最終回 工夫と苦労を重ねてきた塩づくりの歴史(その2)
◆どうして専売制度が導入されたのか日本の塩を語るうえで欠かすことができない出来事が、約1世紀にわたって政府が実施した塩専売制度です。なぜ塩が専売の対象になったのでしょうか。制度導入の時代背景から塩の完全自由化に至るまで、塩を取り巻く環境の変化を解説します。
専売制度が始まる明治38年(1905年)までは塩の価格は塩問屋の相場によって決まっていました。専売計画の発端となったのは、明治27年(1894年)に起きた日清戦争です。その影響を受けて、国内の物価や人件費が高騰し、当時1俵(約60キロ)5000円程度だった塩の価格も明治29年には5万円、さらに翌年には10万円にまで跳ね上がりました。しかも戦後に植民地化した台湾や青島から安価な塩が大量に流入し、国内の製塩事業は窮地に立たされてしまったのです。
価格や生産量が安定せず、手間もコストもかかる日本の製塩は大規模かつ効率的な他国の生産力にはかないません。それだけではなく、当時主流だった差塩はミネラルを多く含むために湿気を吸ってしまい、時間の経過とともに溶けて目減りしてしまう性質から、遠隔地への輸送に適していませんでした。そのうえミネラル含有量が多く、工業用としては使いづらいという品質面の課題も抱えていたのです。

旧日本専売公社赤穂市局。塩専売事務を担う塩務局の庁舎として明治41年に建てられた
そうした背景を踏まえ、「塩は国の存亡に関わる重要な物資であるから、自国の塩を保護するべきである」という政治家や有識者らの意見が増え、製塩事業者からも同様の要望が上がるようになりました。しかし、塩問屋や小売店からは商売の自由度が奪われることを危惧して反対する声が多く、政府の中でも意見が割れる状態が続いていました。
事態が急変したのは、明治37年(1904年)に勃発した日露戦争でした。戦争には膨大な費用がかかるため、戦費の調達に苦慮した明治政府が、国内塩業の基盤整備と財政収入の確保を目的として、翌年、塩の専売制度の導入に踏み切ったのです。大蔵省主税局に専売事業課、専売技術課を置き、塩の専売業務を管轄することになりました。
◆昔ながらの塩復興の立役者こうして実施された専売制度のもと、製塩の効率化を図る行政指導が行なわれ、それまで全国各地にあった塩田は徐々に縮小していきました。大きなターニングポイントになったのは昭和47年(1972年)に施行された第四次塩業整備事業です。これまでの伝統的な製塩方法は禁止され、従来の方法に比べて格段に生産性がアップしたイオン交換膜を使った製塩だけが許可されるようになりました。これにより当時全国に60カ所以上あった塩田は石川県能登市の揚げ浜式塩田のみを残して全て廃業となり、日本の製塩業は全国7カ所の製塩会社に限定。塩化ナトリウム純度70~85%のミネラルを多く含む昔ながらの塩は無くなり、国内で流通する塩はイオン交換膜で製塩された塩化ナトリウム純度99%以上の塩だけになりました。「塩とは塩化ナトリウムのことである」という考え方が国民全体に浸透したのも、イオン交換膜製法に切り替わった当時の政策が影響しています。
第四次塩業整備が実施されてまもなく、こうした事態に異を唱える消費者たちの間で「塩の品質を守る会」が結成され、塩田の存続や自然塩の流通を求める運動が活発化しました。同会が政府に対して提出した「国内天日製塩廃止に対する抗議文」には、約5万人もの署名が集まり、政府に対して影響力を発揮しました。この抗議文で、「イオン交換膜製塩を数か年にわたる動物実験や生体実験に使用して、肉体的・精神的機能になんの障害も生じないという資料を提示すること」「そのような資料がない場合、ただちに実験を開始し、安全性が確認されるまでは食塩は国民の食用にせず、工業用塩として使用すること」「実験が終了するまで国内の塩田製塩を存続し、塩田塩の購入希望者に対しての購入の道を開くこと」を求めました。
