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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
第4回 星の巡礼カミーノ・デ・サンティアゴをゆく:前編(中)
 ナバーラ州からサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かって西へ。厳しい寒さに見舞われた3月初旬、この日も巡礼者のごとく、エブロ川にかかるシンボル、ピエドラ橋を渡ってラ・リオハ州の玄関口、ログローニョに入った。世界に冠たる「リオハワイン」の中心にして美食の都。州都だけあって旧市街の中心に壮麗な大聖堂がある大きな街だ。
 途中、ワイナリーに立ち寄りながら来たので、ログローニョに着いたのは夜の10時を過ぎていた。スペインの夕食時である。ホテルに荷物を預けてすぐに人気のバル街、ラウレル通りに向かうと、狭い路地は歩く隙間もないほど大勢の人で溢れかえっていた。よく見ると店内には空席もあるのに不思議だが、スペインに来てつくづく思うのはみんな外が好きだということである。

 寒さなどもろともせず、いつもの調子で夢中になってしゃべり続ける彼らだが、この日は平日。明日は大丈夫なのだろうか。夜中の12時を過ぎても人影がまばらになるどころか、どんどん増えているではないか。「明日を思い煩うことなかれ」。マタイの一説は彼らにこそ相応しい、と思いつつ、私は翌日の仕事に備えて早めに退散することにした。といっても油断をすると話しかけられ、終わるはずの会計でまた店の人と話が始まったりするから、どう頑張っても“早くは帰れない”のがスペインの流儀である。

2㎞の地下迷路の物語


 翌朝ログローニョを出発し一路北へ、リオハ・アラベサの「エグーレン・ウガルテ」に向かった。華やかな話題も多いこの地区においては、やや地味な印象が否めない家族経営のワイナリー。電話口から伝わる素朴で温かい人柄から、小さなワイン農家だと思っていた。しかしワインの品質に生産者の規模など関係ない。ウガルテのワインには長期熟成型の伝統的なリオハの骨格に加えて、惚れ惚れするようなピュアでフレッシュなテンプラニーリョの果実味を併せ持っている。その意外なバランスに造り手の革新性を直感していた。

 冷涼なリオハ・アラベサの畑では、ブドウは平地に比べてゆっくりと時間をかけて成熟する。だから普通なら8月末には始まる収穫も、ここでは10月にならないと始まらない。“収穫が早い”という意味のテンプラニーリョ種にしては遅すぎるがゆえに、完熟していながらフレッシュな酸があるブドウが穫れ、この酸こそがリオハの真骨頂である長熟ワインには欠かせない要素になるのだ。

ウガルテ一家の家族写真

 それをこの目で確かめたかったということに加えて、実はもう一つ、ここにはずっと気になっていた人物がいた。当時78歳(現在は88歳で現役!)の4代目、ビトリーノ・エグーレンである。初めてビトリーノを知ったのは1枚の家族写真だった。バスクのベレー帽を被り、大きくなった息子や娘たちにぎゅっと囲まれてカメラに向けた面構え。今にも、「おい、お前はちゃんと生きているか。俺はちゃんと生きているぞ」と呼びかけてきそうな迫力がある。畑で、セラーで、収穫で、どの写真を見ても絵になる人物。どんな人生を送ってきたら、こうも平面の写真が語りかけてくるのか。会って話を聞いてみたい、そう思ったからここに来た。

 「もうそろそろなんだけどなあ」。標高が上がるにつれて冷涼になる風を肌で感じながら、ワイナリーを探してキョロキョロしていると、突然、行く手に巨大な山の塊が現れた。シエラ・デ・カンタブリア(カンタブリア山脈)である。東はピレネー山脈、西はガリシア山地に接し、東西300kmにわたって2000m級の山々が連なるもうひとつの大山脈だ。なんと神々しい姿だろう。ずっと並走してきたはずだったのに、近すぎて見えていなかったのだ。
 あまりの迫力に圧倒されていると、息つく間もなく次のカーブを曲がった先にエグーレン・ウガルテが現れた。青い空とカンタブリア山脈を背に立つ堂々たる雄姿。想像をはるかに超える規模に、初めは道を間違えたのかと思ったくらいだ。大自然に現れた非日常の異空間。のっけから度肝を抜かれた、初めてのリオハ・アラベサの旅である。

