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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
第1回 ナバーラの砂漠が私にくれたもの (上)
 これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリアなど9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている河野佳代さんの新連載がスタート! 旅の舞台は情熱の国スペイン。最高のワインを求めて各地を巡った、出会いの記録です。

* * * * *


 これはいったいどういうことだろう。
 ラス・バルデナス・レアレス。スペイン北部、ピレネー山脈を挟んでフランスと国境を接するナバーラ州の南東には、ユネスコの生物圏保護区に指定されるヨーロッパ最大の半砂漠が広がっていた。その面積は東西24キロメートル、南北45キロメートルにも及ぶ。太古の昔、海の底だったこの一帯は、あるとき大地が隆起して、その後、長い年月をかけて水や風、太陽が土壌を侵食してつくりあげた独特の景観と、むき出しの大地が迫りくる。
 パウロ・コエーリョは著書『アルケミスト』の中で、「砂漠はとても大きく、地平線はとても遠いので、人は自分を小さく感じ、黙っているべきだと思うようになるんだ」と、らくだ使いに言わせているが、まさにそのとおりの感覚に陥った。ここはほかの惑星なのか。いや、地球だって宇宙に浮かぶ惑星だと気づかされる。想像を絶する壮大なスケールだ。


 この地に6万頭もの羊を連れて生きる羊飼いがいる。ハビエル・アイェチュ、その人だ。ドドドドドドド、と地響きをさせながら進む羊の群れ。その隊列を紹介しよう。
 先頭を行くのは、首に長さ40センチはあろうかという大きな鈴をぶら下げた雄のヤギ。砂漠地帯のラス・バルデナス・レアレスからピレネー山脈への道のりは非常に険しく、割れ目や岩場などの難所を前に、元来臆病な羊は歩みを止めてしまう。勇敢な雄ヤギが軽やかに先を行くことで、羊たちは安心して後を続くことができるのだ。ヤギの大きな鈴は、遠くを行くほかの羊飼いの群れとの衝突を避けるクラクション。群れと群れが混ざって誰の羊か、わからなくなることを防ぐ古来の知恵だ。
 群れの傍らには相棒の牧羊犬がぴたりと寄り添い、一行からはみ出そうとする羊たちを、吠えては追いかけ群れに戻し、かいがいしく働いている。牧羊犬はキツネやオオカミ、ヒグマなどから羊を守る番犬であると同時に、もう一つ、驚くべき役割がある。羊飼いが群れに指示を出すときに、羊たちの顔を彼のほうへ一斉に向けさせるのだ。一体どうやったらこんな大群を相手に、そんな芸当ができるのだろう! 荷役のロバは、われ関せずとその脇をついていく。

 砂漠の気候は厳しく、乾燥と昼夜の寒暖差が激しい。常に強い風が吹いているから、目には砂埃が入り、肌からは水分が抜けていくのがわかる。立っているだけでも相当なストレスだ。ところがこんな大地にも雑草やハーブは自生していて、動物の親子らしき足跡をたどっていくと、その先にはわずかな水たまりがあるから、野生の本能には驚いてしまう。
 まさかこんなところで生きている人がいたなんて、思いもしなかった。通行を許された保護区のがたがた道をゆく途中、突如現れたおびただしい数の羊たちを、私はただ車の中から見つめ、道をあけてもらうのを待っている。それにしても、と考える。羊飼いと羊たちがこんなにも優雅に見えるのはなぜだろう。

わたしの仕事


 最高のワインを求めて、こんなところまでやって来た。私はプロのワインバイヤー。もう20年近くずっとヨーロッパを巡ってこの仕事をしてきたから、いろんな国にたくさんの知り合いがいる。どこで誰がどんなワインを造っているのか、噂はいつでもやってくるし、生産者の顔を見れば、どんなワインを造るのかだいたいわかる。大袈裟だと笑われるかも知れないが、ワインは造り手の哲学が現れる飲み物だ。醸造家の話を聞き、一緒にテイスティングをする時間はとても素晴らしい。愛情いっぱいに造られたワイン。それが私にとっての最高のワインであり、ワインは大切な出会いの記録なのだ。

 ラス・バルデナス・レアレスに来た目的は、有機農法でワイン造りに取り組む「ボデガス・アスル・イ・ガランサ」。ワインの世界では“自然派”というジャンルに入るだろう。オーナーはダニー、マリア、フェルナンドの友だちトリオ。3人がまだ20代のころに設立した新しいワイナリーで、栽培醸造学校の同級生だったダニーとマリアが醸造を、マリアの兄でアーティストのフェルナンドがデザインを担当している。
 彼らとの付き合いもかれこれ15年になろうとしているが、初めてワイナリーを訪れた日、――珍しく砂漠に大雨の降る3月の寒い夜だった――、三人のワインを口にしたときの衝撃は忘れられない。「スペインの砂漠で有機ワインを造っている若者がいる」という噂を耳にしたときは、「砂漠のワインというのはパワフルで濃いのだろうか」としか想像できなかったのだが、差し出されたグラスからは溢れんばかりの美しい果実味が開いている。柔らかくて品があり、あまりの美味しさに長旅の疲れなど一瞬で吹き飛んでしまった。