「塩の品質を守る会」は「日本自然塩普及会」と名を改め、昭和48年に「伯方塩業株式会社設立準備委員会」を発足、同時に専売公社に対してイオン交換膜以外の製塩方法による塩(特殊製法塩)の製造を申請しました。同年、沖縄ではのちに株式会社青い海の母体となる「青い海とマースを守る会」が発足し、同じく政府に対して製造の申請を行ないました。これに対し専売公社は、専売公社の輸入した塩を原料とした再製加工塩に限っての製造を許可。「伯方の塩」「赤穂の天塩」「シママース」などの再製加工塩が誕生しました。
国産海水100パーセントの塩の復活を目指すべく活動を継続し、研究を続けたグループもあります。昭和47年に日本の自然塩復活の立役者である谷克彦氏たちの尽力により「食用塩調査会」が発足。これは現在の海の精株式会社(東京都・伊豆大島)の母体となります。有志の若者たちが集まって伊豆や沖縄で「塩つくりワークキャンプ」を開催し、平釜製塩法や枝条架式塩田を使った純国産の天日塩づくりを行いました。その4年後には、東京都の伊豆大島に常設の製塩研究所を開設し、本格的な自然塩製造実験を開始しますが、製塩した塩はすべ廃棄するように定められていたのです。しかしその後、名称を「日本食用塩研究会」と改めた同会は、会員限定を条件に専売公社より塩の配布が許可され、この塩はのちに「海の精」と名づけられました。純国産塩復活の第一弾となった「海の精」を求める人はどんどん増加し、専売制度が終わるころには「日本食用塩研究会」の会員数は100万人にも達したそうです。
こうして先人たちの圧倒的な熱量と行動力が政府を動かし、塩を自由に製造・販売できて購入できる時代へと導いたのです。
◆塩は国力を支える柱政府が4度も行なった専売制度、そしてイオン交換膜を用いた塩化ナトリウム純度の高い塩のみが流通した時代について、皆さんはどのように感じているでしょうか。塩の生産・流通を管理した国の政策に批判的な意見を持っている人も多いと思います。味や製法がバラエティーに富んだ塩の世界に足を踏み入れた当初は私もそうでした。でも今は違います。イオン交換膜製塩法の研究に人生をかけてきた塩の道の大先輩から次のようなお話をうかがったとき、私の認識が変わったのです。
「イオン交換膜塩がなかったら、競争力のない日本の塩は海外の塩に負けて産業が衰退して、生産できなくなっていた。そうなったら国は終わり。製法を効率化すれば、塩づくりという過酷な重労働の負担を大幅に軽減できて、それがきっと製塩事業者のためになる。そう信じて研究を続けてきました」
全国の塩田が廃止となり、伝統文化が失われ、職を失った人が大量にいたこと、消費者の塩の選択肢が奪われてしまったことなど、制度の進め方にはさまざまな問題点があったことは事実です。しかし、専売制度という国策によって日本の塩づくりの効率化と安定供給が実現された、国内の塩産業が守られた、つまり国が守られたことは紛れもない事実であると思っています。(おわり)
――塩の製法、味や形、そして長い歴史に至るまで、ソルトコーディネーターの青山志穂さんがプロの視点で解説してくれた本連載が、ついに最終回を迎えました。生命の維持に不可欠な塩。しかし、健康面ではときに「悪者」と見なされ、その本質や重要性が見過ごされてしまうこともあるのではないでしょうか。だからこそ、塩それぞれの背景に少し目を向けてみては? 一つひとつの物語や個性を知ることで、料理がもっと楽しくなり、味わう時間がこれまで以上に豊かに感じられるはずです。(編集部)(写真提供:青山志穂)
★青山志穂さんが訪れた全国各地の製塩所を紹介する連載「にっぽん塩めぐり」は
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