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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
最終回 スペインの異世界、ガリシア(上)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

 記録に登場する最初のサンティアゴ巡礼は西暦930年(諸説ある)のことだから、人々はこの祈りの道を、もう千年以上にもわたって歩いてきたことになる。目指すはエルサレム、バチカンに並ぶキリスト教三大聖地の一つ、サンティアゴ・デ・コンポステーラ。9世紀にキリスト12使徒のひとり、聖ヤコブの墓が見つかった街であり、日本語に訳すと「星降る野原の聖ヤコブ」という何とも詩的な意味になる。
 この聖地があるのが、スペイン北西端のガリシア州だ。北はカンタブリア海、西は大西洋に面したイベリア半島の片隅にある最果ての地。はるばる訪れてみれば、そこには「太陽と情熱の国」に象徴されるスペインとはまるで違う、深い緑と霧に覆われたもう一つのスペインがあった。

 海と山に囲まれて1年の3分の1は雨が降り、真夏でも過ごしやすい北の大地は豊かな食材の宝庫だ。クロカというブランド牛までいて肉料理も絶品なのだが、魚介類の美味しさは、美食で名高い北スペインでも随一であろう。市場にはとれたての鮮魚が並び、山間部でも海に近いから、どこに行っても新鮮な海鮮料理が楽しめる。味付けはいたってシンプル。具材はタコとジャガイモだけという郷土料理「プルポ・ア・フェイア(タコのガリシア風)」に代表される、素材を生かした料理の数々は旅の最大の楽しみだ。

新鮮な魚が並ぶ市場

タコのガリシア風(超有名店の調理風景)


 風光明媚な美食の都にすっかり魅了されながら、初めてのガリシア州でワインを探していたある冬の午後、偶然、サンティアゴ・デ・コンポステーラに立ち寄った。旧市街の広場には絢爛豪華な大聖堂がそびえ立ち、巡礼者たちが到着の喜びを分かち合っている。そこに、どこからか風に乗ってバグパイプの演奏が聞こえてきた。暫くはじっと聞き惚れていたが、どうもおかしい。スペインの聖地でケルトの音がするのはなぜだろう。そういえば、レストランの食器(サルガデロスというガリシアの高級ブランド)や土産物、峠にあった不思議なモニュメントにも古代文様のようなモチーフが描かれていた。

 言葉だってそうだ。驚いたことに、州内ではスペイン語の他にガジェゴ(ガリシア語)が公用語とされ、今でも200万人近くの話し手がいるという。言語とは、単なる意思疎通のための音の連なりではない。その背景には驚くほど豊かな民族性があり、単語や文法の1つ1つにその民族の考え方、つまりはこの世界の捉え方が生き生きと映し出されている。どうやらガリシアとはスペインの中の異世界のようだ。ここには何が待っているのだろう。

勇者のブドウ畑、リベイラ・サクラ


 ガリシア州には南部に偏って、内陸から沿岸部まで法律で5つのワイン産地が認められている。大手とは無縁の小さなワイナリーが多く、冷涼産地ならではのきれいな白ワインと、端正でエレガントな赤ワインが素晴らしいのだ。なかでもテロワール(ワインを育む自然環境)のスケールにおいて、特筆すべきは「リベイラ・サクラ」である。シル川が織りなす秘境の大渓谷は、一度見たら決して忘れられるものではない。

シル渓谷

 初めてこの地に来たのは、真冬の夕暮れであった。地元のワイン仲間と一緒にワイナリーに向かうはずが、「今ならまだ間に合いそうだ!先にこっちに行こう!」と、ミラドール(展望台)に連れて行ってくれた。この季節、この時間、人影などあろうはずがない。天空の大パノラマを独り占めにしていると、日没間際の西日を受けて、深い渓谷をゆったりと蛇行するシル川が白銀色に輝いていた。

 スペインの夕日はどこで見ても美しい。バルデナス・レアレスの大砂漠(連載第1回)、カンタブリア山脈(連載第4回)、乾燥高原メセタ(連載第5回)など、これまで行く先々で剥き出しの自然に圧倒され、その雄姿を染める夕日を見てきた。しかし、この神々しさはどうだろう。この国で再び出会う絶景に茫然としていると、東の空には薄っすらと三日月が浮かび、夜の到来を告げていた。「日本のはじまりは神様が海に雫を落としたから」という話に似て、神話では「ガリシアに恋をしたユピテルがこの地を愛でるためにシル川を創り、これに嫉妬した妻のユーノが罰を与えるために大地に深い傷(大渓谷)を負わせた」とある。古代の人々が自然の中に見出した神々の存在を、今も伝える絶景である。

