは、明るい希望に満ちていて、思わずやった!(Evviva!)とイタリア語で叫んでしまった。
決してうれしそうではなかった彼女の声だったが第一関門突破だ。断られなかっただけでもよしとしよう! と思った。その日はわくわくとドキドキでなかなか眠れなかった。(つづく)

(写真提供:林由紀子)

【ラファエロの丘から】http://www.collinediraffaello.it/
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【はやし・ゆきこ】
1999年からイタリア在住。現在はマルケ州のアペニン山麗で暮らす。ファエンツア国立美術陶芸学校卒業。陶芸家として現代アートの制作に携わる傍らマルケ州をはじめとする中部イタリアの美術工芸、食文化、薬草文化などの学びと体験の旅をコーディネートする「ラファエロの丘から」を主宰。2018年、現地の食の歴史家や料理家とともにアソシエーション「Mac Caroni」を立ち上げ、消えゆくマルケ州の食文化を継承するための活動にも尽力している。近年は植物民俗学的視点からの薬草文化を研究、近郊の山で学びのフィールドワークを進めている。京都芸術大学通信講座非常勤講師。
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