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美しいくらし
わたしのバルト三国ひとり旅 旅する食文化研究家
佐々木敬子
第5回 「エストニアの人々の」博物館《エストニア》

エストニア国立博物館(Eesti Rahva Muuseum)

エストニアに行くと、何度も訪れる場所があります。それは、「エストニア国立博物館(Eesti Rahva Muuseum)」です。エストニア第二の都市タルトゥ(Tartu)郊外にあります。
この博物館は民俗学者、言語学者であったヤコブ・フルト(Jakob Hurt)が収集した膨大なコレクションを保存する場所として、1909年に設立されました。当初は博物館として定まった場所はなく、劇場や個人の家で巡回展示をしていましたが、タルトゥ郊外のラーディマナーハウス(Raadi mõisa)が国の所有になったことで、1927年からこのマナーハウスで常設展示が行われるようになりました。

ところが第二次世界大戦中の1940年、エストニアはソ連の占領下となってしまいます。それに伴いマナーハウスの敷地の一部は空軍用の施設と滑走路として使用されることに。1944年にマナーハウスは爆撃の火災で消失しましたが、幸運にもほとんどの所蔵品が失われることがなく、タルトゥ市内の教会などに移されて博物館は存続しました。しかし、スターリン時代の1952年には博物館の組織は解体され、暗黒の時代となってしまうのです。

ソ連からの独立回復を求めて主権宣言をした1988年には、「エストニア国立博物館を復活させ、元の場所に戻すべきだ」という声が上がりました。しかし、マナーハウスの崩壊がひどく復興ができる状態ではないということと、すでにソ連は崩壊し始め、インフレによりルーブル(旧ソ連の通貨)の価値がほとんどなくなってしまったという理由から、博物館が元の場所に戻ることが不可能でした。

その流れが変わったのは2006年。独立回復15周年を記念した国家プロジェクトとして、マナーハウスのあった場所に新しい国立博物館を建築することが決まったのです。国際コンペの結果、イタリア人のダン・ドレル(Dan Dorell)、レバノン人のリナ・ゴットメ(Lina Ghotmeh) 、そして日本人の田根剛の国際合同建築チームの設計案を選出。それは、「過去のエストニアの歴史を忘れて次の新しい時代に進むことはできない」と、コンペに参加した設計案の中で唯一、マナーハウスの敷地内にかつて作られた旧ソ連の軍事滑走路を活かした設計案でした。
紆余曲折はあったものの、コンペからは10年の歳月を経た2016年10月、およそ6000平方メートルもの広さを誇る新しい博物館が完成したのです。

エストニア国立博物館のホール

私がこの博物館を初めて訪れたのは2017年の年末でした。このときはパートナー(日本在住のエストニア人です)と一緒だったので、彼の弟がタルトゥの中心部から車で私たちを博物館まで送ってくれました。博物館前に着いて私とパートナーが車を降りるや否や、弟は「忘れ物はない?」と確認した後、「ここは忘れ物があると大変だからね、それじゃ!」と不敵な笑みを浮かべながら、さっそうと車を走らせて帰っていったのです。
私がポカンとしていると、すかさずパートナーの解説が入りました。実はこの博物館は総延長355mもの細長い建物なので、入り口で忘れ物をしたことを博物館の一番奥で気がついたら、往復で700mくらいも往復する羽目になるーーという、弟らしい冗談でした。

エストニア人のユーモアに思わず笑いながら前を向くと、一面ガラスの大きな建物が目の前にそびえていました。冬だったせいもあるのか、周囲はしんと静かで、私たち2人しかいません。実は休館なのではないかといぶかしみながら恐る恐る重いガラスの扉を開けると、どうやら開館しているようでした。天井が高くガラス張りの建物は全方向から光が差し、冬でも雪の白さに反射して内部は明るく、周りの自然と一体化しているかのようです。

