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かもめアカデミー
能で読み解く源平の12人 明星大学人文学部日本文化学科教授
村上 湛
第10回 建礼門院
 伝本・系統によってはこれを欠くものもありますが、「かんじょうのまき」と称する1巻が『平家物語』の最後に置かれます。「灌頂」とは「頭頂に水をそそぐ」意味。キリスト教の洗礼がそうであるように、仏教でも入信・受法のしるしとして聖なる水を頭上に注ぐ儀礼を「灌頂」と称します。これが元となって「灌頂」が「免許皆伝」に転じ、琵琶法師の間では「平家琵琶の奥義として最終資格の伝授」を示すのですが、同時に、この巻にはある女性の「灌頂=出家」が説かれます。 
 その女性とは……平清盛の娘に生まれ、高倉天皇の后となり、安徳天皇を産み、平家滅亡をその目で見届けたけんれいもんいん・平徳子。彼女を主人公に据えた壮大な歴史劇が能〈大原御幸〉です。


月岡耕漁『能楽図絵』より能〈大原御幸〉
出家して洛北・寂光院に隠棲する建礼門院と2人の侍女。これは観世流の演出で、大藁屋の中に並ぶ
3人が阿弥陀三尊像のように並ぶ効果がある。このあと後白河法皇の急な御幸があるとも知らず、右
手前に置かれた手籠を携え、女院(中央)と大納言局(右)は山に分け入り、花摘み・蕨採りに出
かけるところである。


 壇ノ浦で平家滅亡後。安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)は生き残り、出家して、大原・寂光院に隠棲している。後白河法皇はにわかの御幸を思い立つ。
 山里で細々と暮らす建礼門院と侍女、大納言つぼねと阿波ないにょういんと局が出掛け、内侍が留守を預かる庵に法皇一行が訪れる。初夏ながら晩春の風情を残す美景をでる法皇の前に女院が帰庵。感無量の対面を果たす。平家流浪の辛苦を語る女院に、法皇は重ねて、安徳天皇最期のさまを尋ねる。
 やがて夕暮れ。法皇は都に帰り、女院は万感をこめてこれを見送る。


 退位後も上皇・法皇として院政をき、老獪な駆け引きで源平両家を手玉に取った策謀家・後白河院(1127~92年/在位:1155~58年)。その実子が高倉天皇(1161~1181年/在位:1168~80年)で、えいまいだったと伝えられる彼の生涯はすべて猛父の蔭でした。平家滅亡の翌年、後白河院の大原御幸は史実とされ(文治2年=1186年4月23日)、ここで対面した「しゅうとと嫁」の劇的な会話が「灌頂巻」の軸をなします。

 剃髪した円頂を包む頭巾を、能では「花帽子はなのぼうし」と称します。この曲では女院と侍女の3人に加え後白河法皇も多くの場合その扮装。他の能には見られない光景です。
 女院が花摘みに出た留守、法皇一行が到着します。先導する貴族は『平家物語』に見られない人物・万里までの小路こうじ中納言。ワキ方の大役です。

  ワキ/かくて大原に御幸みゆきなつて、寂光院のありさまを見わたせば、露結ぶ庭の夏草繁り合ひ
  て、青柳、糸を乱しつつ、池の浮草、波に揺られて、錦をさらすかと疑はる。岸の山吹咲き
  乱れ、八重立つ雲の絶間より山時鳥やまほととぎすの一声も、君の御幸を待ち顔なり。


 ワキ方お得意の謡の技法を駆使し、自由なリズムで朗々と謡い上げる美文。初夏の美景を思うさま観客の脳裏に描くことができれば、能の興趣はいやが上にも高まります。曲中ふんだんに描かれる山里の自然美が陰惨な戦乱の回想と明暗の対照をなすのが、能〈大原御幸〉の優れてドラマティックな特色です。
 局を伴って帰庵した女院は、思いがけない法皇の来訪にとまどいます。平家の都落ちから3年。その間の運命の変転は、女院にとって筆舌に尽くしがたいもの。法皇は女院に、冷酷ともいえる問いを発します。
 「女院は六道のありさままさに御覧じけるとかや。ぶつ・菩薩の位ならでは見給ふことなきに、不審にこそ候へ」。
 「六道」とは人が生まれ変わり死に変わる転生の世界「天人・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の6つの世界のこと。「生きながら六道を見たとはどういうことか」その解答を女院は語ります。

