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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
第4回 星の巡礼カミーノ・デ・サンティアゴをゆく:前編(下)

エノツーリズムの先駆け


 「ブドウ畑やワインの樽に囲まれて眠ったら、どんなに素晴らしいだろう」。今から30年以上も前、まだ一般にワイナリーを訪れるのも難しかった時代に、ビトリーノはそんな夢を想い描いた。エノツーリズム(ワインツーリズム)の先駆けだ。なにも元から裕福な家柄で、有り余る資金があったのではない。まずはそれまで別の場所にあったワイナリーを、「パガノスの丘」に移すことから始めた。
 エグーレン・ウガルテのワイン造りはこの丘の中で行われている。ブドウは収穫されるとこの丘に運ばれて、そのまま勾配を利用して中のセラーへと落ちていき、そこで圧搾されてワインになる。できたワインは重力を利用してさらに階下へと送られて、オーク樽のなかで熟成という長い眠りにつく。機械やポンプを使わずに、丁寧にワインを扱う仕組みだ。年間を通して気温が安定している地下のセラーではエアコンを使う必要がなく、エネルギーを無駄にすることもない。
 「何事もまわりの環境に配慮して行わないとだめだ」と、ビトリーノはきっぱり言う。ブドウの樹を丹念に手入れし、とにかく良いワインを造ることだけを心がけてきた。

 ワインを売って資金が貯まると、レストラン、ホテルという具合に、一つ、また一つと新しい施設に着手する傍ら、休むことなく洞窟を掘り続けてきたのだ。これからスパやレストランにするつもりだというガランとした洞穴を眺めて、「我々エグーレン家は、これまで一度も銀行から借金をしたことがない」と胸を張る。

ツアー客をガイドするビトリーノ

ブドウ畑が見えるレストラン「マルティン・センドージャ」


 こうして今では年間120万本のワインを生産し、4000個の樽を有する醸造所、偉大なコレクションが眠る地下セラー、レストラン、スパ、ホテル、庭園、礼拝堂から成る規模となり、年間3万人以上の観光客が訪れて、寛ぎ、癒され、また結婚式を挙げ、それぞれのエノツーリズムを満喫している。

“En la vida hay que pasarselo todo lo mejor posible”
人生は何事もベストを尽くさなければならない


 ビトリーノにこう言われたら誰も文句は言えないだろう。「このボデガ(ワイナリー)はわしの喜びだ。なにも見栄えにこだわることが目的じゃない。ここに来てくれた人が満足して帰ってくれること、それが一番大切なんだ」と、ワイナリーを見上げて呟いた。人にはそれぞれ想いがあり、仕事を通してそれを第三者に伝えていく。私はまさに今、この小さな老人の魂に触れて、まるで聖地に立ったかのような敬虔な気持ちに包まれていた。

 そろそろ午後3時。スペインのランチタイムだ。テーブルにはリオハの定番、ガルバンソ(ひよこ豆)のスープにブドウの枝で焼いた仔羊のアサード(ロースト)が並び、家族や従業員が集まってくれていた。去年できたばかりのワインを試飲しながら、ワイナリーでいただく郷土料理ほど素晴らしいものはない。「美味しいか?」と満足そうに私の顔を覗き込んで、ビトリーノが歌を歌ってくれた。


“Japonesa, Japonesita manojito de claveles,
para pintar tus encantos, en el mundo no hay (suficientes) pinceles...
Japonesa, Japonesita tu que besas con ardor,
bésame con embeleso aunque por tu besos muera yo de amor….”

日本人の女の子、君はカーネーションの花束のよう。
どんな絵描きも君の魅力は描けないよ。
日本人の女の子、どうか僕に情熱的なキスをください。
そうでないと愛のために死んでしまいそう……。


 「さあ乾杯しよう!」「“Arriba, abajo, a centro, al dentro!”(グラスを持って)上へ、下へ、真ん中へ、そして(お腹の)中へ!」。

紅葉したブドウ畑とビトリーノ


 エノツーリズムは素晴らしい。ワイナリーはたいてい美しい自然のなかにあり、ワインが育まれた大地に触れ、地元の人々と交流し、食文化を味わうという喜びをくれる。珠玉のワイン産地がひしめくスペイン北部。もしもサンティアゴ巡礼路を歩くことがあれば、少し寄り道をしてワイナリーを訪れてみてはどうだろう。
 1秒を競い、苦しみに耐え、必死にゴールを目指すだけが人生ではない。寄り道という無駄を持つことで、きっと豊かな時間が待っている。平和だからこそ叶う人々との触れ合い。一緒に囲んだ美味しい食卓。どんな絶景や世界遺産にも増して、いつまでも心に刻まれるのは、そんな原初の喜びなのだ。

 「おい、お前はちゃんと生きているか?俺はちゃんと生きているぞ」
私にはいつだってビトリーノの声が聞こえている。その声に励まされながら、これからも前に向かって歩くのだ。最高のワインを求めてどこまでも。

「マルティン・センドージャ」

(エグーレン・ウガルテ)

 エグーレン・ウガルテの最高級ワイン「マルティン・センドージャ」。グラスに注げばその深い色合いに驚き、赤果実や黒果実、カカオ、革などの複雑な香りに圧倒されるのだが、口当たりはあくまでも柔らかい。このワインには単一畑、「エル・モンテ」のブドウだけが使われている。樹齢100年を超える黒ブドウ品種・テンプラニーリョの古木が613本もあるという貴重な畑である。古木のワインは素晴らしい。得も言われぬ奥深さと芳醇な香りに溢れ、まるで話すほどに魅力的な人物のようだ。

 偉大なワインの陰に人あり。「マルティン・センドージャ」は、このワインが捧げられた人物の名前だ。ビトリーノの義兄にして熱心なブドウ栽培家。生涯一農民であることに誇りを持って畑を手入れしてきた。エグーレン・ウガルテ150年の歴史に名を残し、死してなお愛されている。「エル・モンテ」は、そんな彼のお気に入りの区画だ。ワイナリーで試飲をすれば、偉大な遺産を築いたマルティン・センドージャの話をせずしてこのワインを飲むことはない。
 地下深くのセラーで守られること40カ月。時を経てしっとりとした憂いをまとい、絹のように滑らかで香り高いワインへと変貌した。お気に入りの音楽をかけて、ただ暖炉の火を眺めながら、暖炉がなければ、ろうそくの灯りでじっくりと飲むのが最高の楽しみ方だろう。

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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