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かもめアカデミー
ミストラルの面影を探して 東海大学法学部法律学科 非常勤講師
安達未菜
最終回 ミストラルのノーベル文学賞と晩年
 私はあなたの著作とメダルに大いに満足しています。と言いますのも、私は『ミレイユ』の写しを20年近くも手元に持ち続けてきたのですから。(中略)もし、古来の社会的結合がなくなってしまうとしたならば、蓄積された富がいかに莫大であろうとも、産業化がいかに急速に進展しようとも、熱狂的で多彩な活動が行われようとも、それは個人にとっても国民にとっても有益なものとはならないでしょう。私は国民的身体の問題を軽視してはいません。私はただひたすら願うものです、私たちにとって古来の社会的結合は国民的身体と並ぶ国民的魂であることを決して忘れさせることのないように、と。

セオドア・ルーズベルト 1904年12月15日


 フレデリック・ミストラルがノーベル文学賞を受賞(第6回)した5日後、アメリカ合衆国第26代大統領から送られてきた書簡の一節だ。厳かな言葉のなかに、地域を愛するミストラルの気持ちを汲み取ろうとする姿勢が伝わってくる。

セオドア・ルーズベルト大統領からミストラル宛ての書簡


 ルーズベルトがかねてより『ミレイユ』の愛読者であったことも驚きだが、それ以上に目を見張るのは、社会の近代化・産業化を牽引するリーダーであるはずのアメリカの大統領が、国民にとって「古来の社会的結合」がいかに大事であるかを理解し、それこそが国民的魂を内包してきた存在だと率直に告白していることだ。この書簡は現在、マイヤンヌのミストラル博物館にて厳重に保管、管理されている。

 「古来の社会的結合(old association)」とは、前近代のヨーロッパ諸国で為政者と国民の間に介在した地域共同体や伝統的なつながりであると言っていいだろう。こうした地域社会と密接に結びついていた共同体の根底には、地域民としてのアイデンティティー、あるいは地域に根ざした言語や慣習といった伝統的な文化があった。フランス革命以降の過度な中央集権化は、地域の特性を限りなく希薄化させていくものだった。
 ミストラルが生まれた19世紀の前半は、地域の伝統的な社会を知らない若者とフランス革命を経験した年長者が共存していた最後の時代である。人々の意識は、まだ近世と近代の狭間をさまよっていた。ミストラルの世代が復興させようとしたのは、まさにかつての社会的結合の内奥に潜む、地域の視点から思考する人と人を結ぶ絆であったのだ――。

ノーベル文学賞授与メダル

 ところで、メダルは2人の少数言語作家に授与されたのだが、当初、共同受賞者として予定されていた候補者は、スペインのカタルーニャ文芸復興運動家の一人で、カタルーニャ語で執筆活動を行っていた作家アンジャル・ギマラであった。しかし、当時の政治的問題から、政治家としても知られた劇作家のホセ・エチェガライにスポットライトが当たることになった(第6回)
 ノーベル文学賞の要件は各国語への翻訳だ。『ミレイユ』には、出版時にミストラル自身のフランス語訳が添えられていた。その後、英語・カタルーニャ語をはじめ各国語に翻訳され、国際的に読まれていった。

 ミストラルは19世紀の民族言語復興運動の国際的潮流の中に位置し、同時代にはシベリウスの組曲でも広く知られているフィンランドの民族歌謡『カレワラ』やポーランドの長編叙事詩『パン・タデウシュ』のように、民族語文学が各地で注目を集めていた。ミストラルもまた、そのナショナリズムの影響下に芽生えたロマンス諸語(ラテン語を起源とする言語群)に関する研究の成果を敏感に受け止めていた。

ミストラルが受領した礼状や文学関連を話題にした書簡群の展示(ミストラル博物館にて)

 意外に思われるかもしれないが、プロヴァンス語はパリの標準フランス語よりも、むしろバルセロナを中心とするカタルーニャの言語に近い。プロヴァンス文学とカタルーニャ文学は同様の起源と歴史をたどってきた。文芸を主たる活動とするミストラルが指導したプロヴァンス地方の言語・文化復興団体フェリブリージュは、カタルーニャの詩人たちの復興団体と長らく交流を続けていた。

 フランス人としては2人目となるノーベル文学賞受賞の快挙は、ミストラル個人にとっての栄誉であるのみならず、ローカルな言語・文化と、地方主義的文学運動として軽視されがちであったフェリブリージュが、最高峰の文学運動として世界に広く知られる契機となった。2年後の1906年、ミストラルはこの時の受賞金を運営資金として、アルル民俗博物館を建立したのであった(第6回)
 ところで、プロヴァンス語は、中世の12、13世紀にはトルバドゥールと呼ばれる南フランスの宮廷を舞台に恋愛を高らかに歌い上げた吟遊詩人たちによって、優れた表現力と技巧に富む文芸語としてその芸術性の頂点に達していた。しかし、その後の南フランスの政治的混乱、さらに16世紀以降はパリの中央政府の標準フランス語化政策によって、書き言葉としては衰微し、ミストラルの若き日には品格を欠く粗野な話し言葉としてしか見なされていなかったのである。彼は、回顧録『青春の思い出』(1906年)の中で、子どもたちが「プロヴァンス気質を捨てざるを得なくされている」と指摘し、民衆や地域の著名な詩人さえも、プロヴァンス語本来の、内容豊かな表現を顧みなくなっていたのだと、悲嘆している。

