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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
第1回 ナバーラの砂漠が私にくれたもの (下)

砂漠のワイナリーと羊飼い


 ここで、話を冒頭に戻そう。
 これまで何百というワイナリーを訪ねてきたが、砂漠でふいに羊の大群に囲まれる経験は思いもよらぬ出来事で、それは未知との遭遇にほかならない。あっけにとられる私をよそに、「大渋滞に巻き込まれたよ、Kayo! ここは羊の“ハイウェイ”だから偉いのはあっちのほう。そのうち通れるようになるからこのまま待っておこう」と慣れた様子のダニーは言う。

 しばらくすると羊は本当に道を開けてくれた。「Hola! Soy de Japón, una compradora de sus vinos. (日本から来ました。彼のワインを買ってるの)」と、運転席のダニーを指しながら追い越し際に羊飼いにあいさつをすると、ベレー帽の下の人懐っこい目がきらりと光った。精悍な顔つきと自然が刻んだ深い皺。名はハビエル・アイェチュだという。アイェチュ、バスク人だ。羊の鳴き声にヤギの鈴、犬の号令にかき消されて、ハビエルの返事はほとんど聞こえなかったけれど、本物の羊飼いが向けてくれた真っすぐな笑顔に胸がジーンと熱くなる。

 「収穫の時期にすれ違ったら羊をもらって、僕らは代わりにワインをあげるんだ。こんな厳しい環境で生きる羊飼いは強い男さ。ワインは砂漠で唯一の娯楽だからね。1樽あげたって損はないよ。Bueno para todos!(誰にとっても良い)」とダニーは続ける。樽一つといえば、小さなものでもワインボトルにして300本もの量になる。ワイナリーの人々というのはたいてい気前がいいのだが、ポンと樽ごとあげてしまえる理由は、羊が畑を耕したり、肥料をくれて “役に立つ”、というだけではない。彼らは心底、「良いものはみんなで楽しむものだ」と信じている。お互い顔を見ればどんな人間かすぐにわかるから、砂漠で出会う奇跡に、こうして幸せを分かち合っている。


 砂漠のワイナリーと羊飼い。彼らは日々、都会の人間が味わうことのない大地との強烈なつながりを感じて生きている。あれ以来、アスル・イ・ガランサのワインを飲むたびにハビエルの姿を思い出していた私は、とうとう居場所を探し出してその暮らしぶりを聞いてみることにした。たとえ俗世を離れて荒野を旅する羊飼いであろうとも、求めればすぐに見つかると信じていた。私はこういうとき自分でも不思議なくらい楽観的で、海外で人や物を探すのは実はそんなに難しくないと思っている。知り合いをたどれば面識のない人だってみんな協力してくれて、いつも望みどおりのワインに巡り合ってきた。要は本気で願うかどうかだ。

 村人から近くの肉屋の兄弟に羊飼いがいると聞いていたので、「まずはその羊飼いを割り出そう。同業者ならハビエルを知っているはずだ」。そんな軽い気持ちでダニーに尋ねると、確かに肉屋の兄弟には羊飼いがいること、肉屋は3人兄弟でそのうちの2人、ルイスとペドロが営んでいること、そして末の弟が羊飼いで、名はハビエルだということがわかった。「ハビエルって、ハビエル・アイェチュ?」と私。「何で知ってるの?」とすでに記憶喪失のダニー。すんなり見つかった! それにハビエルは羊飼い組合の会長さんだという。組合まであるのか!
 肉屋のルイスによれば、折よくハビエルが村に帰ってくるという。そこでダニーが彼を夕食に招いてくれることになり、私は日本から電話で参加することになった。物事がうまくいくときは、いつだってこんなふうにあっという間に話がまとまる。「あのchica japonesa(日本人の女の子)が自分の暮らしに興味を持っている!」とハビエルは喜んでいる。ダニーだって、ハビエルとは砂漠でたまにすれ違ってあいさつをするだけ。これまでまともに話をしたことはなかったから、このエキサイティングな“会合”にみんなワクワクしていた。


