能と言いますと、静かで格調高い舞姿を思い浮かべる方が多いはずです。が、これまで取り上げてきた源平ゆかりの能の人物には、平景清、源朝長、建礼門院など、ほとんど舞踊部分を欠く特殊な形態の能の主人公になっている例が多いのです。
その中で最も「渋い」人物……景清の勇壮、朝長の悲哀、建礼門院の優美とは全く異なる、「人生そのものの味わい」だけで、見る者を感動の
坩堝に陥れる特異な主人公。
それが、源義経に命を捧げ花と散った勇将・継信と忠信の母、佐藤の老母であり、彼女をシテとする能が傑作〈摂待〉です。

月岡耕漁『能楽図絵』より能〈摂待〉
源義経が正体を隠し、同山(同行の山伏)の中に紛れているのを、それぞれが誰であるか至誠を
もって探り当てようとする佐藤の老母(左下の尼)と、その孫・鶴若(左下の少年)。右上に9
人居並んだ中央が義経である。このあと老母も鶴若も次々と美事に言い当て、一同は心から許し
合う感動の対面となる。
兄・源頼朝と不和になった義経は、奥州・平泉へ逃亡の途上、陸奥国に差し掛かる。屋島合戦で義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信とその弟・忠信の母・老尼は、当地の実力者である。老尼は御大将の苦難を知り、山伏に変装して逃亡する一行を探し出し、援けるべく、屋敷のかたわらに「山伏摂待」の高札を立てている。
隠密の道中、これに行き逢った義経一行は、やり過ごしてはかえって怪しまれると悟り、身の上を隠して佐藤の邸宅に宿る。「一行12人」の人数からそれと悟った老尼は一度も会ったことのない郎党たちを、継信の遺児・鶴若は義経その人を、次々と言い当てて、一同は感動のうちに名のり合う。
武蔵坊弁慶の口から明かされる屋島合戦での継信の最期。悲嘆に沈む老尼は気を引き立て、心を籠めて一同をもてなす。鶴若は奥州まで供をすると言い出して聞かないが、弁慶はじめ一同になだめられる。
やがて、義経一行は出発。佐藤の老母は感無量でこれを見送る。 「摂待=接待」とは、修行者や巡礼者に飲食や宿舎を無料提供すること。現在も盛んな西国八十八ヶ所の「遍路宿」もその一形態です。義経一行が「作り山伏(偽装したニセ山伏)となって逃避行していることは、弁慶が主役として活躍する能〈安宅〉でも触れたとおりですが、〈摂待〉はその後日譚というわけです。
佐藤氏は陸奥国
信夫(現在の福島県)の土豪。歌僧として名高い西行も同族です。前途有望な若武者を2人も先立てた老母は、「継信の遺児・鶴若を護り、古来の名族の屋台骨を支える気丈な老婦人」という設定です。
が、義経にしてみれば、鎌倉の兄・頼朝による追撃の激しい当節。いくら味方の佐藤家とはいえ、未知の人物をはじめから信用はできません。弁慶の知略もあって、義経は供の山伏に紛れ、身分を明かさず摂待を受けることになります。
老母はすぐにピンと来ます。が、証拠がなくては信用してもらえません。そこで老母は、会ったこともない一人一人の素性を言い当てようとするのです。
兼房/かやうに物申す山伏をば、どこ山伏と御覧じて候ふぞ。
老母/まづ、ただ今もの仰せられつる客僧は、この御供の内にては一の老体にて御入り候ふ
な。いで、この御供の内に年寄りたる人は誰そ……や、今思ひ出だしたり。判官殿の御傅。
増尾の十郎権頭、兼房山伏にてましますな。 増尾兼房は義経の傅(幼少時から世話役の側近)ですから、一行の中で一番の年配。後に俳聖・芭蕉の供をして『奥の細道』の旅に出た門人・
曽良が、義経に殉じて亡くなった彼を偲び「卯の花に兼房見ゆる
白毛かな」と名吟を手向けているほど、世上よく知られた人物でした。老母は、息子たちから聞いて熟知していた情報に基づき、迷いなく言い当ててしまいます。
中でも感動的なのが、次の発言です。
鷲尾/これは出羽の羽黒山より出でたる客僧にて候。
老母/いや、これは播磨の人の声にて候。それをいかにと申すに、この姥はもと播磨の者。
十三の年、継母を怨み都に上り、故庄司殿と契り、継信・忠信をまうけ、今かく憂き目を見
候へば、ただ恨めしうこそ候へ。されば、わが国の人の声なれば、などかは知らで候ふべ
き。いで、この御供の内に播磨の人は誰そ……これも思ひ出だして候。判官殿、鵯越とや
らんを通り給ひし時、狩人の姿にて参り合ひ、そのまま名字賜はり、今までも御供と聞こえ
し、鷲尾の十郎山伏にて御渡り候ふな。 徒手空拳で兄・頼朝に馳せ参じた義経には、はかばかしい累代の家臣が皆無でした。比叡山の山伏・弁慶を筆頭に、みな、義経個人の人がらに
惹かれて集まった多士済々、悪く言えば、
