第4回(上) 書簡から読み解くミストラルの素顔――恋愛
蛹(さなぎ)のなかの蝶のように、文箱の中でこの手紙は長い間眠っていましたけれども、勇気を出して、私はマーガレットの最後の花びらに助言を求め、窓外に輝く星に私の計画を語って、越冬するツバメに私の密かな想いをささやきました! 花は期待に応えてくれたかしら? それから、私は信じて、銀のソーヌ川にしがない私の手紙を放ちました。それは僅かな苔のように、瞬く間に急流のローヌ川へ流れ込み、マイヤンヌのオリーブの木々へと飛んでいきました。 ――ミストラル宛ての書簡(1864年)より 過去の歴史を再構成するのに必要な資料は、大きく分けて公的文書と私的文書がある。公的文書はもちろん研究には不可欠だが、「政治」に関わるデリケートなテーマが含まれる場合、オフィシャルな見解を伝える公的文書をさらに深掘りしようとすると、「閲覧不可」という壁に阻まれることも珍しくはない。この壁に風穴を空けてくれるのが、日記、書簡などの私的文書だ。そこに書かれた公の規約などを決定する前の当事者の悩みや訴えから、表の顔とは異なる舞台裏を垣間見せてくれる。特に、私が見ている19世紀後半は、鉄道網が急速に発達した結果、郵便の配達ルートが飛躍的に伸び、手紙自体も数多く書かれるようになった時代である。知識人にとって、手紙を書くことは、毎日の日課の一部であったと言っても過言ではない。
ただし、風通しを良くするのも、容易ではない。ミストラルは日記を遺さなかったし、これとは逆に書簡はあまりにも膨大な数に上るからである。ミストラルとフェリブリージュ関係者、文学者、友人・知人、あるいは恋人と交わした往復書簡集は10点に上る。他方、未刊行書簡の規模は今なお不明である。

ミストラル宛ての書簡

ミストラルの「蜥蜴の家」(現観光案内施設)内の資料閲覧室
一例を挙げるならば、マイヤンヌ市のミストラル博物館には、ミストラル宛ての膨大な量の書簡が所蔵されている。このうち差出人、年月日等の確認が終わり、閲覧に供されているものは約2万通、これに対し未整理で閲覧不可の書簡は約4万通にもおよぶ。貴重な書籍、資料に囲まれながら、手に取る書簡群は、宝の山だ。私は同博物館の研究員として長らく調査を行っているが、まだその一部を参看・利用し得たにすぎない。しかも、この場合、受け取り手であるミストラルがどのように返信したのか、つまり往復書簡を再構成するには各地に散逸した書簡を網羅的に調査・収集する必要があり、全体像を把握することは至難の業である。
内容面でも、プライベートなやりとりの場合、相当の事情通でない限り、文面をただちに理解することは難しい。第4回は、私がこれまでに書簡から読み解いてきたミストラルの人物像を、「恋愛」と「こころ」に分けて、いくつかのエピソードを紹介する。まずは、恋人と交わした書簡からミストラルの愛のヒストリアへ誘おう。
ミストラルは恋多き男性だったようであるが、その多くは実ることはなかった。
ミストラルは1859年春、出版されたばかりの『ミレイユ』を手にパリに乗り込み、ロマン主義文学の大御所であるラマルティーヌ(1790-1869)を始めとするパリ文壇の重鎮たちから絶賛された。その帰路、ブルゴーニュ地方の旧都ディジョンで知り合ったのが若き女性詩人のマリー・ベルトラン(1836-1875)である。彼女が文通をしていたラマルティーヌが仲介者となって、ミストラルはベルトランの自宅に訪問したようだ。彼女は「10年も前から知り合っていたような気がするの」と手紙を送り、一緒に庭で過ごした歓談のひと時を思い起こしている。ミストラルも、「ディジョンでのロマンス」に魅了されていたようだ。マイヤンヌに来たベルトランと過ごした冒険の日々を懐かしみ、彼女からプロポーズされたという。7月のことである。
しかし、ミストラルはベルトランからの求婚を斥け、「自分にはプロヴァンスの女性が必要なのだ」とつれない返事をした。ベルトランは、「それでも、いつでもあなたを愛しています」と書き送っている。当時、ミストラルには「複数人のフィアンセがいた」との証言も伝わっている。それはともかく、色男ミストラルも、プロヴァンスで現地語を大事にするミレイユのような女性と恋愛を結ぶことには、苦戦の連続であったようだ。
ミストラルの心を最も熱く捉えた女性は、同じくブルゴーニュ地方出身のヴァランティーヌ・ロスタン(1847-1903)であった。1864年から1902年の間にミストラルに送付された約150通の手紙の束が残されており、その間には、茶色の髪の毛、ドライフラワー、黄ばんだ写真がミストラル生前のままに挟んである。若き日のロスタンの手紙はたいへん美しく、繊細な書体で便箋を飾っている。当時の紙は、強く書くと穴が空いてしまうほどもろく、光を当てると透けて見えるほど繊細な薄茶色である。19世紀は安価で量産可能な酸性紙が多く使われ始めたが、二重の繊細さが一層、彼女のか細い筆致を引き立てているのかもしれない。

