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美しいくらし
山の魔女が紡ぐイタリア薬草暮らし 「ラファエロの丘から」主宰
林 由紀子
第21回 ロレッタの花物語
春から初夏にかけて、ロレッタの庭やネローネ山は花園になる。ネローネ山の頂上付近は風が強く、そんな環境でも生育できる樹種だけが森を形づくり、その森に守られるようにしてさまざまな植生が生まれている。前回お話ししたクマネギの群生と出会えるのも、そうした場所だ。反対に樹木のない山の上の平原には、岩山の上のわずかな表土を頼りに生育する野生の花々が咲き乱れ、さながら楽園のような景色を見せてくれる。特に5月から6月初頭に山頂を訪れると、まさに夢のような花畑に出会うことができるのだ。

野の花で溢れるネローネ山の草原


野生の花々の魅力は無限だ。幾通りもの自然の造形が生命力の限りに開花し、その形、その色になった神秘を感じずにはいられない。地面に這いつくばって一つひとつの花を観察しているとあっという間に何時間もたってしまうほど、その種類は豊富だ。そういえばロレッタと一緒に初夏の花畑を見ていた時、あまりの美しさに感嘆している私の横で、彼女がこんなことを言っていた。

「当たり前だけれど、花は生殖器なんだよ。我々の目にはただきれいだの可愛いだのと映るかもしれないけれど、花は種を残すために懸命に咲いてアピールしているのさ」

確かに分かってはいたことだが、ロレッタに言われるとなんだか妙に腑に落ちたのを覚えている。それからは何気なく花を見ていても、彼らのアピールがビシバシと伝わってくるようになった。花の美しさを感じる前に、ドギマギしてにわかに興奮してしまう自分がいる。栽培種の花にはあまり興味を持たなくなり、野生の花に恋心ともいえる片思いのような不思議な気持ちを抱くようになった。同じ生き物として繁殖しようとする本能が、美しい姿や色、香りを作り出す。私自身も、特に出産して母親になってからは、見えなかったものが見えるようになった感覚がある。読者の皆さんはどうだろう。

ロレッタの庭もそれはそれは生命力に溢れている。その昔、中世の修道院では巡礼者を介抱するための薬草を育てる庭が作られていたが、ロレッタの庭はそんな修道士の庭のワイルドなバージョンだ。植物たちは自由に切磋琢磨して自分の居所を見つけ、そこに居座るといったふるまいをする。人間によって作られた仕切りや生垣はない。整った人工的な庭が好きな人から見ると、何の手入れもされていない荒れ庭に映るかもしれないが、言ってみればそこはロレッタの哲学の庭なのだ。

ロレッタの庭とダマスクローズ

可憐なエルダーフラワー

5月中旬から6月にかけては、ロレッタの庭も花園と化す。ダマスクローズは毎日たくさんの花を咲かせ、リキュールになったり薬草茶になったりする。可憐な青い花が目を引くボリジもまた薬草で、その花はお酢の香りづけに、葉は食用に使われる。

エルダーフラワーもこの季節の主役となる花の一つだ。バラと同じく、一気に咲いてしまうのではなく少しずつ開花する特性があるので、あまり慌てずに摘むことができる。気持ちに余裕を持って摘めるといえばそうなのだが、花の収穫は花びらが乾いているときが理想的なので、明日摘みに行こうと思っても雨が降ってしまえば見送りとなる。雨水に当たると香りも飛ぶし、そのあと2日くらいは水分が乾くのを待たなければいけない。ベストタイミングで花を摘むのは意外と難しいものなのだ。

このエルダーフラワーという植物は、イタリア語ではサンブーコと呼ばれるが、近年のボタニカルブームでコーディアルと呼ばれるシロップが有名になり、一気に知名度を上げた。だが甘いものが好きではないロレッタは、エルダーでシロップは作らず、薬草茶用にドライにしたり、お酢の香りづけに使ったりしている。

「サンブーコが一番初めに古書に記述されたのは大プリニウス(古代ローマの博物学者)の博物誌だったかね。古代ローマ時代から変わらずに使われてきた植物だよ。チェルトジーノ派の修道士が花と実のエッセンスを入れたサンブーカというリキュールを作っていた歴史から、一気にリキュールの原材料として有名になったんだ。あたしからすると、シンプルにはちみつとレモンで味をつけた水に、花を入れて香りを移す飲み方が一番だと思うけれどねえ」

