ノーベル文学賞の受賞者に実は「ミストラル」という人物が2人いることは、あまり知られていないかもしれない。一人は本シリーズの主人公のフレデリック(1830-1914)。もう一人はガブリエラ(1889-1957)という女性である。「ラテン・アメリカの母」と呼ばれ、チリではもっとも尊敬される教育者として紙幣の肖像に取り上げられている。

ガブリエラ・ミストラルの肖像
私が生まれる1世紀と1年前の1889年、チリ北部のエルキ流域のコキンボ州ビクーニャ村に、もう一人のミストラルの命火が灯った。ラ・フロリダ空港近くの駅から2時間弱東に行くとたどり着くこの地には、星々の光がよどむことなく大地に降り注ぐ。幼女は庭の小鳥や花々といつも夢中になって話をしていた。自然と戯れ、心を通わす少女の本名はルシラ・ゴドイ・アルカヤガ。両親ともその祖先は、スペインとフランスの国境ピレネー山脈地方に住む少数民族バスク人の出身であった。彼女は3歳の時に妻と幼子を残して夜逃げした父親の素顔を知る由もないが、父も即興で詩を書くナイーブな人だった。
プロヴァンス詩人ミストラルがノーベル文学賞を受賞した1904年、チリの少女アルカヤガは、小学校の代用教員としての仕事の傍ら、15歳にして初の詩編を地方紙に発表した。プロヴァンスの詩人が逝去した1914年には首都サンティアゴの詩文コンクールで最優秀賞を受賞した。フレデリックを導いた詩のミューズ(女神)が、瞬く星の光を通って、アルカヤガのもとに降り立ったのかもしれない。
1922年、彼女は敬愛する2人の詩人から名を借りて、「ガブリエラ・ミストラル」の名で詩集『荒地』を出版した。「ガブリエラ」とはイタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938)のことであり、彼の名を女性形にして拝借したのだった。『荒地』は彼女のもっとも高く評価される詩集である。しかし、作品はプロヴァンスのミストラルのそれとは異なり、20歳の彼女の心に残した初恋の爪痕から生まれたものだった。小学校で国語などを教えていた彼女は、鉄道員との間に芽生えた感情を愛しんでいたが、恋心を寄せた彼は1909年、暗い闇に蝕まれて自らの手でこの世界とのつながりを刈り取ってしまった。彼を突然失い、「荒地」に立つ彼女の顔は常に涙に濡れていた。多くの人が理解を示すであろう失恋の淵で、アルカヤガは詩人としての人生を歩み出した。
「うしろに寄りそう花サルビアは もはやのびやかではなく青くなかった かまわない(…)誰に傷ついたのでもなく この顔は 涙に濡れた」
あなたのものではなくなった「わたし」の、あのひとを責めたいわけでもない「わたし」の、ただあふる涙と引き裂かれてぷつんと糸の切れた感情がそこにある。悲しみから彼の痕跡を記憶から手繰り寄せる彼女の詩が、『荒地』所収の「ばらあど」(バラード形式で綴られた哀悼の詩)以降、少し変化を示す。旅立った彼を想う海面に映る宵の「レモンの月」もその一遍。時の慰めがもたらす静けさの中、花園に彼の死を見ている。しかしその表現はどこか客観的でもある。彼女を真に慰めたのは、教え子たちに寄せる母性愛とそれに返す屈託の無い笑顔だった。
「山てから海べまで 夜が砂漠になる(それでも)おまえを寝かしつける わたしに孤独はない」。
『荒地』は中南米の新聞に掲載された彼女の詩に感銘を受けたアメリカ人の肝いりでニューヨークで刊行された。この年から2年間、彼女はメキシコ政府の依頼で同国の教育改革のために尽力し、その後西ヨーロッパを旅行し、各国の詩人たちとの交流を深めた。子どもたちと歌ったロンドを収めた第2詩集『腕愛(えんあい)』が1924年に出版されたのは、マドリードにおいてであった。1925年の帰国後は、国際連盟の委員としてフランスに滞在し、チリの独裁政権による弾圧もものともせず、1933年以降は西ヨーロッパ、ラテン・アメリカ諸国で外交官として国際的文化交流の場で活躍した。第3詩集『タラ』は、スペイン内戦(1936-38)の被害を受けた子どもたちを援助するために、アルゼンチンのブエノス・アイレスで出版された。
ピカソ(1881-1973)の最高傑作である「ゲルニカ」。ゲルニカとはスペイン内戦でドイツ空軍による無差別攻撃を受けたバスク人の村の名である。ピカソは、フランコ独裁政権への抗議表明として、スペインに自由が回復したら「ゲルニカ」を返還するようにニューヨーク近代美術館と協定を結んでいた(返還は1981年)。私が想像するに、ガブリエラはバスクの同胞たちを見舞った悲劇を傍観視することはできなかったのではないか。『タラ』には、スペインでバスクと同様に差別の対象にあったスペイン北東部地方のカタルーニャを舞台にした祝福(祝婚)を願う詩が含まれている。
1945年にノーベル文学賞の栄誉に輝いたガブリエラは、女性としては4人目であり、ラテン・アメリカでは初の受賞者となった。元々この年に白羽の矢が当たっていたのはフランスの詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)であった。しかし、受賞決定の直前に他界してしまったのだ。ガブリエラは、ラテン・アメリカのすべての大学の文学部、文学アカデミー、文化機関、そして政府からの強い推薦を受けて一躍文壇の寵児となった。現在、故郷のビクーニャ村には、1957年に開設されたガブリエラ・ミストラル博物館があり、彼女の書誌コレクションが保存されている。

ミストラル博物館に寄贈された彫像の除幕式
実は、私が「ガブリエラ・ミストラル」の名を初めて知ったのは、2024年に参加したミストラル祭においてであった。ガブリエラの縁戚にあたるテレサとジョルジュ・ボナン夫妻が祭りに参加するためにマイヤンヌの地に訪れていたのだ。
翌2025年の祭りでは、ミストラル博物館にてガブリエラの特別展示が行われ、プロヴァンスとチリの2つの地域を結ぶ国際文化交流の様相を呈してセレモニーと彫像の除幕式が開かれた。夫妻はプロヴァンスをこよなく愛したガブリエラに捧げる場所をマイヤンヌに作るために、ミストラル博物館に彫像を寄贈したのだ。ガブリエラをイメージした花々に囲まれた可愛らしい女性のスカートには、彼女が愛した教え子たちが模してある。フレデリック・ミストラルとガブリエラ・ミストラル、その彫像は2人が奇しくも出会った歴史的な瞬間を象徴するものであった。(つづく)

ガブリエラをイメージした彫像の前で。縁戚のテレサ氏(左)とマイヤンヌ市
の副市長のユージェニー氏(右)
(写真提供:安達未菜)
*安達先生のインタビュー記事
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