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美しいくらし
わたしのバルト三国ひとり旅 旅する食文化研究家
佐々木敬子
最終回 ヤマウズラの料理《ラトビア》
ラトビアの北西部、バルト海沿いのヴェンツピルピルス(Ventspils)という町に滞在していた10月のある日、バスで1時間ほど南にある人口およそ800人の小さな港町パヴィロスタ(Pāvilosta)へと向かいました。第一次世界大戦以降に漁業が盛んになったこの町には、現在もなお漁業を生業とした人々が住んでいます。現在ではラトビア国内でもっとも有名なウインドサーフィンスポットとしても知られていて、ヨーロッパからサーフィン愛好家や観光客が訪れる場所となっています。

朝9時半ごろにパヴィロスタに到着し、住宅街を歩き始めると、人々が何やら集まっている場所がありました。地元の野菜、ライ麦パン、手作りのお菓子、ジャム、花などを販売する小さなマーケットが開かれていたのです。朝に開かれる小さなマーケットは、地元の人々が必要なものを手に入れるための大事なインフラなのでしょう。お年寄りを中心にたくさんの人で賑わっていました。

碁盤の目のように交差する道を気の向くままに曲がりながら歩いていくと、低い松林の先に砂浜と海が見えてきました。バルト海沿岸の典型的な遠浅の海に、穏やかな波がゆっくりと寄せては返して、心地よい波の音がエンドレスに流れ続けています。夏は賑わいを見せますが、私が訪れたのは10月末だったため、辺りは静けさに包まれていました。小さな港町は30分もあれば、おおよそ網羅できるのです。

アネテさんの家の母屋


この日の目的は、地元に住むアネテ(Anete)さんからラトビアの伝統料理を教えてもらうこと。アネテさんの家の場所をスマートフォンで調べると、先ほどのマーケット会場の斜め向かいでした。家にたどり着いて門扉を恐る恐る開けた私の目に飛び込んできたのは、庭を囲むように建つ2つの立派な家と物置です。出迎えてくれたアネテさんに「素敵なご自宅ですね!」と挨拶代わりに話しかけると、「全部自分たちでリノベーションしたんですよ」と教えてくれました。

今から約10年前の2015年に、ラトビアの首都リガ(Rīga)から港町パヴィロスタに引っ越してきたアネテさん一家。夫のクリシュヤーニス(Krišjānis)さんが趣味のサーフィンに没頭できるようにと、昔から何度も訪れていた愛着のあるこの地に移り住むことを決断したそうです。
「引っ越してきた当時、家の周りはホームレスの溜まり場になっていたんですよ。敷地内はゴミ溜めのような状態だったから、まずゴミを取り除くことからの出発だったわ。そこから少しずつお金を集めてはリノベーションをして、今は民泊施設として6つの部屋を貸しているんですよ」

スタイリッシュなダイニングルーム

私たち日本人は、自分で家をリノベーションするなんてあまりイメージできませんが、ラトビア人にとっては普通のことです。とはいっても、建物や庭などは素人のリノベーションとは思えないほどの完成度の高さでした。センスが光るインテリアに囲まれながら海辺のリゾート生活が楽しめるのが人気で、夏の間は全室が満室になるのだとか。

敷地の奥にある建物に案内されると、ここはレストランかと錯覚するほど、大きくてスタイリッシュなダイニングルームが広がっていました。「レストランですか?」と、しつこく2度もアネテさんに確認しましたが「いいえ、レストランじゃないのよ」と笑いながら返事が返ってきました。ダイニングルームの隅のカウンターの向こうにあるキッチンに目をやると、女性が一人います。「義母のリギータ(Ligita)です。すぐ近くに住んでいるから、料理の手伝いに来たのよ。今日はイルビーテス(Irbītes)を作るわね」
ラトビアの伝統料理を教えてほしいとお願いしていた私のために、強力な助っ人を呼んでくれていたのです。