 リベイラ・サクラのワインの旅は、まさにこの大渓谷が舞台だ。急斜面のわずかな一画を畑にしているのだから、職人気質の頑固者でなければこんな所でワインなど造れない。「ビベイ」、「ギマロ」、「アルゲイラ」など、これはというワイナリーを幾度となく訪ねてきた。足がすくむような急傾斜。そこに切り開かれたブドウ畑は、地元でサルカコスと呼ばれる段々畑になっている。ここに最初に畑を作ったのはローマ人というから、2000年以上も前のことだ。彼らは金脈を探すために、はるばるイベリア半島の西端までやってきた。故郷から遠く離れて暮らすローマ人の日常を支えたのがワインである。

 畑はやがて修道士に引き継がれ、ミーニョ川やシル川など周辺の渓谷の開墾が一気に進んだ。それを物語るかのように、この辺りにはヨーロッパの山岳地帯では最も多くのロマネスク建築(12~13世紀)が残っている。この頃最盛期を迎えつつあったサンティアゴ巡礼も影響したのだろう。大修道院も多く、中でも大きなサント・エステボ修道院は、今では洗練されたパラドール(古城や修道院などの歴史的建造物を改造した国営の宿泊施設)となって、多くの観光客を迎えている。
 それから先のことはよくわかっていないが、ガリシアワインの長い伝統は、19世紀末のフィロキセラ禍(ヨーロッパ全土のブドウ畑を壊滅させたあの忌まわしい害虫は、こんな山奥にまでやってきた!)とスペイン内戦、それに続く独裁政権の下であっという間に衰退してしまった。人々は去り、数千年にわたって受け継がれてきた労苦の結晶は、こうしてあっさりと大自然に飲み込まれていった。

 「もう一度あの風景が見たい。次こそは自分の足で畑も歩いてみたい」という願いが届いたのか、ある日、醸造家の友人フアン・アントニオ・ポンセ(連載第3回)から、「Kayoはリベイラ・サクラなんて(小さな産地だけど)興味ある?」と不意に電話が掛かってきた。「リベイラ・サクラ?!大好きな産地で、アルゲイラというワイナリーが忘れられない」と言ったら、彼はアルゲイラのオーナー、フェルナンドとは大親友で、次の夏、連れて行ってくれることになったのだ。

 畑とは言っても、実際に行ってみると鋭利なスレート(粘板岩)の石に覆われて土など見えなかった。傾斜は想像以上にきつく、段々畑の一段の何と狭いこと!一瞬でも気を緩めたら滑り落ちてしまいそうだ。ゴロゴロした石と岩しかないこんな畑で、何かあったらただの怪我では済まない。慎重に、慎重に足を進めるだけでやっとの思いだったが、彼らはこの危険な斜面で強烈な日差しを浴びながら、剪定をし、収穫をして一年のほとんどを過ごしている。

石と岩しかないシル渓谷のブドウ畑


 フェルナンドがこの地にやってきたのは1980年代のこと。ワイン造りが廃れた山奥で、彼が目指したのは世界に通用するこの地ならではのワイン。大量生産の時代、それはまったく馬鹿げた試みだったが、文字通り、鋼のような信念で挑戦した。まずは古いブドウ畑の一画を手始めに、土壌を調べ、地元のブドウ品種を選び、区画ごとに栽培や醸造の実験を繰り返しながら、少しずつこの土地を理解していったという。一般的に白ワインの名産地であるガリシアで、ここリベイラ・サクラは「メンシア」という黒ブドウの赤ワインが秀でている。フェルナンドのワインは、スミレのようなニュアンスと、しっかりとした骨格があるのに滑らかなのが持ち味だ。

 ワインを介して、人と自然が格闘しながら豊かな実りをもたらしてきた偉大な畑。その段々畑のなかで、足元に怯えながらフェルナンドの話に聞き入った。「今日はもう遅いから畑には行けないけど、また必ず来てくれ。見ればわかる」。初めてワイナリーを訪ねた夜、私の目を真っすぐに見て彼が言った言葉が蘇ってくる。隣では旅の相棒、フアン・アントニオが熱心に畑を触り、日差しを確かめ、「Increible! Incredible! (素晴らしい、素晴らしい)」と感心しきりでブドウの樹を一本一本見定めていた。その姿こそ、フェルナンドにとっての最大の賛辞であろう。

 翌朝、大渓谷は一転、分厚い雲海に覆われて、まるで天上さながらの世界を見せていた。天候や季節が変わればまた新しい風景が見えてくるから、一日として同じ日はない。ここで、この雲の向こうで、確かにブドウは栽培されていた。古代ローマの人々が再生のシンボルと信じたブドウの樹。危険と隣り合わせだからこそ、「生命の循環」というものを考えさせる急斜面の畑は、フェルナンドのような勇者にこそふさわしい。(つづく)

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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