  地謡/まづ一門、西海の波に浮き沈み、よるべも知られぬ船のうち。海に臨めども、うしおなれば
  飲水せず。餓鬼道の如くなり。またある時は、汀の波の荒磯にうち返すかの心地して、船こ
  ぞりつつ泣き叫ぶ、声は叫喚の罪人もかくやあさましや。
  シテ/くがの争ひある時は、
  地謡/これぞまことに目の前の修羅道の戦ひ、あら恐ろしや数々の駒のひづめの音聞けば、畜生
  道のありさまを、見聞くも同じにんどうの、苦しみとなり果つる憂き身の果てぞ悲き。


 無上の境涯である帝王の后となりながら(天人)、生きる憂いを背負い(人)、絶え間ない戦いにさらされ(修羅)、軍馬のいななきの中に身を置き(畜生)、飲食にも乏しく(餓鬼)、きょうかんの苦しみを味わった(地獄)……女院の生涯は、まさに「六道」すべてを見尽くしたものだったのです。
 法皇はさらに残酷な問いを発します。「先帝の最期のありさま、何とかわたり候ひつる。おん物語り候へ」。
 わずか8歳で海の藻屑と消えた安徳天皇の入水が女院の口から語られる、全曲のクライマックスです。

  シテ/その時のありさま、申すにつけて恨めしや。長門の国・はやともとやらんにて。筑紫へひ
  とまづ落ち行くべきと一門申し合ひしに。緒方の三郎が心変はりせしほどに、薩摩潟へや落
  さんと申しし折節。のぼしおへられ、今はかうよと見えしに、能登の守のりつねは、安芸の太
  郎兄弟を左右の脇に挟み、「最期の供せよ」とて海中に飛んで入る。新中納言とももりは、沖な
  る船のいかりを引き上げ、兜とやらんに戴き、乳母子めのとごの家長が弓と弓とを取り交はし、そのまま
  海に入りにけり。その時、二位殿、にびいろふたぎぬに練袴のそば高く挟んで、わが身は女人な
  りとてもかたきの手には渡るまじ。しゅしょうおんとも申さんと、安徳天皇の御手を取りふなばたに臨む。
  「いづくへ行くぞ」とちょくじょうありしに、「この国と申すにげきしん多く、かくあさましき所な
  り。極楽世界と申してめでたき所の、この波の下にさむろふなれば、御幸みゆきなし奉らん」と、泣く
  泣く奏し給へば、「さては心得たり」とて、東に向はせ給ひて、あまてるおおんかみおんいとま申させ
  給ひて、
  地謡/また、十念のおんために西に向はせおはしまし、
  シテ/「今ぞ知る、
  地謡/すそがわの流れには、波の底にも都ありとは」と、これを最期のぎょせいにて千尋の底に
  入り給ふ。自らも続いて沈みしを、源氏の武士取り上げて、かひなき命ながらへ。再びりょお
  がんに逢ひ奉り、不覚の涙に袖をしほるぞ恥づかしき。


 実の兄弟、教経と知盛。実母・二位尼。わが子・安徳天皇……女院にとって最も身近な人々が次々と壇ノ浦の海底に消える中、ただひとり生き残った建礼門院。能には語られませんが、大納言局は皇位の象徴・神鏡の箱を奉じて入水しようとした瞬間、源氏に阻まれた女院の最側近。阿波内侍は法皇にとって肉親よりも縁の深い乳母子(乳兄弟)でした。
 このように『平家物語』の本文を巧みに編集し、別次元の卓越したドラマに再生した能作者の手わざは並のものではありません。傑作の数々を生み出した金春禅竹の手になるものかと、最近では想定されています。

 歴代天皇の后の中で、建礼門院ほど残酷な現実を生きた女性はいないでしょう。またそれは、この世に戦乱が絶えない限り、いかなる女性にも降り掛かり得る運命でもあります。
 美文の極致である能〈大原御幸〉は、美の世界の裏側に横たわる非情な現実を語り尽くす、麗しくも恐ろしいドラマなのです。(つづく)
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【むらかみ・たたう】
明星大学教授。石川県立音楽堂邦楽主幹。財団法人観世文庫評議員。演劇評論家。早稲田大学・大学院に学ぶ。文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考審査員、国立劇場おきなわ研修講師ほかを歴任。能の復曲・新演出・新作にも数多く携わる。朝日新聞歌舞伎劇評担当。日本経済新聞能・狂言評担当。著作『すぐわかる能の見どころ~物語と鑑賞139曲』(東京美術)、『村上湛演劇評論集~平成の能・狂言』(雄山閣近刊)。
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