いつかロレッタがそうつぶやいていたのを思い出す。今ここに咲くエルダーと2000年前に生きた大プリニウス……時間軸が吹っ飛びすぎて笑えたのを覚えている。
この国のすごいところは、とにかく古い文献がさまざまな形で残っていることだ。植物一つとっても、いや、まさに植物は重要で聖なる存在だからこそ、博物誌、本草書、医学書、農学書などをさかのぼり、かつての姿を知ることができる。紀元前からどの植物がどのように使われ、どのような解釈をされていたかを、文献を通して覗き見ることができるのだ。

すべての植物が医学、農学、文学、占星術、錬金術などの古代の学術とつながっていて、人と植物が織りなす世界は宇宙のように広い。エルダーフラワーの話にしても、紀元後すぐの大プリニウスだなんだという偉大な名前が飛び出し、スケールが大きいことこの上ない。時間軸が千年単位でぐるぐる回るものだから、私はいつだってタイムマシンに乗っているような気分になる。そんな感覚を与えてくれたのはまぎれもなくロレッタであり、そのことへの敬意の念は、私の心にいつも灯り続けている。私にとって絶対になくてはならない、大切な感覚だ。

ロレッタとのおしゃべりの時間は楽しい


この時期ロレッタのもとには、彼女のダマスクローズを摘みたい人たちが毎日入れ替わりでやってくる。彼女の庭には何百という植物がほぼ野生の状態で共存しているが、今の季節の主役はこの鮮やかなピンクの貴婦人だ。その昔、廃墟になった古城の庭で生き残っていたものを1株だけ連れ帰ったところ、ここまで広がったという。皆ロレッタのダマスクローズは特別なのだと、なんとなく心のどこかで思っている。私はローズシロップや発酵させたスプマンテという飲み物が好きで、毎年作っているが、ロレッタのローズを使うと格別な味になる気がする。

ダマスクローズの咲く時期にお客さんがやってくると「籠は持っているのかい?」とロレッタは尋ねる。もちろん私も籠を持っていそいそと摘みに行くメンバーの一人だ。皆それぞれ、リキュールにしたり、シロップを作ったり、ドライの薬草茶に混ぜたり、マッサージオイルを作ったりと思い思いの手仕事に使う。

先日、いつものようにダマスクローズを摘みに行くと、ロレッタの庭は数日の雨で爆発的に膨張した緑で溢れかえっていた。数日前に別のメンバーが摘みに来た跡がかろうじて分かる以外は、足の踏み場もないほどだ。踏んではいけないものだらけの、罰ゲーム的バラ摘みともいえる(笑)。

「やれやれ、こう一気に暑さがやってくると、花も咲き急いで変な咲き方をするからねえ。慌てふためいて、一気に咲いて一気に散る。朝咲いたローズは、夕方にははらりと散っていってしまう。香りは朝、太陽が出て露が乾く時間が一番香るねえ。アッ、ユキコ、そこはまだ花が咲いていないニゲラの群生と、オオアカバナの新芽があるから気を付けて! もしも踏んだら今後一切立ち入り禁止になるからね!」

コロポックルのようにしゃがむロレッタ

私はいつものようにあれこれお叱りを受けながらも、その日咲いたすべてのダマスクローズをしっかり摘ませてもらった。私を監視しながら庭にしゃがむロレッタは緑に埋もれ、アイヌの伝承に登場する小人・コロポックルのようになっている。私はこんな時間がいつまでも終わらないでほしいと、ひっそり心の中で願っていた。(つづく)

(写真提供:林由紀子)

【ラファエロの丘から】http://www.collinediraffaello.it/
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【はやし・ゆきこ】
1999年からイタリア在住。現在はマルケ州のアペニン山麗で暮らす。ファエンツア国立美術陶芸学校卒業。陶芸家として現代アートの制作に携わる傍らマルケ州をはじめとする中部イタリアの美術工芸、食文化、薬草文化などの学びと体験の旅をコーディネートする「ラファエロの丘から」を主宰。2018年、現地の食の歴史家や料理家とともにアソシエーション「Mac Caroni」を立ち上げ、消えゆくマルケ州の食文化を継承するための活動にも尽力している。近年は植物民俗学的視点からの薬草文化を研究、近郊の山で学びのフィールドワークを進めている。京都芸術大学通信講座非常勤講師。
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