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美しいくらし
山の魔女が紡ぐイタリア薬草暮らし 「ラファエロの丘から」主宰
林 由紀子
第16回  ネローネ山に生きたルネサンスの植物学者・その2
さて前回のお話で、コスタンツォ・フェリーチを取り巻く物語が、この地域でちょっとしたムーブメントになりつつあることを予告した。それは彼の生誕500周年にちなんだ、ある出来事だった。

ここアペニン山脈周辺は、小さな村や集落が多い地域で、若者たちは職を求めて海岸線の大きなまちへ出ていきやすく、過疎化が進みやすい傾向にある。そこで州は対策として、地域の特色や、そこにしかない文化的リソースを戦略的にプロモーションし、独自のツーリズムを生み出すプロジェクトを州の予算で支援する仕組みを設けた。この支援策を活用したプロジェクトの一つとして、2025年のフェリーチ生誕500周年を記念して〈コスタンツォ・フェリーチアカデミー〉なるものが誕生したのだ。

この地で活躍した彼を世に広めるべく、アカデミーを創立したのは地元の起業家たちだ。彼らは、この地域におけるロレッタの存在が薬草文化を広める促進剤になっていること、そして幻の植物学者であったフェリーチが、500年の時を経て再びスポットを浴びていることに着目し、文化的イベントを生み出そうと動いていた。その中で、プロジェクトにどのように息を吹き込めるかを語り合う集まりが開かれることになり、この地で植物に何らかの形で関わりながら、薬用、食、アート、工芸など植物民俗学を包括するフィールドワークを行っている人物たちが集められた。ロレッタはもちろん中心人物として、私も恐縮ながら声をかけてもらい、十数人のシェフやクリエイターたちが集い、それぞれの立場から植物との関わりやアイデアを語り合った。

私が驚いたのは、ロレッタがこのような集まりに参加してくれたことだった。呼ばれれば足を運び、進んでとまではいかないが、彼女なりに私たちをサポートしようとしてくれた。人嫌いで有名だった彼女も、地域のエネルギーを感じているのか、はたまた訪ねてくる人の熱気にあてられて諦めの境地に至ったのか、または彼女が丸くなったのか、温かいまなざしで見守ってくれているように感じたのだ。それはまるで、これからこの地で植物への愛を引き継いでいく者たちに、「みんなまだまだひよっこだけれど、まあせいぜい頑張れよ」と励ましの言葉をかけているようにも見えた。いつもの辛辣なトーンは健在だったが、それはとても気持ちの良いものだった。

この日を起点として、これまでにフェリーチの足跡をたどるいくつかのイベントが行われてきた。昨年末(2025年末)はカンファレンスも開かれ、ロレッタやコスタンツォ・フェリーチアカデミーのメンバーが登壇し、フェリーチが残した研究の希有さや、彼自身の人間性についてディスカッションを行った。大勢の前で話をするロレッタを見るのはそれが初めてだった。ロレッタは“ネローネに住む薬草の魔女“として巷ですっかり知られた存在で、イベントには噂を聞きつけた人々が大勢集まった。200席もあった席はあっという間に埋まり、多くの立ち見が出たほどだ。

200人を超える聴衆が集まったカンファレンス会場


ロレッタは緊張する様子もなく、「200人の聴衆なんてジャガイモと同じ」といったふうに、フェリーチへの思いや彼のネローネ山でのフィールドワークについて、いつも通り淡々と穏やかに話していた。この日はコスタンツォ・フェリーチアカデミー副会長のジュゼッペさんも一緒に登壇し、アカデミーのリサーチ報告をしつつロレッタと意見交換を行ったが、どう見てもジュゼッペさんは学者、ロレッタは山の仙人といった風情で、二人が並んだ様子はどこか異空間的な不思議さがあった。でも、確かにそこには新しい風が吹いていた。ネローネ山を取り巻く魅力的な人々が集まり、植物というテーマを通じて新しいエネルギーが生まれてきている。言い換えれば、人々はいま、植物という存在のポテンシャルを改めて見つめ直すことに、必然性を感じているのかもしれない。 そんな熱気にも近いものを感じ取った。