 1851年夏、当時21才のミストラルは、エクス大学を修了した後、故郷のマイヤンヌに戻った。彼はこの時、3つの信念を掲げて今後プロヴァンス語復興の活動にいっそう専念することを決意した。言語に根ざす地域主義を強く自覚し始めたのはこの時期である。
 「第1に、学校が強行してきた誤った教育によって、プロヴァンスの民族的感情は今や壊滅に瀕している。我々はこうした教育を改革して、民族独立の感情に目覚め、これを育成し、助長していくこと。第2に、今日学校が躍起になって絶滅しようとしている、先祖伝来の、郷土固有の言語を復興して、民族感情の伸張に資すること。第3に、新しい詩作品の創成に力(つと)めて、プロヴァンス語の興隆を図ること」
 ミストラルが構想した言語・文化復興運動の特徴は、当時法的に禁止されていた学校の現場においてプロヴァンス語教育を確立することにあった。その50年後に、今や74歳になったミストラルがノーベル賞を受賞したのは、この間の少数言語復興運動に対する国際的評価の高まりを示す出来事であったと言えよう。もっとも、「一にして不可分の共和国」を目指すフランス革命の理念に基づく、徹底した標準フランス語化教育は、中央政府にとって曲げることのできない国是であった。学校でのプロヴァンス語教育というミストラルの若き日の夢は、生前にはついに叶うことがなかった。フランスで公教育の場における一部の地域言語(ブルターニュ語、バスク語、カタルーニャ語、オック語)の教育が認められたのは、実に1951年に制定された法律(デクソンヌ法)によってであった。

フレデリック・ミストラル

 1906年のアルル民俗博物館設立は、高齢のミストラルにとって最後の大きな出来事となった。彼は、落成式に先立ち数ヶ月間病床に伏していたし、以後はフェリブリージュの集会にも顔を見せることは珍しくなっていった。1914年3月19日、風邪が原因でマイヤンヌの自宅で床に臥し、25日に亡くなった。享年83。その後、盛大な葬儀の中で見送られた。
 墓所はマイヤンヌにある。ミストラルが生前の1906年に14世紀のプロヴァンス女伯ジャンヌの東屋を模して建築した墓で、2匹の愛犬の顔が彫刻されている。1830年の七月革命直後に生を受け、第一次世界大戦が勃発する直前に逝ったその生涯は、一つの時代を鮮やかに映し出している。詩人は王政、共和政、帝政、そして再び共和政とまさに目まぐるしく変化する激動の時代を、見事なまでに駆け抜けたのであった。少数言語の権利を高める一つの運動として布石を置いたミストラルの文芸活動は、現在のプロヴァンスの人々にしっかりと受け継がれている――。

ミストラルの精神とプロヴァンス文化を継ぐマイヤンヌの子どもたち

 さて、このたび連載エッセイというありがたい機会を得た。第1回で述べたミストラルとの出会いから、振り返ってみると早12年の歳月が流れていた。私は日ごろ、自身について語るのが得意ではないのだが、これまで得てきた体験や関わってきた人々について紹介することができたのは、とてもうれしいことだった。実は、私はこの8月からかつてはミストラルも学んだエクス・マルセイユ大学の地中海地域を主たる対象とする研究所にて、客員研究員として長期の在外研究に従事することとなった。
 思いがけずキラッと光るお宝を探し当てたときが、旅の一番の喜びだ。何があるか未だ知れない、それは日常生活やふとした会話の中にある。現地でのフィールドワーク、新しい出会いを引き寄せながら、プロヴァンス地方の歴史の奥深く、発掘を待ち望む声に耳を澄ませたい。
 アビヤント、ジェスペール(また会いましょう)!  (おわり)

(写真提供:安達未菜)

*安達先生のインタビュー記事
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【あだち・みな】
1990年、東京都生まれ。神奈川県育ち。東海大学法学部法律学科非常勤講師、博士(文学)。東海大学文学部ヨーロッパ文明学科を経て、博士課程前期・後期を東海大学大学院文学研究科文明研究専攻にて修学し、2021年に東海大学にて博士(文学)を取得。専門分野はフランス近現代史、文明学、社会言語学。研究対象はプロヴァンスの地域主義団体「フェリブリージュ」と創設者の一人であるフレデリック・ミストラル。特に、「フェリブリージュ」が第三共和政期に展開させた「汎ラテン主義」構想について分析し、ラテン民族を紐帯とする超国家的な地域主義者の連帯という新たな思想水脈、あるいはその社会構想の試みについて研究している。
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