「スカイプ(Skype)」開発者が座っていた椅子

博物館の常設展は「コフトゥミセッド(Kohtumised)」、日本語では「出会い」と名付けられたコーナーから始まります。最初の展示物は、2003年にエストニアで誕生したインターネット通話サービス「スカイプ(Skype)」の開発者が座っていたボロボロの椅子と、開発に使用したIBMのパソコンです。その隣の液晶画面には、繰り返し「とある映像」が流れていました。その映像とは、1991年の独立回復後に初代エストニア共和国大統領となったレナルト・メリ(Lennart Meri)さんと公衆トイレです。

「大統領とトイレ?!」と、なんだか不思議な気がしますが、これにはあるエピソードが残されています。
それは1997年3月にメリ大統領が大阪を訪れたときのこと。ビジネスセミナーで「独立回復したばかりのエストニアが海外からの投資を得るには、いったい何が必要か?」と日本人の参加者に尋ねたそうです。するとこのセミナーに参加していた日本のビジネスマンの吉野忠彦さん(現 ・日本エストニア友好協会会長)が、何度か訪れたエストニアのタリン空港のトイレの汚さを指摘したのです。大統領は帰国すると、その足ですぐにタリン空港のトイレで会見し「初めて入ったが、これはまさにソ連時代のトイレだ」と発言。これをきっかけに、エストニアの玄関口であるタリン空港のトイレを始めとして、国内にあるすべての公共トイレが清潔になっていったのです。

トイレの映像

国を代表する博物館で見学者が最初に目にする展示が、座面がボロボロの椅子とパソコン、大統領と汚いトイレの映像……そんな場所はエストニア以外にないのではないでしょうか。ただ、この2つこそが、エストニアが独立回復後に大きく前進する象徴的出来事だったと言えます。飾らないリアルな出来事を最初に見せられると、この国で起こった歴史的事実を否応なく受け止める気持ちになります。現代から徐々に奥へと進むと真っ暗に表現されるソ連、ロシア帝国占領時代と続き、中世と続き、最後は石器、氷河時代へとたどり着きます。

ソ連時代にここは空軍の滑走路だったことを、細長い博物館を歩きながら、ふと思い出しました。今、私が足で踏みしめている場所は、過去にどんな場所だったかーー「エストニアの過去を消して、未来を見ることはできない」というコンセプトに基づいて建てられた博物館そのものが、来場者にエストニアの苦難の歴史を常に思い出させてくれるのです。

常設展と並行して各地の民族衣装や手工芸など、衣食住まで多岐に渡り展示されていることと、多くのエストニア人が属しているフィン・ウゴル系民族の常設展示、ギャラリー展示と盛りだくさんなので、とても一度ではすべてをじっくりと見て咀嚼(そしゃく)することはできません。そのため私はタルトゥに行くたびに時間があるときは必ずこの博物館を訪れることにしています。回数を重ねると同じ展示を見てもそれまで気づかなかったことが見えてくることがあり、新たな発見ができるからです。

正面から見たエストニア国立博物館

エストニア国立博物館はエストニア語で「Eesti Rahva Muuseum」と書きます。日本語の「国立」にあたる「Rahva(ラフヴァ)」を調べてみると、「人々」という意味がありました。気になってエストニア人のパートナーに確かめてみると、「国立」は「Rahvuslik(ラフヴスリック)」という単語だそう。
「Rahvuslik」という単語を使わずに、「Rahva」としたのは、「エストニアの人々の」という意味を大切にしたかったのではないだろうかーーと勝手にパートナーと私は解釈しています。

ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ロシア帝国、そして旧ソ連と、長い年月を周辺の大国に占領され続け、ようやく自分の国として存在することができた「エストニアの人々の」博物館。私はこの場所に再訪する日を楽しみにしています。(つづく)

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【ささき・けいこ】
旅する食文化研究家。料理教室「エストニア料理屋さん」、バルト三国の情報サイト「バルトの森」主宰。会社員時代に香港駐在を経験したのち、帰国後は会社務めの傍ら世界各地を旅して現地の料理教室や家庭でその国の味を習得。退職後の2018年からエストニア共和国外務省公認市民外交官としての活動を始め、駐日欧州連合代表部、来日アーティストなどに料理提供を協力。企業、公共事業向けレシピ開発やワークショップ、食文化講演なども行う。著書に『旅するエストニア料理レシピ』、『バルト三国のキッチンから』(産業編集センター)。
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