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かもめアカデミー
能で読み解く源平の12人 明星大学人文学部日本文化学科教授
村上 湛
第9回 源 朝長
 源頼朝には2人の兄がいました。長男・義平、次男・ともながです。この2人を差し置いて頼朝が「源氏の棟梁」となったのは、ひとえに母の身分が高いためでした。次兄・朝長の母は神奈川県に地名が残る波多野(=秦野)氏の娘。同氏は当地で豪壮な館を構える有力な土豪でしたが、頼朝の母は皇室や摂関家とパイプを持つ古代以来の名族・熱田大宮司家の姫君ですから比較になりません。父を同じくするだけで別々に育った御曹司たちが平治の乱(1160年)勃発で集められ、それぞれが悲運をたどるさまが『平治物語』に描かれます。都から敗走の途中に膝に矢傷を受け、朝長が夭折したのは17歳の若さでした。
 『平治物語』でわずかの描写しかなく、その人生も定かに伝えられない朝長に着目し、大胆な発想ですばらしい詩劇を書いたのは世阿弥の実子・元雅。〈隅田川〉〈弱法師〉などの能で特異な親子関係を描き、優れた筆力を発揮した天才です。


月岡耕漁『能楽図絵』より能〈朝長〉
平治の乱敗退のさまを語る後シテ。床几(「葛桶」と称する塗桶)に腰掛けているのは語リ場面の
定型で、馬上の型を演ずるためでもある。左上の色紙形には《クセ》に先立つ部分の詞章で、「昔
は源平左右にして朝家を守護し奉り、御代を治め国家を鎮めて万機の政すなほなりしに、保元・平
治の世の乱れ。いかなる時か来たりけん」と記されている(漢字・送りがなは私意)。


 平治の乱で死んだ源朝長を弔うため、京都・清凉寺の僧(ワキ)が美濃国(現在の岐阜県)・おおはかを訪れ、朝長の墓前でこの宿場のちょう(前シテ)と出会う。僧は昔、朝長のめのと(=養育役)だった。朝長の最期を語る長は、旅僧をわが家に誘う。観音懺法の供養に引かれ、朝長の霊(後シテ)が出現。長と僧の暖かい志に篤く感謝の念を述べ、死に至るまでの顛末を語る。

 この能のワキは『平治物語』に登場しない、元雅の独創人物です。流儀によって設定は異なるのですが本来は「朝長のもと傅」。「傅」は貴族や上級武士の子弟を養育する男性のことで、最も親しい側近として普通は生涯勤め上げるものです。この能では「10年ほど前に辞職し出家した」とありますから朝長が7歳になる頃まで、各地を転々とした実父・源義朝に代わる慈父にも等しい存在だったはずです。
 対する前シテはのちょう。「長」は「長者」とも称し、多くはその土地の遊女たちの統括者ですが、現代人が考えるような軽薄な職種ではありません。歌舞音曲に通じ接客のプロだった質の高い遊女たちは、貴人が宿泊する際の応対役として、街道沿いの大きな宿場には不可欠。中には彼らと婚姻関係を結び、子をなす遊女すらいました。自身も遊女であることが多い「長」の地位は母から娘へ伝えられることが多く、その土地の実力者として人々の畏敬の念を集めました。『平治物語』には義朝の妻妾として青墓の長「おお」の名が伝えられ、敗走した義朝は彼女に助けを求め、大炊は一行を堂々とかくまいます。土地で威勢を誇る長ともなれば、ちょっとやそっとのことでは動じません。「おんなじょうの典型」というべき堂々たる大役がこの能の前シテです。

  地謡/死の縁の、ところも合ひに青墓の、ところも合ひに青墓の、青野ヶ原は名のみして、
  古葉のみのはるくさはさながら秋のあさわら。荻の焼原の跡までも、げにほくぼうの夕煙、いっぺんの雲
  となり消えし空は、色も、形も、なき跡ぞあはれなりける。なき跡ぞあはれなりける。


