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美しいくらし
ワインと旅するスペイン ソムリエ・ライフスタイルデザイナー
河野佳代
第5回 星の巡礼、カミーノ・デ・サンティアゴをゆく:後編(下)

アリベス、そしてビエルソへ


 ソリアの衝撃から半年、再びカスティーリャ・イ・レオン州に戻って来た。今度こそ真冬である。どこでどうやって知り合ったのか、お互い全く思い出せないドイツ人ワイン商、ヨアヒム・ブッチャー率いる弾丸ツアーに誘われて、極寒の1月初旬、広大な州内のワイナリーを4日間で14軒も巡る旅に出た。メンバーは数名のオランダ人を含む20名ほどのドイツ人バイヤーで、女性は私を含めてたったの3人というのはいつものこと。毎朝8時過ぎには出発し、夜11時を過ぎてもまだセラーで試飲をしていたことも度々だ。アポイントの都合があるから仕方ないのだが、州の端から端まで何度も往復しながらワインを探し続けた。

 カスティーリャ・イ・レオン州には、リベラ・デル・ドゥエロの陰に隠れた面白いワイン産地がいくつもある。知る人ぞ知るところでは「アリベス」であろう。すぐ隣はポルトガルという州の西端にある、スペインで最も小さなワイン産地の一つだ。標高800mと高地にあるのは変わらないが、同じ州でもここまで来ると様子が一変する。メセタの平原は切り立った渓谷となり、ドゥエロ川が流れる険しい絶壁に力強くも緑豊かな植生が広がっている。

ワイナリー「ラ・セテラ」は素朴な看板が目印

 ここフォルニージョス・デ・フェルモセージェ村に、夫婦2人で慎ましやかに営む小さなワイナリー、「ラ・セテラ」を訪ねた。「手作りチーズとワイン」と書かれた素朴な立て看板が目印だ。土壌が貧しく農作物には不向きなこの村の名産は、昔からチーズとワインである。しかし、どうしたことだろう。緑の丘を区切るのは、むかし住んでいたイギリスの“dry-stone wall(隙間をモルタルで固めずに組み上げた石の壁)”ではないか!
 人口60人足らずの静かな村を歩けば、近代建築など一つもなく、スペインらしからぬ独特の石組みでできた家々が心地よさそうに並んでいた。イギリスに来たみたいで懐かしい。潤いに満ちた緑の風景に、気持ちがスーっと和んでいく。

イギリスの田園に似た風景が広がる


 紀元前、ローマ帝国に支配されるまで、スペイン全土にケルト人が住んでいたということはあまり知られていない。ローマの支配が強まるにつれて、北へ北へと追いやられていったケルトの気配が今も漂うのが、スペイン北西部のもう一つの顔である。こんな辺境で手づくりの暮らしをするラ・セテラのマルティネス夫妻は、私の憧れだ。

渓谷のブドウ畑

 「もともとワイン造りには全く縁がなかったんです」という2人。生物学者として都会で研究の日々を送っていた。あるとき偶然この地にやってきて、その大自然に圧倒された2人は、ここで子育てをしながら自然に寄り添った暮らしがしたいと移住を決めた。さて、何をして暮らしていこうかと考えた時、「この場所で自然を学び、もともとここにあるものを生かして暮らしていこう。そうだ、チーズとワインだ!」とひらめいたのだ。

 ワイナリーの近くには渓谷があり、ヤギが谷を見下ろす姿が見られる。この渓谷「ラ・セテラ」から名前を取って、1994年にヤギのミルクで作るチーズ工房を、遅れて2003年にワイナリーを設立した。アリベスの希少品種フアン・ガルシアや、トゥリガ・ナシオナルといったポルトガル品種のワインは滑らかで複雑。ここでしか造れない秘境のワインに、一緒に訪れたドイツ人バイヤーたちもざわめいていた。手仕事に生きる2人には、「チーズやワインを通して、代えがたい自然がくれた文化遺産を守り抜く」という、内に秘めた熱い想いがある。食べものは加工が少ないほど健全である、そう信じて。

手づくりのチーズ

秘境のワインを味わうバイヤーたち


 ワイナリー巡りの弾丸ツアー、最終日は偶然にも「フランス人の道」、カスティーリャ・イ・レオン州最後の要所、ビラフランカ・デル・ビエルソであった。ワイン産地でいえば、「ビエルソ」だ。夏でも30度を超えることのないこの冷涼な地域では、白ワインはゴデーリョ、赤ワインはメンシアというブドウ品種を使ったきれいなワインが特産だ。貴重な古木もふんだんに使われている割には安いという北の隠れた名産地。ここには15世紀以来のブドウ畑を受け継ぐビクトル・ロブラとその息子たち――愛情と忠誠心というスペイン人の美徳を備えた家族――が待っているが、その話はまたどこかですることにしよう。