エグーレン・ウガルテの全貌


 「やあ、Kayo。ようこそエグーレン・ウガルテに」。どう見てもボスの風格を漂わせた5代目のコルドが、恰幅のよい体躯から響く朗々とした声で出迎えてくれた。こちらに歩み寄ると挨拶もそこそこに、真正面にそびえるカンタブリア山脈を仰ぎ見て熱心に話し出した。「凄い山でしょう。今立っているここ、まさにこの場所で大陸性気候と地中海性気候がぶつかるんだ。北はカンタブリア山脈、南はデマンダ山脈から吹く風がここで衝突するんだよ」
 それだけ複雑なテロワール(ワインを育む気候風土)があるワイナリー。「どうだ、凄いだろう」という訳である。言いたいことが山ほどある、こんな人物が出迎えてくれるワイナリーは間違いない。

 「ホテルに荷物を置いたら早速ご案内しましょう」、と言ってワイナリーへと歩き出したコルドの先にはホテルなどない。不思議に思いながらも後をついていくと、なかには素敵なホテルが併設されていた。スペインのモダンインテリアで設えられたロビーの南側は大きなガラス窓になっていて、眼下に広がるブドウ畑と、そのずっと先までがすっかり見渡せる。ここでゆったりとソファーに座ってワインを飲みながら、ぼうっとする時間は最高だろう。
 そんな優雅なひとときを想像してうっとりしていると、「さあ、さあ、ここは後でいいから。まずはワインだよ、セニョーラ!」と、小柄な老人が現れた。頭にはバスクのベレー帽。ビトリーノだ。顔の皺や大きな手から農家の匂いが優しく漂う。想像とおりのビトリーノと、想像とはまるで違うモダンな空間に、「なんで? どうして?」と戸惑いながらも、促されるままに地下セラーに続くエレベーターへと乗り込んだ。

 ヨーロッパのワイナリーでエレベーターがあることにも驚いたが、これはただの移動手段ではない。全面ガラス貼りのデザインは、下降するにつれて薄暗い地下に熟成樽が見えてくるという演出なのだ。「これならみんな楽しめるだろう?」とビトリーノは笑う。地下に着くと長い通路が伸びていて、その両側の壁を彩る巨大な油絵や、天井まで積み上げられた樽を照らす間接照明が美しい。これがエグーレン・ウガルテなのか……、と思われたそのとき。「さあ、セニョーラ。ここからが面白いぞ」と、ビトリーノが細い通路に消えていった。

 湿った石の匂いがする冷たい地下世界。薄暗い灯りに目が慣れてくると、樽やテイスティング用のテーブルが見えてきた。なるほど、ここは昔の人が石を切り出した跡か、そうでなければ先祖が造った古いセラーなのだろう。ヨーロッパのワイナリーではよくあることだ。ここに貯蔵してある樽はきっと最高級ワインだな。そう思って突っ立っていると、「ここは入り口だよ。まだまだこの先に狭い通路や面白い小部屋がたくさんあるから早くおいで」と、ビトリーノが大きなゲートの鍵を開けて待っている。奥はこんなに広かったのか。

 鍵の付いた小さな部屋で仕切られた洞窟には、埃を被った山積みのボトルや高級ワインの木箱が大切に保管されている。こういう場合、普通はワイナリーが私的に所有する貴重なストックなのだが、驚いたことに、彼らはこの天然のワインセラーを一般客に解放していた。200本以上のワインを購入すればこの完璧な環境でワインを保管でき、いつでも自由に鍵を開けてワインを持っていくことができる。休日に家族や友人をワイナリーに連れてきて、自分のセラーからワインを選ぶなんて最高のもてなしだ。

地下入り口に眠る最高級ワイン※左の壁跡に注目!

地下のプライベートセラー


 「ちゃんと自分専用の小部屋もあるんだぞ」と愉快そうに披露してくれたビトリーノが、続いて耳を疑うようなことを言い出した。「30年数前にここを造ったんだ。いや、正確に言えば自分で掘ったんだよ。全長2kmもね」「こうやって石を運びながら」と、重たい石を運ぶそぶりをしてみせた。毎日毎日、仕事が始まる前と終わった後にここに来て、岩盤を削りながら少しずつ掘り進めていったのだという。信じられないような話だが、その証しに、岩肌には手作業でないとつかないノミの跡が無数についていた。一体どうして、どうしてそんなことをしたのだろう。(つづく)

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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