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かもめアカデミー
能で読み解く源平の12人 明星大学人文学部日本文化学科教授
村上 湛
第8回 斎藤別当実盛
 世阿弥の開発した「修羅物」の能のうち、最も重厚で心を打つ偉大な傑作を一つだけ選ぶとすれば、疑いもなく〈さねもり〉だと私は思います。生への執着と、死に臨んでの潔さ。後世、形骸化して伝えられる「武士道」とはまったく異なる、地に足のついた、熱い血の通った古武士のいのちが脈々と生きづく人間ドラマとして、私たちの絶大な感動を呼び覚ます一曲です。


月岡耕漁『能楽図絵』より能〈実盛〉
能装束で紅(赤・緋色)は特別な色で若い役にしか用いず、老いた男役には縁がない。が、総大将・
平宗盛の特旨によって「赤地錦の直垂(ひたたれ=内着)」の着用を許され、白くなった髪や髭を黒
く染めて最期の戦に出た故事から、この能の後シテは老体でありながら必ずと言って良いほど華麗な
紅の装束を身にまとう。右上の色紙形に描かれているのは、若い武者に頼んで髭に墨を塗らせている
実盛の想像図である。


 全国に念仏を広める遊行上人(ワキ)が、加賀国・篠原で布教していると、日参する不思議な老人(前シテ)がある。往生確約の札を求めるかと思いきや、老人は200年あまり前にこの地で討死した斎藤別当実盛の霊だった。
 上人に導かれた信徒たちの唱える終夜の大念仏に引かれ、華麗な軍装で出現した実盛の霊(後シテ)は、白髪を黒く染め若やいで出陣し、木曽義仲軍と奮戦の果て落命したさまを見せ、死後の供養を願う。


 木曽(源)義仲は頼朝の同族。幼少のころ父・義賢が攻め殺された際、近臣・実盛に保護されて故郷に帰った過去がありました。つまり実盛は、もともと「源氏の武士」であり、義仲にとっては命の恩人だったのです。実盛はその後、平家に転じて重用され、本拠地・武蔵国長井庄(現在の埼玉県熊谷市)にちなみ「長井の斎藤別当」と呼ばれました。
 寿永2年(1183年)実盛すでに73歳。加賀国・篠原の合戦で平家軍が総崩れとなる中、実盛はなぜか一歩も引かず奮戦し、決して名のろうともせず、義仲の郎党・手塚太郎に討たれます。随伴者は1人もなく、下級武士かと思えば勇将格しか着用できない「錦の直垂」を身に着けている謎の無名戦死者……不審に思った光盛は首級を持参します。義仲の最側近・樋口次郎かねみつは首を見た瞬間、落涙。「ああ、これこそ斎藤別当実盛である」と慨嘆します。義仲の乳兄弟として共に育った兼光にとって、親も同然に親しんだ実盛。小児の時分、彼から言い聞かされたことがあったのです。「もし年老いて後、出陣することになったら、白髪頭ではみっともない。墨で黒々と染め、若やいで戦に出よう」……試みに池の水で首を洗うとたちまち墨は流れ落ち、白髪の老実盛だと知れます。義仲はじめ源氏の諸武士は実盛の決意を知り、泣かぬ者はありませんでした。  
 『平家物語』巻第7「実盛最期」の物語は後世、これを読む人に絶大な感動を与えます。親子ほど年の離れた実盛と義仲・兼光の親愛。運命の変転で敵味方に分かれた後も、人生の終わりに臨み、むかし親しんだ義仲に命を捧げ、首となって最期の対面を果たそうとした実盛の深意。その心意気を瞬時に見抜いて共感する兼光や義仲……戦場に生き、殺人を事とした当時の荒々しい武士たちの心に底流する「信義」の熱さ、美しさを、これほど高らかに讃える物語はありません。
世阿弥は『平家物語』をただそのまま、能に写すだけで良かったのです。ですが、能になったことで実盛は「永遠の命」を得ることにもなりました。源平の武将の中で格別に高い地位でも尊い血筋でもないにもかかわらず、後世、実盛ほど美事に顕彰され、愛された者はありません。

 この能は当時50歳ほどの世阿弥が応永21年(1414年)3月、ある事件に遭遇して作られたもの、と考えられています。一遍の血脈を引く時宗の指導者、他阿弥上人・太空(1375~1439年)が加賀国へ布教の折、念仏を授かった白髪の老人が231年前に死んだ実盛の幽霊だった……この噂は都でも知られて、「事実ならば希代のことなり」(『満済じゅごう日記』応永21年5月11日条)と記されています。将軍家側近の僧・満済は、かつて足利義満に愛された世阿弥も知る人だったはずで、同じ情報圏内にあった彼が時流に即した新作で人気を得ようと意図したことは充分想像できます。既に老齢を迎えていた世阿弥にとって「老体の修羅能」という新機軸は、自身演じてみたい魅力あるものだったでしょう。

  地謡/また実盛が錦のひたたれを着ること、わたくしならぬ望みなり。実盛、都をでし時、宗盛公
  に申すやう、「故郷へは錦を着て帰るといへるほんもんあり。実盛、しょうごくは越前の者にて候ひ
  しが、近年、御領に附けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき。このたびほっこくまかくだりて
  候はば、さだめて討死つかまつるべし。老後の思ひ出これに過ぎじ。御免あれ」と望みしかば、
  赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ。
  シテ/しかれば古歌にも、もみぢ葉を。
  地謡/分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん、と詠みしもこの本文の心なり。され
  ばいにしへのしゅばいしんは錦の袂をかいけいざんひるがえし、今の実盛は名を北国のちまたに揚げ、隠れ
  なかりし弓取の名は末代に有明の、月の夜すがら懺悔物語申さん。


 「本文」とは「故事来歴、古典に名高い前例」という意味。朱買臣は古代中国の政治家で貧困のうち苦学し、現在の浙江省、会稽の太守(知事)にまで出世した有名人。その古人を引き合いに出して、身分の上からは許されない「錦の直垂」をしにしょうぞくとして平家の総帥・宗盛に所望したのです。
 戦場・加賀は実盛の故郷・越前のすぐ隣。退却すれば済むものを、ただ一人残って討ち取られ、みずからの生涯に自分自身で幕を下ろした実盛。その心意気を知ってか知らずか、快く「錦の直垂」を与えた宗盛。首になった実盛を「もとの源氏の仲間」として敬意をもって迎え入れた「敵将」木曽義仲や周囲の武者。

 何人もの男たちの思いが交錯し、老将の心意気を美しく讃えて終わるこの物語。たとえ「いくさには、し疲れたり。風に縮めるぼくの力も折れて」討たれたにもせよ、実盛の「思い」は世阿弥の手によって輝かしく一曲の戯曲に昇華し、没後830年の現代のわれわれに絶大な感動を与えてくれます。(つづく)
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【むらかみ・たたう】
明星大学教授。石川県立音楽堂邦楽主幹。財団法人観世文庫評議員。演劇評論家。早稲田大学・大学院に学ぶ。文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考審査員、国立劇場おきなわ研修講師ほかを歴任。能の復曲・新演出・新作にも数多く携わる。朝日新聞歌舞伎劇評担当。日本経済新聞能・狂言評担当。著作『すぐわかる能の見どころ~物語と鑑賞139曲』(東京美術)、『村上湛演劇評論集~平成の能・狂言』(雄山閣近刊)。
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