 いよいよ当日。ハビエルは語り出す。彼の口をついて出る話はどれも初めて聞くことばかりで驚きに満ちていた。考えてみれば当然のことだが、羊飼いの最大の仕事は「羊に食べさせる」こと。そこには極めて洗練された古来の叡智と高度な運営システムがあった。
 雄ヤギ、犬、ロバで構成されるチームでは、雄ヤギは勇気を、牧羊犬は秩序を、ロバは忍耐をと、それぞれの特技を生かした役割分担があり、そこにはまったく無理がない。人間のように数字が苦手なのに経理に配属されたとか、内向的な性格で営業をしているなんてことは、ここでは起こりようがない。群れだってただ漫然と歩かせているわけではなく、移動のさせ方が実にスマートだ。夏場は過ごしやすく緑の草が豊富なピレネー山脈に行き、秋になると山から下りてくる。そのころ麓の穀物畑ではちょうど収穫を終えたあとになり、群れを連れて行って落穂を食べさせる。羊飼いは羊たちにおなかいっぱいのごはんを食べさせることができるし、農家にとっては畑を掃除してくれる上に、耕作までしてくれるのだからありがたい。

 ひとたび放牧に出ると、過酷な一人旅は何カ月も続くから、荷物らしい荷物は持たないという。食事は野鳥やウサギを獲って食べ、夜は所々にある羊飼いの石小屋で眠るか、それがなければ野宿をするまでだ。村に戻るのは羊が妊娠しているとき。その間は家で静かに赤ちゃん羊の誕生を見守っている。現代の羊飼いは、つながるかどうかは別として、スマートフォンも持っているし、羊が作物を荒らさないように電気柵を携行しているという点も、なるほど、納得がいく。

 ハビエルはこうして春夏秋冬、移り変わる季節を肌で感じ、自然のサイクルに自分たちを合わせて生きている。人間の営みともうまく関わりながら、それぞれの役目をまっとうしている様子は、ただ聞いているだけでも心地がよい。自然の摂理に背けば破滅する。謙虚さと智慧と勇気のない者は、ここでは生きられないのだ。

 地平線、高い空、旋回するイヌワシ、ちっぽけな私。電話口の狭い視界が、あの壮大な砂漠の景色とともに一気に広がり、地球という惑星で悠久の旅をする一人の羊飼いの姿が見えてくる。一見華やかな都会の生活も、少しのほころびでパニックが起き、雑踏で無性に孤独を感じる瞬間がある。大自然に呼応して生きるハビエルの泰然とした様子に、私の心は強く引きつけられた。羊飼いの一行が優雅に見えたのは、きっとこのせいだ。

 2月。春を控え、ブドウの木が芽吹くすこし前、アスル・イ・ガランサの畑ではいよいよ羊たちの出番だ。羊が畑を歩いて冬の間に固くなった土を耕し、枯れ残った雑草をすべて食べつくす。そこに春がやってくる。最高のワインはこうしてみんなで作るのだ。

 グラス1杯のワインを味わうことは、
 ここにいながらにしてわたしたちを遠い世界へと連れていく。
 ワインを飲むということは世界を知るということだ。
 そして世界を知ることは、“わたし”を知ることに他ならない。

 たとえ砂漠や羊がそばにいなくても、想像力をめぐらせれば、
 いつでもそこに大きな世界を感じることができるだろう。

 いつの日かまたハビエルに会い、アスル・イ・ガランサの居心地の良い食卓で、一緒に自慢のラム肉を食べる日が来ることを願っている。そのときのワインは、もちろん砂漠のワイン、デシエルト(砂漠)だ。


「デシエルト」

(ボデガス・アスル・イ・ガランサ)

 年産わずか1500本足らずの限定品「デシエルト」は、驚異の低収量を誇るわずか2ヘクタールの単一畑、その名も「デシエルト(砂漠)」から生まれる、カベルネ・ソーヴィニョン100%の赤ワイン。砂漠の影響をダイレクトに受けるこの区画のブドウは指でつまめるほどに小さいが、凝縮した果実味とアスル・イ・ガランサらしい品の良さが表現されたワイナリーの最高級ワインができる。赤ワインの渋みが苦手、というビギナーでも楽しめる柔らかさで、どんな飲み手をも大らかに包み込んでくれるだろう。ぜひ、ラベルにも注目してもらいたい。砂漠の上に開けたスペインの真っ青な空と、白い雲があなたを待っている。

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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