第2回 忘れられないバスチケットの話《エストニア》

エストニアの会社の長距離バス
「バルト三国の中の移動はどうしていますか?」
これからバルト三国を旅しようとする方からたまに質問されます。そんなとき、私は「列車、レンタカー、バス、どれも使いますがバスを最も多く利用しています」と答えています。
主要都市のみならず、地方都市を巡る旅の場合もバスの旅が便利です。小さな街でも本数は少なくなりますが、路線バスも走っています。スマートフォンを使って現在地をすぐに調べることができなかった時代は、果たして降りたいバス停で無事に下車できるだろうかとバスに乗るたびにドキドキしていました。でも、スマートフォンで地図アプリが使えるようになった今は、現在地とバス停の名前まで確認することができるようになりました。
このようなテクノロジーの発達のおかげで、現地の言葉が聞き取れなくてもそれほど不安を抱かずに目的地まで到着できるようになったことも、私が躊躇(ちゅうちょ)なくバスの旅ができる要因のひとつです。
バスに乗っていると、さまざまな人々が乗り降りします。その土地に初めて訪れた一介の旅人として車内にいるだけなのに、現地の日常生活を垣間見ることができるのは、旅の醍醐味だと思うのです。
運転手に挨拶する乗客、孫を見送るかわいい柄のワンピースのおばあちゃん、学校が終わって帰宅中の高校生、やたら荷物が多いご婦人たち、マーケットで買った植木鉢を籠の中に入れて大事そうに持ち帰る家族……それぞれにそれぞれの事情があるんだろうなぁ、と思わず人間観察をしてしまいます。市井の人々が人生のひとときを同じバスの中で過ごして、そしてバスを降りていくと、私たちには奇跡でもない限り重なることがない人生がそれぞれに続きます。
そうして刹那的な出会いに触れるたびに、私は旅の道中で出逢う人に心の中でさようならをします。私がバルト三国のバスの旅が好きなのは、出会いと別れの旅情があふれているからです。

リトアニアのバスターミナル
しかし、バスの旅も楽しいことばかりではなく、忘れたいエピソードもあります。
2024年8月の旅でトラブルに遭ったのは、リトアニアのカウナス(Kaunas)発エストニアのパルヌ(Pärnu)着というバスに乗ったときのことです。私が乗ったバスがリトアニアからラトビアを抜け、ようやくエストニアへ……というとき、ラトビアとエストニアの国境でバスの乗客すべてが身分証明書(IDカード)やパスポートの検査の対象になってしまったのです(ウクライナ戦争以降ラトビアとエストニア国境では以前より厳しく入国者を検査することが多くなりました)。そのためパルヌへの到着時刻は15分遅れ、乗り継ぎのバスを逃してしまいました。
日本であれば遅延証明が発行されて、乗れなかったチケットは返金されるはずです。ところが「バスの遅延はどこの責任でもない」というバス会社の規定のため、購入した15ユーロ(日本円=約2,000円)のチケットは紙くずとなったのでした。ギリギリの時間で乗り換えようとする場合、次のバスのチケットは事前に購入しないのが身のためだと学習しました。

リトアニアの小さなバス停
一方で、忘れられないバスのチケットの話もあります。
エストニアの南に位置する第二の都市タルトゥ(Tartu)から、リトアニアの北部の街のパネヴェジース(Panevėžys)へのバスチケットをオンラインで予約したときのことです。その行程は、タルトゥ→パルヌ→パネヴェジースでした。バスに乗る前日の夜8時ごろにタルトゥのカフェで仕事をしていると、フェイスブックのメッセンジャーにカイリ(Kairi)さんという知らない女性からメッセージが届きました。
「私はタリン(Tallinn)のバスターミナル会社のスタッフです。実はシステム上のミスで、運行していないバスの便がオンラインで予約できるようになっていました。メールを送ったのですが、ご覧になっていなかったら大変なので、こちらに連絡しました。あなたが予約した明日のパルヌからパネヴェジース行きのバスはありません。返金手続きはしましたのでご安心ください」
これは……エストニアの新手の詐欺なのか……?
念のためメールボックスを確認すると、確かにバスターミナルのカイリさんからメールが来ていました。しかも私の乗るバスの便まできっちり書いてあります。これは詐欺ではないかもしれない……。続くメッセージにはこうありました。
「そこで、あなたにご提案があります。明日の朝タルトゥからタリンに北上して、そこでパネヴェジース行きのバスに乗り換える手段があります」
目的地のパネヴェジースまでは、タルトゥからおよそ400km南です。タルトゥから一度北に200km移動して、そこからパネヴェジースに向かうことになり、往復で実質400kmも無駄に北へ往復する必要があるということを、このメッセージは意味しています。
なんだってぇ!? 遠回りすぎる!! しかし、よくよく考えてみると、その後の予定に支障がないようにするにはタルトゥから一度北上するコースを取る必要があるという結論に達し、結局私はカイリさんのアドバイスどおりにすることにしました。再びメッセージを読み進めると、こう書いてありました。
「しかし、タリン発パネヴェジース行きのバスに間に合うためのタルトゥからタリンまでのバスはあと1席しか空いていません。誰かに予約されてしまっては大変ですので、あなたが購入するのを見届けます」

エストニアの首都タリンのバスターミナル
なんと! 見届けるのだと! 思いがけない提案にドキドキしながらも、残り1席となっていたタルトゥ発タリン行のバスチケットを急いでオンライン予約しました。
すると、私がオンラインで最後の1席のチケットを購入したことを確認したカイリさんから、再びメールが届きました。
「ああ、良かったです。これで私も帰宅できます。タリンでの乗り換えは15分しかないので、仮にタルトゥからタリンへのバスが遅れたとしても、次のバスの運転手に待っていてもらうように話しておきます。私が責任を持ってバスターミナルであなたを次のバスに乗せます」
え!? そんなことまでしてくれるの!! 「もしも日本だとしても、JRはここまでしてくれないだろう」「いや、そもそもこんなミスが発生することはないでしょ」などと考えながらその日は眠りにつきました。
さて翌朝、予定どおりタリンのバスターミナルに到着すると、カイリさんはバスの前で私を出迎えてくれ、無事パネヴェジース行きのバスに乗り換えることができました。予約サイトのミスとはいえ、ここまで責任感のある仕事をする人は珍しい! 乗り換えのときに感謝の気持ちを込めて、日本から持ってきていたほんの気持ち程度のお菓子を彼女に渡しました。
「え?? うそ、私にくれるの? ありがとう!」
カイリさんとハグをしてバスに乗ると、私が乗ったバスが動くまで、まるで上京する娘を見送る家族のようにずっと手を振ってくれました。そんなカイリさんをなんとなく身近に感じた私は「パネヴェジースに無事到着した」という必要のない報告まで彼女に送ってしまいました。
バスの旅は必ずしもスムーズに行くことばかりではありませんが、だからこそ偶然の出会いや小さな冒険があるのです。カイリさんとの出会いのように、思いがけない出来事が新しい物語を紡ぎ出し、旅の魅力をより深めてくれます。
そう、私は次の旅でカイリさんと再会する約束をしています。(つづく)

リトアニアの小さなバス停でスーツケースとともにバスを待つ
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