ステージで話すロレッタ。左がジュゼッペさん

フェリーチの手紙を紹介するスライド


この日スライドで、フェリーチがアルドロヴァンディに送ったオリジナルの手紙の写真を見た。ボローニャ大学図書館に所蔵されている貴重な文化財だ。今までさまざまな図書館で植物の古書たちを見てきたが、手紙を閲覧したことはない。私がコピーして読んだ本はもちろん印刷物なので、オリジナルの手紙の質感までは伝わってこなかった。
500年前の手紙たちは、どんな紙に、どんなインクで書かれているのだろう。当時の筆跡や紙質に直に接するとは、どんな感覚なのだろう。手紙からはきっと、フェリーチの情熱が伝わってくるのではないか……。好奇心が止まらなくなった私は、ボローニャ大学図書館に許可を取り、閲覧しに行くことにした。イタリアには、学者や研究者、ライターなどに対し、全てではないものの、図書館所蔵の文化財レベルのアンティーク本を閲覧させてくれる、とても寛容なシステムがある。

図書館は古書の閲覧にふさわしい、異次元のように美しい場所だった。そういえばロレッタも以前はよく図書館でいろいろな本の閲覧をしたと言っていた。きっとここにも来たんだろうなと思っていると、お願いしていた本が運ばれてきた。少し緊張しながら、1冊の本として製本された手紙の束を、1枚1枚めくっていく。手漉きの紙や、滲んだインクの色、手紙の封に使われたシーリングスタンプの跡が時代を感じさせ、フェリーチの筆跡を眺めていると、500年前に引き戻されていく気がした。紙は当時の手漉き紙で、フィリグラーナと呼ばれていたものが使われている。その上にびっしりと並ぶ文字は、滑らかな筆記体で書かれていて、私でも解読できる文章も多い。ネローネ山と出会い、ロレッタと出会っていなければ、決して見ることのなかった500年前のある植物学者の手紙。それは本当に感慨深い体験で、植物の名前やネローネ山の記載を見つけながら、私はにわかに興奮していた。

フェリーチの筆跡がよく分かるオリジナルの手紙


せっかくボローニャ大学図書館に来たのだからと、私は他にもさまざまな本草書を閲覧した。アルドロヴァンディが手がけた本草書には、当時の貴族お抱えの画家たちによる力作の植物画が描かれており、それはそれはため息が出るほどの美しさに、時間が過ぎるのを忘れて見入った。当時の時代背景、人物同士の繋がり、文化の質の高さが本の手触りから伝わってきて、憧れに近い感情さえ湧いてきた。もし、タイムスリップすることができるなら、彼らと一緒にネローネ山を闊歩してみたい――そんな夢想がふと頭をよぎった。

初めてロレッタの家のドアを叩いた日は、こんな宝物のような本と向き合える日が来るとは全く想像できなかった。緑の細い糸に引かれるように、私の心はこの世界の虜になってしまった。植物や薬草を当時の植物学者のまなざしで垣間見ることは、人と植物の関わりの歴史に触れること。言ってみれば、生きた植物民俗学を体感することと同じだ。控えめに言っても、素晴らしすぎて目頭が熱くなる。
“やっぱり、ロレッタはただものではないのよね”と、私は誰にも聞こえないよう、図書館の椅子で一人喜びを隠せずつぶやいていた。(つづく)

ボローニャ大学図書館

アルドロヴァンディの本草書


(写真提供:林由紀子)

【ラファエロの丘から】http://www.collinediraffaello.it/
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【はやし・ゆきこ】
1999年からイタリア在住。現在はマルケ州のアペニン山麗で暮らす。ファエンツア国立美術陶芸学校卒業。陶芸家として現代アートの制作に携わる傍らマルケ州をはじめとする中部イタリアの美術工芸、食文化、薬草文化などの学びと体験の旅をコーディネートする「ラファエロの丘から」を主宰。2018年、現地の食の歴史家や料理家とともにアソシエーション「Mac Caroni」を立ち上げ、消えゆくマルケ州の食文化を継承するための活動にも尽力している。近年は植物民俗学的視点からの薬草文化を研究、近郊の山で学びのフィールドワークを進めている。京都芸術大学通信講座非常勤講師。
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