 まだ冬の面影を残す早春の夕暮れ。僧と長と、朝長に思いを寄せる他人同士が墓前でたまたま出逢い、深い感慨を抱く部分です。「平家全盛期、敗者たる源氏ゆかりの者には殺される危険があった」と能では語られていますから、それを冒して墓参をするなど、朝長へのよほどの愛情がなければできません。死後7日ごとの手厚い参詣を欠かさない長は、重傷に苦しみ自ら命を絶った朝長の死を、まるで母親のように悼んでいるのです。深い印象を残す言葉「死の縁」は、母子の死別を描く〈隅田川〉にも用いられる元雅の特有語。
 これに続き長は、朝長自害の様子を僧に語って聴かせます。能役者のコトバの力量が試される、きわめて難しい部分です。
 やがて長は僧を伴って帰宅。手厚い接待を命じて退場します。同じ役者が後半、今度は朝長の霊に扮して再登場するわけです。

 追善のため僧は、音楽法要「観音せんぼう」を修します(舞台では太鼓入り登場音楽の定型である[]を演奏します)。この法要を「生前の朝長が好んでいた」と説明されますが、『平治物語』にそうした描写はありません。鳴物が入って賑やかな「観音懺法」は、実は、世阿弥を支援した足利義満がきわめて好み、以後、足利将軍家では日課として僧たちに供養させるほど大切にしていました。これを能に言及したのは、当時の上級武士=有力な観客にアピールする意図なのでしょう。
 その供養に引かれ、生前の軍装に身を固めた朝長の霊が登場します。ただし、前号〈実盛〉のように長々と舞う部分はほとんどありません。舞台に出された床几に腰掛けたまま、地謡を受け止めることが大半。前場しかり、「動かないで演ずる」難しさがこの能の特徴です。

  シテ/そもそもいつの世の契りぞや。
  地謡/一切のなんをばしょうじょうの父と頼み、よろづのにょにんを生々の母と思へとは、いま身の上
  に知られたり。さながら親子の如くにおん嘆きあれば弔ひも、まことに深き志。受け、喜び申
  すなり。朝長のしょうをも御心やすくおぼしめせ。


 後場の中心《クセ》で最重要の部分。「一切の男子をば生々の父と頼み、よろづの女人を生々の母と思へ」。『ぼんもうきょう』からの要約と言われるこの一句を、とくとご吟味下さい。
 『平治物語』を読む限り、朝長は父母の縁薄い子でした。慈愛深かったであろう波多野の母については物語に一言も触れられません。敗走に際して援軍招集を命ぜられたものの、足の重傷のため泣く泣く引き返した朝長に、父・義朝は「幼くとも頼朝はさはあらじ」と、実に冷たい言葉を投げ掛けます。進退きわまり、みずから死を選んだ哀れな若武者……その死を深く悼むのは肉親ではなく、10年前に辞職した元養育役と、わずか一夜の宿を貸しただけの青墓の長。つまり「他人」なのです。
 が、仏教の哲理では、万物の霊は輪廻転生するもの。ならば現世における他人も、前世には父であり、母であったかもしれない。その観点からすれば、「一切の男子をば生々の父と頼み、よろづの女人を生々の母と思へ」……朝長が死して後に得た結論がこれでした。
 ここには、血縁を超えた偉大な人間愛が高らかに讃えられています。同時に、現実には血縁に頼れず孤独に死んだ若者の無残な運命が横たわっています。

 偉大なる傑作〈朝長〉が訴える、「親子とは何か」という命題。
 能が現代に通ずる冷徹なドラマであることが、このことからもよく分かるのではないでしょうか。(つづく)
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【むらかみ・たたう】
明星大学教授。石川県立音楽堂邦楽主幹。財団法人観世文庫評議員。演劇評論家。早稲田大学・大学院に学ぶ。文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考審査員、国立劇場おきなわ研修講師ほかを歴任。能の復曲・新演出・新作にも数多く携わる。朝日新聞歌舞伎劇評担当。日本経済新聞能・狂言評担当。著作『すぐわかる能の見どころ~物語と鑑賞139曲』(東京美術)、『村上湛演劇評論集~平成の能・狂言』(雄山閣近刊)。
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