鎌倉の駅前、「
段葛」
(※)に面して城に似た古風な構えの菓子屋があり、店頭で蒸す「
女夫饅頭」が美味で、亡くなった祖母が好きでしたからたまに買って帰りました。「夫」は源義経、「女」はその寵愛を受けた
白拍子・静御前。「鎌倉を象徴する名カップル」というわけです。
平安時代末期、「
今様」と呼ばれる世俗歌謡が大流行し、権力の頂点に立つ後白河法皇みずから寝食を忘れて打ち込むほどでした。その今様を歌い、舞ったのが白拍子。烏帽子を頂き袴をはき
水干を着、腰には太刀の男装が決まり。今に直せば「男性警官のコスプレをした美少女」そのままですから、ちょっと危険な倒錯美だったことでしょう。
社会の最底辺にあった芸能者にもかかわらず、名将・義経に愛された静御前は『義経記』ほか説話文学のみならず、鎌倉幕府公式記録の側面を持つ『吾妻鑑』にも登場。人気の高い能のヒロインでもあります。有名な〈船弁慶〉前場ではシテ(主役)として活躍。あまり知られていない劇能〈
正尊〉では、現在の演出ですと子方(子供役者)が静御前に扮し、長刀を
揮って義経を守り奮戦します。中でも、きわめて優美な哀愁を伴って静御前の人生が語り尽くされる傑作〈二人静〉。「御前」とは名高い女性を呼ぶ敬称で、常は単に「静」です。

月岡耕漁『能楽図絵』より能〈二人静〉
神前に奉納した舞の衣装を着て舞う憑依した巫女(左)と、寄り添って舞う静の幽霊(右)。この版画では2人とも地味な扮装だが、実際の舞台だともっと華やかで、上に羽織る長絹(ちょうけん)を同色・同文様に揃えることが多い
吉野山・勝手明神に仕える巫女が、菜摘みに出た川岸で静御前の幽霊と出会う。帰社した巫女に静の霊が取り憑き、源義経との悲しい別れの物語を歌い舞いながら、自らの死後の供養を人々に願う。 兄・頼朝にうとまれ、諸国を流浪する身となった義経が頼ったのは、奈良県の深山・吉野山でした。蔵王権現を祀る
金峯山寺を中心にあまたの堂塔が並ぶ聖地であり、自衛のため悪僧(僧兵)軍団が常駐していました。義経はこの一大宗教勢力を
恃んだのです。
平家滅亡の5年後に没し、義経を敬慕していた歌僧・西行。ことさら桜の美を愛した西行も住んだことのある吉野は当時から名高い花の山で、古くは雪の名所でもありました。壬申の乱を前にした
大海人皇子(天武天皇)、南北朝の騒乱に立ち向かう後醍醐天皇がよりどころとしたように、歴史的に吉野は失意の英雄が身を隠すのに格好の場所だったのです。
当地には「子守/勝手」と一対で信仰される古社があります。早春。勝手明神の神職が巫女を呼び出し、神前に供える若菜を摘むよう命ずるところから能が始まります。菜摘の巫女は残雪の川岸で、不思議な女と出会います。「あまりにわらはが罪業のほど悲しく候へば、
一日経書いてわが跡
弔ひてたび給へ」……「一日経」とは、多人数が集まり分担して1日の内に完成させる写経のこと。こう訴える女は名のらず、「いざとなったら、あなたに憑依して正体を明かしましょう」と言い捨て、消えてします。神秘的な前半部分です。
この妖しい女が静の霊。「罪業」とは「死してもなお消えぬ恋の思い」でしょう。
後半、静の霊は予言どおり巫女に憑依します。むかし勝手明神の宝蔵に寄進した舞の衣装を取り出させ、静の幽霊と菜摘の巫女と同扮装、同じ舞いぶりで影身に従い、ぴったり同時に舞うのが能〈二人静〉後半の見どころです。
能役者が2人、間を外さず30分ほど長時間も舞い続けるのは至難の業。そもそも、それが可能な名手2人を揃えること自体が難しい。そんな理由でこの能を廃止してしまった流儀もあるほどです。
しかし、ここに綴られた早春の吉野の自然美は無上に美しく、愛する人と添い遂げられなかった静の回想する「女の一生」も限りなく哀しい。吉野山で義経と別れ、後に捕らわれた静が鎌倉・鶴岡八幡宮で舞った今様「
賤やしづ 賤の
苧環 繰り返し昔を今になすよしもがな」も能の中で謡われます。神前の奉納にはめでたい歌が決まりだというのに、「昔を今に」と敵対者・義経の過去を偲ぶとは何事か!……激怒した頼朝を、
糟糠の妻・政子はたしなめます。「過去あなたの苦難の時期、私も静と同じ思いでした」。情意を尽くした政子の仲裁に、並み居る武士たちは感涙したと伝えます(『吾妻鑑』文治2年4月8日条)。
「もののふの、ものごとに浮世の、ならひなればと思ふばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風、静が跡を弔ひ給へ、静が跡を弔ひ給へ」と死後の供養を願い、能は終わります。降りしきる雪のように、満開の山桜を散らす松風……何と美しい描写でしょうか。
花と雪。日本美の象徴ともいえる吉野の風物を背景に、一人の男に真心を捧げ、歴史の果てに消えた美女の面影を偲ぶ名曲。それが〈二人静〉なのです。(つづく)
※編集部注 段葛とは一段高くつくった参詣道のこと。特に鎌倉鶴岡八幡宮の参道を指す。