ヴァランティーヌ・ロスタン(1872年)
『ミレイユ』の詩人宛てに、17歳年下の彼女が最初に書き送った熱烈なファンレター(冒頭の文面はその一部)。これに対してミストラルが送った返事は、乙女心に注意を払いつつも、諭すようにそっけない内容であった。「あなたの優しさに感謝しています。あらゆる行動には思慮深さが不可欠です。あなたの手紙は私の宝物であり、誰にも知られずに隠されています……」
以降、3年間ミストラルが少女に手紙を送ることはなかった。1864年当時ミストラルの心を最も射止めていたのは、『ミレイユ』をオペラ化した作曲家グノーを介して知り合った、パリでサロンを開いていたジャンヌ・ドトゥールベイ伯爵夫人(1837-1908)だったからである。夫人もミストラルに惹かれていた。「澄み渡った瑠璃色の海淵の内を見るように、あなたの心奥を覗きたい。それはあまりに深く、私はあなたの心に溺れることができるでしょうか」
しかし、ミストラルはその後、ドトゥールベイとの愛情を欠く享楽的な関係に嫌気がさしたようである。1868年春、道徳的葛藤に苦しんでいたミストラルは、初めはそっけなく返事をしたロスタンからの手紙に救いを求めるようになった。7月には早くも二人の結婚が話題になっている。
ところが、である。「私(ロスタン)の家族は私たちの結婚に同意しません。ああ! 運がすべてなのです。もし、私がすべてを捨ててあなたとともに逃げたとしたら、何が私を待っているか分かりますか? 私を相続権から排除しようとする父の怒り……、そしておそらく私を許さずに死んでしまう母……。私たちには、時間、偶然の巡り合わせ、あるいは幸運を願うしかないのです」
1年後、ミストラルは長年の友人であるボナパルト=ワイズ(1826-1892)に対して、金の無心をするに至った。「私には心から愛する人がいます。『ミレイユ』を通して出会った19歳の美しい娘です。彼女を妻にしたいと思っていますし、彼女も私を夫にしたいと思っています。しかし、深刻な難事が私たちを引き裂くのです。彼女は50万フランの持参金を持っていますが、彼女の両親は100万フランを要求しています……。数カ月間、そのお金を貸してくれないでしょうか?」
この莫大な金額は、ミストラルがロスタンの伝えた数字を誇張したのか、それとも彼女が実際に提示した数字なのかは不明だが、ロスタンとの結婚が実現することはなかった。結局、1873年、彼女は前途有望な将校と結婚し、ミストラルは大いに落胆することとなった。「理想への憧れは、この世においては、ダンテの『神曲』におけるフランチェスカ・ダ・リミニとその恋人の苦しみのような、崇高にして甘美な責め苦である」
1875年、最初の恋人であったマリー・ベルトランが若くして亡くなった。ミストラルは彼女の葬儀に参列するためにディジョンに向かったが、その際、姪のマリー・リヴィエール(1857-1943)を見初めて求婚した。1年半の婚約期間を経た後、1876年9月にようやく結婚を果たした。二人の年齢差は実に27才であった……。
実は当時、上流階級では親子ほどの年齢差での結婚は珍しくなかった。夫たる者は、相応の社会的地位と財産を求められており、結婚適齢期は30歳代以降であった。このため、夫に先立たれた妻の寡婦期間はかなり長く――マリー・リヴィエールの場合29年間――、老後の生活の保障のためにも一定の財産は必須条件であった。ましてや、「詩人」という不安定な立場であれば、ロスタンの両親が二の足を踏んだのも、無理からぬことであった。(つづく)
(写真提供:安達未菜)
*安達先生のインタビュー記事
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