巡礼路を示すビエルソの黄色い矢印

 ピレネーを越えメセタ(乾燥高原)を歩く長いフランス人の道において、この街は人生の岐路のような場所だ。ここから先は、いよいよ聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラのあるガリシア州に入る。だが、ゴールも近いと喜ぶ暇もなく、州をまたぐと早々に標高1330mのセブレイロ峠が立ちはだかる。今よりずっと旅が困難だった中世、ここまで何とかたどり着いても、病気や怪我で巡礼を断念せざるを得ないこともあった。
 最後の難所を前に、先へ行くか退くか。究極の選択を迫られた巡礼者たちを救ったのが、街の中心にあるサンティアゴ教会の北門、通称「赦しの門」である。この門をくぐれば聖地に着いたとみなされることから、巡礼者の心の支えとなってきた。人生は2択にあらず。第3の道を求めよ、ということを静かに語りかける門である。

 笑顔で挨拶を交わしたワイナリー巡りのツアー初日には20人以上いた仲間は、やがて仕事や体調不良で半分に減り、ビラフランカ・デル・ビエルソのレストランで最後の晩餐をした翌朝は、また数名が体調を崩してふせっていた。屈強なゲルマン人男性の体力をも奪う1月の寒さの中、底冷えのするワイナリーを巡り続けた濃密な4日間。どんな仕事にも苦しいときは訪れる。途中、あまりの疲労で口の中が切れたこともあったけど、それでもワインを飲み続け、赦しの門に当たる朝日の美しさに見惚れながら今日も美味しく朝ご飯を食べている。

“Beber es Vivir” “Comer es Mas Aun”
飲むことは生きること。食べることはいわずもがな


 道中のバルの看板で見た、こんなスペインの言葉遊びを地で行くワイン巡礼。大空や大平原と向き合ってメセタの大地で耳を澄ませば、どこか遠くのほうから旅人を呼ぶ声が聞こえてくる。がんばれ、がんばれ、前に進め、こっちに来い、と言っているのか。それとも、苦しいか、今が苦しくてもこの先はもっと苦しいぞ、と言っているのかは分からない。何も変わらない景色だからこそ、気楽に歩けたという巡礼者もいる。要は考え方次第なのだろう。

 カスティーリャ・イ・レオン州をゆく道は、瞑想の道である。人はなぜ歩くのか。歩くしかないから歩くのだ。私がこんな所まで来てワインを探しているのも、詰まるところ深い理由など何もない。人生には良いことも悪いこともあり、もがいても変わらない歯がゆい時間もある。それはメセタなのだ。答えは出ないかも知れないが、歩き続けることが大切だ。
 そしてこうともいえる。肉体の限界に挑んでワインを探したメセタの思い出は、振り返ってみれば意外に温かいのだ。母なる大地に抱かれて、ワインが好きな仲間と寝食を共にし、「おはよう!」「元気?」「しんどくなってきたね」「このワインは美味しいね」と声を掛け合いながら過ごした時間。そんな彼らとは、今も変わらずワイン談義に花を咲かせている。

 総面積94,223平方kmに及ぶスペイン最大の州、カスティーリャ・イ・レオン。日本列島の実に4分の1をすっぽりと包むこの自治州の東の端、あの過疎のソリアこそ、イベリア半島北部を貫く大河、ドゥエロ川の水源なのだ。どんな偉業も始まりは小さなことから。そんなことを思いながら、もう一度メセタに目をやった。神様と対話したような気持になりながら。

メセタ(乾燥高原)の大地


「ドミニオ・デ・アタウタ」

(ドミニオ・デ・アタウタ)

 色合いはブラックチェリーのように深く、複雑で凝縮した香りに圧倒される力強い赤ワイン。野生のローズマリーやラベンダーなど地中海のハーブの香り(総じてガリーグ)をまといつつ、同じ黒ブドウ品種のテンプラニーリョでも赤果実のニュアンスが出るリオハと違い、全体的に黒果実の風味に包まれているのはリベラ・デル・ドゥエロならでは。一切の雑味をそぎ落としたきれいな口当たりは、これこそがアタウタだと唸ってしまう。

景色に溶け込むアタウタのワイナリー

 土壌を想わせるミネラル感としっかりとした酸に支えられて、余韻はどこまでも長く美しい。こんなにも美しいワインがあの過酷な大地で生まれるというギャップには、飲む度に驚かされる。醸造家だったら、誰もが一度はこんな所でワインを造りたいと思うだろう。そんな気持ちを追体験できる、孤高のブドウ畑のワインである。

【河野佳代さんのinstagram】https://www.instagram.com/kayohanako/?hl=ja
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【こうの・かよ】
日本の酒類専門商社で17年間のワインの買い付けを経て、2020年よりパリの高級スピリッツ「ディスティレリ・ド・パリ」、スペイン王室御用達シェリー「ボデガス・ヒメネス・スピノラ」のブランドアンバサダーに就任。これまで買い付けたワインは、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリス、ポルトガル、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアの9カ国、52地域。延べ1000回以上のイベントセミナーを通して造り手と向き合い、本物のワインを広める活動を行っている“美味しく食べて幸せに暮らす”を実践し、お酒をきっかけに世界をつなげている。J.S.A.ソムリエ、トリリンガル(日本語、英語、スペイン語)。
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