 これで何度目の訪問になるだろう。アスル・イ・ガランサは大自然とのつながりを教えてくれるワイナリーであり、この地で暮らす個性豊かな仲間たちをいつも紹介してくれる。

「砂漠のワイン」のテロワール


 ワイナリーがあるのは、砂漠に一番近いカルカスティージョ村の一角。とうの昔に廃墟と化した古い協同組合をリノベーションして使っている。中に入ると、吹き抜けのリビングには色彩豊かな抽象画がライトに照らされて浮かび上がり、まるでアートギャラリーのようだ。フェルナンドの叔父が描いたという。隣接するセラーに鎮座するのは、長さ30メートルはあろうかという圧巻のコンクリートタンク。ここは緩やかな坂道を利用した半地下にあたり、夏場でも涼しい。エアコンが普及していなかった当時の工夫が、今となってはエコだ。

砂漠の影響を受ける畑のブドウは指でつまめるほど小さい

 村のすぐ南には広大な砂漠が広がり、北にはピレネー山脈がそびえ立つというダイナミックなロケーション。一年を通じて寒暖差が大きく降雨量が少ないという砂漠の気候が影響して、もともと農作物には向かない貧しい地域である。唯一よく育つのはワイン用のブドウくらいという厳しい風土ながら、果実本来の風味が凝縮した見事なブドウが実り、かつてはワインが地域の暮らしを支えていた。

 その証しに、近くには千年も続くシトー派の修道院がある。神に捧げるためのワインは最高でなければならないと考え、世界屈指の銘醸、ブルゴーニュワインの礎を築いたというシトー派が居を構えていることが、ここがワイン造りに選ばれし地であることを示している。
 しかし、質は高くとも量を求めるには、砂漠の気候はあまりにも厳しい。戦後、大量生産の時代を迎えると、こんなところでワインを造っても儲からないという理由から、ワイナリーは一つまた一つと去っていき、遂にはこの修道院を残して誰もいなくなってしまった。
 「みんな砂漠には何もないというけど、ここにはすべてがあるんだよ」とリラックスした様子の三人は言う。過疎化が進むこんな村にわざわざやって来たのだから、“ちょっと変わっている”といえるだろう。

 「ワインはもっと自然に造られるべきだ」。修業時代を通じてそう考えるようになっていた三人が求めたのは、量より質、そしてテロワール。テロワールとは、ワインが育まれる自然環境とそこに生きる人を指す。「偉大なワインは畑から生まれる」という言葉があるように、ワイン造りにおいては畑こそすべてといえるだろう。しかし、である。仮にどんなに生育環境に恵まれていても、それを活かす人の知恵がなければ何も生まれることはない。テロワールにおいて「人」は要の存在であり、広くは「人」も自然の一部といえる。


 整然と仕立てられたブドウ畑とは違って、三人の畑はまるで雑木林のようだ。よく見ると茂みにはカモミール、タイム、ローズマリー、ジュニパーベリーなど、たくさんのハーブがのびのびと枝を伸ばし、その豊かな香り誘われて、人間が「益虫」と呼ぶハチやテトウムシ、チョウが集まってきて、せっせと受粉をしている。
 生きた土があれば、雑草はブドウから栄養を奪ったりしない。ブドウの木は水分を求めてむしろ強くなり、味わいが増す。土が良いと生える草も変わり、土壌生物もどんどん増えていくから、畑を歩くとふかふかだ。耕すことも肥料をやることもしない。それは羊に任せてある。羊が歩けば自然と土は耕され、おまけに最高の“肥料”まで落としていってくれるのだ。

一般的なブドウ畑とは一線を画す三人の畑

 彼らがこの畑を作り始めたとき、“草だらけの空き地”に招かれて、マリアと一緒にローズマリーの苗を植えたことがある。大きな区画にたった一つ、二つ。いぶかる私に、「自然に任せるのが一番良いのよ。でも初めに少しだけ手を添えるの」とマリアは言った。

 ほんの一キロ先が砂漠というのが嘘のような別世界。ここには輝くような命の営みがあり、本当は生きているだけでみんなの役に立っている、ということを実感する。農薬などまったく撒かずに豊かな実りをもたらすこの農法を、三人は「Reproducción de la naturaleza(自然の再現)」と呼び、自らを茶目っ気たっぷりに「Vineyard Explorers(ブドウ畑の探検家)」と称している。

 “私たちにとってワイン造りとは、この風景、デシエルト(砂漠)への愛情を表現したものです。だからこそ私たちが造るワインは、その思いを素直に写し取ったものでありたいと願っています。ワインを造ることは、この偉大な景色と繋がるための一番ロマンティックな方法なのです” -Maria Barrena Belzunegui, vineyard manager and Winemaker of Bodegas Azul y Garanza

(つづく)

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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