バルト海の東岸に並ぶ3つの国々、エストニア、ラトビア、リトアニア。バルト三国と呼ばれるこれらの国の中で最も北に位置し、東はロシア、南はラトビアに接しているのがエストニアです。この国と日本との関係は古く、2021年には外交関係樹立から100周年を迎えました。近年はIT先進国としても注目を集めていて、日本とビジネスを通じた新たな交流も生まれています。そんなエストニアの家庭に飛び込んで人々と交流し、その味や文化を日本の人々に広める活動を展開しているのが、旅する食文化研究家の佐々木敬子さんです。料理を通して出会ったエストニアの素顔について、4回にわたって語ってもらいます。

佐々木敬子さん
エストニア人の夫がこだわるパンとは? 「日本にはエストニアで食べていたパンがない」。彼がつぶやいたその言葉から、エストニアの食をめぐる私の旅が始まっていたのかもしれません。私の夫はエストニア人。でも日本で知り合って日本で暮らしているので、付き合い始めた当時の私は、彼の故郷であるエストニアについてそれほど詳しくありませんでした。東はロシア、南はラトビア、北はフィンランドに囲まれているエストニアは、1991年に旧ソビエト連邦から独立回復(エストニアは1918年に一度ロシア帝国から独立した後、旧ソ連に併合されていました)するまでは社会主義体制だった国。そんな基本的なことも、彼と出会ってから知ったぐらいです。ですから「エストニアで食べていたパンがない!」と言われても、全くわかりません。
いったいどんなパンなのかと彼に聞いてみると、黒パン、いわゆるライ麦パンだと言うのです。それなら簡単! 東京でも売っている店はたくさんあります。ドイツのパン、ロシアのパン、都心の高級スーパーではフィンランドのパン……探してみると何種類もの黒パンが見つかりました。さっそく買ってきて彼に食べてもらったのですが、「どのパンもエストニアのパンとは違う」と言うのです。
悩んだ結果、インターネットで動画を探し出し、天然酵母を使った黒パン作りに私と夫の二人三脚で挑戦することに。でもパン作りの素人には難しいことばかり。発酵に失敗してパンが膨らまないなどの失敗は数知れず。試行錯誤を重ねて何十回も挑戦した結果、ようやく「これが、故郷で僕が食べていたパンだ!」という黒パンにたどり着いたのです。それは、ライ麦パンならではの酸味にほんのりと甘みがプラスされた、優しい味でした。

エストニアの家庭での黒パンづくり。黒パンが焼けたところ
答え探しの旅で気づいたこと エストニア人の夫が探し求めていた黒パンがようやく完成すると、どうしても答え合わせがしたくなりました。つまり本場の味が知りたくなったのです。そこでムクムクと湧き上がる好奇心とともに、2017年から2018年の年末年始にエストニアに出かけました。それが、私のエストニアへの初めての旅でした。

エストニアのスーパーの棚にずらりと並ぶ黒パン

佐々木さんが実際に買ってきた黒パン。個性がさまざま
エストニアでは黒パンはleib(レイブ)と呼ばれ、毎日の食事に欠かせない、日本人にとってのお米のような存在です。私たち夫婦のように酵母から手作りし、家でパンを焼く人は現在では少数派になっていて、ほとんどの家庭ではスーパーや商店で買います。その種類も多く、スーパーに行けばズラリと数十種類のパンが並んでいる光景が見られるほど。街のカフェやレストランでも店ごとにオリジナルのパンがあります。これだけ種類も多いのですから、味も多種多様。家庭でも家族によって好みのパンが違ったりするほどです。驚いたことにレイブは必ずしもライ麦100%ではなく、小麦粉が配合されているものもありました。それでも色が黒ければレイブ(黒パン)と呼ばれるのです。
レイブについて知っていくと、エストニアという国の歴史背景が垣間見えてくることに気がつきました。エストニアはスウェーデンやドイツ、ロシアといった大国に囲まれ、それらの国々に翻弄される歴史を送ってきました。1918年に独立するまで、デンマークからドイツ、スウェーデン、ロシアと支配される国が次々と変わり、そのたびにそれぞれの国の食文化がエストニアの食に影響を与えています。例えば、レイブにはナッツやシード類がたっぷり入っていることが多いのですが、これは北欧の黒パンの特徴と同じです。北欧の黒パンとの違いは甘みがあることぐらいでしょうか。薄く切って総菜をのせてカナッペのようにするという食べ方も、両者の似ているところです。甘みがあるところはロシアの黒パンに似ています。ただし、ロシアの黒パンにはあまりナッツ類は入っていません。いわば、レイブはそれぞれの国の黒パンの特徴が合わさったものなのです。

パンは薄くスライスして供される。パンの上に
おかずを乗せて食べるのがエストニア流
エストニア人の夫に故郷の味を食べてもらおうと始めた黒パン作り。エストニアの黒パンってどんなものなのかを突き詰めていくうちに、もっともっとこの国のことを知りたいと思うようになりました。そして、私の興味はパンから料理へと向かうようになり、やがてキッチンを巡る旅へとつながっていくのでした。(つづく)
―― 本場の黒パンはどんなものなのか? 答えを探す旅を通して、食からその国の歴史や文化が見えてくる面白さに気づいた佐々木さん。次回は、なぜキッチンだったのか語ってもらいます。
(構成:小田中雅子、写真提供:佐々木敬子)
★「エストニア料理屋さん」のホームページはコチラ⇒
https://estonianavi.com/★バルト三国の情報サイト「バルトの森」はコチラ⇒
https://baltnomori.com/【エストニア基本情報】
面積:4.5万km2(日本の約9分の1)
人口:約136.5万人(エストニア統計庁2023年1月)
首都:タリン(人口約45万人)(エストニア統計庁2023年1月)
言語:エストニア語
宗教:国民の半数以上が無宗教、そのほかロシア正教、プロテスタント(ルター派)等(2011年国勢調査による)
通貨:ユーロ(2011年1月導入)
気候:春と夏は短く、冬は長い。年間を通しての最低気温-12℃(1月、2月)、最高気温20℃(7月)