元暦2年/寿永4年(1185年)の壇ノ浦合戦で平家の武将たちが海の藻屑と消え、あるいは捕縛後に残罪に処せられ、単純に「平氏が滅亡した」と考えられがちですが、それは事実と異なります。滅亡したのは、4年前に死去した清盛に連なる一族。ひとくちに武家平氏と言っても家柄・血筋はさまざまで、また、清盛一派の中に戦後も生き延びた武将はありました。
中で最も有名なのが平
景清でしょう。生没年を含めその生涯は実態不明。能では傑作〈景清〉と、あまり上演されない〈大仏供養〉(〈奈良詣〉)のシテです。

月岡耕漁『能楽図絵』より能〈景清〉
乞食の住む小屋を示す藁屋の作リ物(舞台装置)の中に立つ盲目の景清。面前に娘がいる
とも気づかず、はるか日向灘の夕潮の響きに耳を傾ける名場面である。頭を覆う角帽子
(すんぼうし)は、平家語りの琵琶法師として剃髪の出家姿であることを表す。
平家の勇者・平景清は一門滅亡後も生き残り、日向国(現在の宮崎県)に流罪となって老いの露命を繋いでいる。むかし景清が尾張国(現在の愛知県)熱田の遊女に産ませた娘・人丸は、今や鎌倉・亀ヶ谷の遊女として威勢を誇り、まだ見ぬ父を尋ねて九州に赴く。村人の情けにすがる琵琶法師に落ちぶれた盲目の景清と対面の叶った人丸は、今生の名残に屋島合戦の武勇談を所望。これを聴き終え、涙ながらに鎌倉へ帰って行く。 景清は俗に「
悪七兵衛」と呼ばれました。「悪」とは「豪胆・勇猛」の意味。武士として必ずしも悪い呼称ではないのですが、彼の場合は若き日に伯父と争って殺した経歴が伝えられますから「悪者」のニュアンスも加わっています。
とはいえ、当時の武士はいわば「殺人の専門家」。自ら手を汚さない皇族や貴族に代わって血なまぐさい責務を担い、裏切りを
厭わず、主君を替えることも当たり前。敵を倒し名を挙げ、命を懸けて所領を広げ子孫に伝えることが、同輩から尊敬される実績だったのです。
ただ、それゆえにと言うべきか、自身の欲得ばかりでなく信義・信念を貫いて武勇の志を全うする稀有な例があれば、「現実を超えた理想」として仰がれることにもなります。
平家滅亡後に敵将・源頼朝の暗殺を試みるも果たせず(先述の「奈良詣」は景清が狙った頼朝の東大寺参詣)、捕縛後、「源氏の時代など見るに堪えない」と観念し、われとわが目を
抉って盲目となった……芸能史に語られる景清の人生は波瀾万丈を極めます。
作者不明の能〈景清〉は、彼の末路を描くドラマです。
美貌を誇り歌舞音曲に巧みな遊女にも当時いろいろあって、浮草のような零細者もいれば、土地で一大勢力を誇り「
長(長者)」と仰がれる大物もいました。源氏の棟梁・義朝が平治の乱敗走の途中、愛妾でもある美濃国・
青墓の長を頼った逸話は有名です。長ともなれば、祖母、母、娘と職掌を継ぐ例があります。この能の人丸は生後すぐ景清の口利きで鎌倉・亀ヶ谷の長へ養女に出された、いわば幹部候補生。そんな「遊女界のエリート」が、生まれてから一度も会ったことのない父に会いたい一心で、はるばる九州の果てまで赴く……この設定だけでも、深いドラマの陰翳があります。
源平軍談は盲目の琵琶法師によって語り伝えられ、身分の上下を問わず愛好されました。この能では、源平合戦の勇士を琵琶法師に仕立てる趣向が効いています。何しろ合戦の当事者。
戦語りが真に迫ることは当然です。
しかし、語る景清の思いはまた違います。流刑地にあって物乞いの芸能者。盲目という弱点から人の施しにすがらねば生きていけず、
鬱々として楽しまない日々だったことでしょう。そこにいきなり実の娘の来訪。貧相な老僧姿で「私が父・景清だ」と名のれるでしょうか?娘と知りつつ、人違いを装ってやり過ごす場面に哀愁が漂います。
が、景清の素性は近在の者の教えによって人丸に露見。複雑な心を抱えた景清の怒りが爆発します。とはいえ、ここで村人の同情を失ったが最後、飢死あるのみ。心を鎮めた景清は、「いつものように平家軍談をお語り申しましょう」と詫びを入れます。
そこに取りすがる人丸。もはや逃げられない父と、逃がすまいとする娘。
景清は見えぬ目を娘に向け、「
御身は花の姿にて、親子と名のり給ふならば、ことにわが名も
顕はるべしと、思ひ切りつつ過ごすなり。われを怨みと思ふなよ(高名な遊女として全盛を極めるお前が、私と親子の名のりを上げなさると、死にぞこないの老兵・景清の名前までも世上に流布してしまうから、今まで断念して音信を絶っていたのだ。私を怨んでくれるなよ)」と静かに教え諭します。
ここはもう、涙なしでは見られない名場面。ドライで厳格な能には珍しく。目の見えぬ景清が、かわいい娘の身体をいとおしげに手で探る型さえあります。その娘が申し出る最初で最後の所望を
容れて、屋島合戦の手柄を語る景清。
年老いた英雄が渾身の力を
揮って一世一代の至芸を聞かせる戦語りの面白さが、この傑作の最後を飾る巨大なクライマックスを形づくります。
こうした能ですから、若手には全く手が出ません。老練な技巧が熟し、深い人生経験を積んだ名手によってのみ、能〈景清〉は真の姿を見せます。
齢90歳を過ぎて、舞わずに謡だけでしたが、根の生えたような古武士ぶりを示した宝生流の近藤乾三(1890~1988年)。自身も老後盲目に近かったにもかかわらず、鮮技と存在感で圧倒した喜多流の友枝喜久夫(1908~1996年)。明治生まれの亡き名手たちの名舞台が今も脳裏に浮かびます。
「男の一生」を凝縮した、能を代表する人生のドラマ。
その主人公として、伝説の勇将・景清はいまも烈々と生き続けています。(つづく)