有象無象の人材です。もともと「猟師上がり」の鷲尾十郎を、その故郷である「播磨の人の声」(現在で言えば「兵庫弁・兵庫なまり」)で判別してしまうのは、老母自身が播磨出身だったからです。
それにしても、どうでしょう。昔の13歳と言えば今の12歳。小学6年生か中学1年生の少女が、継母との折り合いが悪くて家出。ただし、無分別にグレたわけではありません。彼女ははっきりとした自意識と自活力を持ち、社会・経済の中心地である京都へ単身乗り込みます。ほどなくみずからの手で就職口を見つけ、やがて東国屈指の土豪の後継者と恋に落ちて結婚。夫に従って現地へ乗り込み、武勇に優れた男児を2人まで産み落とし、夫の亡きあと今や一族の大黒柱として誰からも慕われ、頼られている……数ある能の女性のうち、これほど感動的な「女の一生」を背負う人物は、他に一人もいません。
老母のこの人生は、実は、誰だか不明な能作者の独創と思われます(史実では継信・忠信の生母は、逃亡する義経が頼った名族・奥州藤原氏の姫君と伝えます)。この一事だけでも、能〈摂待〉がたぐいまれな傑作ドラマであることが分かるでしょう。
老母の眼力は、このあと、智謀に優れた弁慶をも一目で見分けてしまいます。鶴若にはそうした人生知がないにもかかわらず、さすが忠臣の遺児だけあって、少年の直感によって過たず義経を見分けます。
このあたり、役者たちは舞台にほぼ座ったきりですが、ドラマの展開の面白さによって退屈の感は微塵もありません。
ようやく身の上を明かした義経一行に、老母は尋ねます。「継信の最期について、潔かったとも、そうでなかったとも、風聞はいろいろですが、本当のところはどうだったのでしょう」。
これに応え、弁慶が親身に語り始めます。ワキ・弁慶役者の語リ芸の極致が堪能できる名場面です。
弁慶/さても、屋島の合戦。今はかうよと見えしに、門脇殿の二男・能登守教経と名のつ
て、小船に取り乗り、磯間磯間近く漕ぎ寄せ、いかに源氏の大将・源九郎判官義経に「矢、
一筋参らせん、受けてみ給へ」とののしる。かう申すを初めとして、みな御矢面に立たんと
せしが、何とやらん心遅れたりしところに、継信は心勝りの剛の人にて、御馬の前に駆け塞
がつて、「義経これにありや」とて、につこと笑つて控へたり。さてその時に教経は、引き
設けたる弓なれば、矢坪を指してひようと放つ。過たず、継信が着たりける鎧の胸板、押
付、揚巻、かけずたまらずつつと射通し、後ろに控へ給ふわが君の御着背長の草摺にはつた
と射留む。さてその時に継信は、馬の上にて乗り直らん、乗り直らんとせしかども、大事の
手なれば堪へずして、馬より下にどうと落つ。やがてわが君、御馬を寄せ、継信を陣の後ろ
に舁かせ、「いかに継信、いかにいかに」とのたまへども、たんだ弱りに弱つて、つひに空
しくなる。なんぼう、面目もなき物語にて候。 源平両軍の勇将のうち、最強弓で知られた平教経。「矢、一筋受けてみ給へ」と挑まれて、卑怯にも逃げるわけには参りません。さりとて、義経自身が受けて立てば戦死は必定。弁慶以下だれでも矢面に立つ覚悟はあったものの、咄嗟のことでみなひるんだところ、継信が間髪を容れず「私こそ義経だ!」と、ニッコリ笑って颯爽と身代わりに立ちます。その刹那、鎧越しに継信を射抜いた矢は何とその胴体を突き抜け、背後にいた義経の鎧に刺さったというのですから、実に言葉もないほどモノスゴイありさま。それでも健気に、馬に乗り直ろう、乗り直ろうとして、ついに落馬し、義経の必死の呼び掛けも空しく絶命した勇士の壮絶な最期。このあと、弟・忠信が教経の寵臣を討ち取って、美事、兄・継信の仇を討った胸のすく物語が続きます。
老母はこの間、舞台にただじっと、静かに座っています。名手ともなれば、聞くに堪えない悲話を聴き留めつつ、はるか離れた戦場に散ったわが子の最期に心だけでも寄り添おうとする母の、広大無辺の愛情が舞台一杯にあふれます。
私はいつも、この「継信最期」の語リに接すると、見ていてどうにも涙が流れてたまりません。それほど深い慟哭に満たされた、感動的な場面なのです。
この後、酒宴となり、かいがいしく酌に立つ鶴若のあどけない姿が再び涙を誘います。
やがて夜明け。義経一行との永遠の別れまで、シテ・老母が舞台で動く範囲は、全曲中ほとんど畳2畳か3畳に過ぎないのではないでしょうか。
それほど抑制された静けさの中で、人の命の尊さと母の愛の深さを語り尽くす能〈摂待〉。至難の能ゆえ上演の機会はごくまれですが、偉大な舞台に接すると、その感銘の深さは、実に比類ないものと申せましょう。(つづく)