台所で料理をするアネテさんの義母のリギータさん


イルビーテスという料理名は、ラトビア語で「ヤマウズラの幼鳥」という意味。糸で縛った牛肉の形がヤマウズラの幼鳥に似ていることから名付けられたそうです。ライ麦パン粉とタマネギ、小さく刻んだベーコンを炒めたものをミートハンマーで叩いて薄くした牛肉でくるくると巻き、裁縫用の糸で牛肉を縛ってフライパンで焼いてから、サワークリームを入れて煮込んだ料理です。

糸で縛る前のイルビーテス

糸で縛った牛肉をフライパンで焼く


「包むのを手伝ってくれるかしら?」リギータさんに頼まれました。
働かざるもの食うべからず、とばかりに私が気合いを入れて袖をまくり上げると……キッチン台に見えたのは、うず高く重なった薄切り牛肉の山。山の高さは20cmぐらいで、それがなんと4つもあります。すべて包むと何時間くらいかかるんだろうと思って少し気が遠くなりましたが、リギータさんとアネテさんはお喋りをしながらどんどんと牛肉を糸で縛っていきます。私も集中して肉を縛り始めると、いつのまにか肉の高さがあとわずかになっていました。これらを鍋に入れサワークリームを加えて、コトコト煮たらできあがりです。

完成したイルビーテス


そのうち、ダイニングにはアネテさんとクリシュヤーニスさん夫婦の3人の子どもたちだけでなく、車で40分ほどの場所に住むきょうだい家族や、キャンピングカーで旅行中のアネテさんのお母さんとそのパートナーも集まってきて、この日は結局、同行してくれた現地在住の私の友人と私を含む総勢14人で完成したイルビーテスを食べることになりました。
なるほど、レストランのような大きなダイニングルームにしたのは家族や親戚と一緒に食事を楽しむためなんだな……私は着席しながら思いました。

イルビーデスを食べるアネテさん

初めて食べるイルビーテスは、牛肉を噛むほどに、ライ麦パンの香ばしさとタマネギの甘みが染み出してきます。サワークリームで煮ているため、深みのあるクリーミーな味わいが口の中に広がってきました。お皿に添えたマッシュポテトをサワークリームにつけながら食べると、ますます食が進みます。さて、口の中に残った糸をどうしようかと考えながら皆のお皿を見ると、お皿の上には白い糸がまるで素麺のように積もっていました。食べた数だけ糸が積もるので「おいしいね」という言葉が糸に込められているような気がして、作り甲斐のある料理なのかもしれません。

帰国後、ラトビアの大家族と一緒に食べたイルビーテスの話を日本の友人にしたところ、「料理名がヤマウズラの幼鳥って残酷じゃない?」と、想像だにしなかった反応がありました。実際は牛肉を縛った料理なので私は残酷だと1ミリも思わなかったのですが、皆さんはどうでしょうか?(おわり)

取材に同行してくれた私の友人と食事を囲むアネテさん家族


エストニア、ラトビア、リトアニア――バルト海の東岸に並ぶ3つの国にひとり飛び込んで出会ったおいしいもの、そして人々の暮らしを綴った佐々木敬子さんの連載は今回で終わります。10月からは、おいしいものを探す佐々木さんの新たな旅の連載がスタート予定です。舞台は台湾。さて、次はどんな出会いが待っているでしょうか? 乞うご期待!

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【ささき・けいこ】
旅する食文化研究家。料理教室「エストニア料理屋さん」、バルト三国の情報サイト「バルトの森」主宰。会社員時代に香港駐在を経験したのち、帰国後は会社務めの傍ら世界各地を旅して現地の料理教室や家庭でその国の味を習得。退職後の2018年からエストニア共和国外務省公認市民外交官としての活動を始め、駐日欧州連合代表部、来日アーティストなどに料理提供を協力。企業、公共事業向けレシピ開発やワークショップ、食文化講演なども行う。著書に『旅するエストニア料理レシピ』、『バルト三国のキッチンから』(産業編集センター)。
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