
南イタリアのプーリアで出会った大家族
『イタリア好き』の創刊号でイタリア北西部に位置するリグーリア州を特集した次、創刊2号では南部、ブーツ型の国土のかかと部分にあたるプーリア州に行った。石積みの三角屋根の町、アルベロベッロが注目を集めていたり、野菜を中心とした前菜の豊富なプーリア料理が人気だったり、イタリア好き女性たちに注目され始めていた頃だった。
そんなプーリアに僕は初めて訪れた。紹介してもらったチステルニーノ在住の大橋美奈子さんとご主人のジョバンニさんに、現地のコーディネイトをお願いした。ローマで乗り換え、プーリア州の州都・バーリにあるバーリ国際空港で二人が迎えてくれた。そこからホテルに向かいチェックインは22時頃だった。自宅を出てからほぼ丸一日がかりでバーリについた。長い旅だった。とりあえず、翌日の時間の確認をしてその日は別れた。
荷物を部屋に置き、カメラマンの萬田康文さんと何か小腹を満たせないかと、小さなホテルのレストランへ行くと、もう営業は終了していたが、さっきロビーにいたおじさんが冷たい前菜なら出してあげるという。ありがたい。お言葉に甘えていただくことにした。
カラフェに入ったハウスワインと、パンとタラッリ(イタリアの南部、特にカンパニア州とプーリア州の伝統的な固焼きパン)の入った籠を持ってきてくれた。その後に、冷菜が運ばれてきた。少しと言いながら十分な量だった。その中にボウルに入った白くて丸い物体があった。これは何かと尋ねたら、よく聞き取れなかったが、後からそれが「ブッラータ」だと分かった。
初めて口にするそれは衝撃だった。切った瞬間に溢れるクリームと濃厚なモッツァレッラ。萬田さんと顔を見合わせて、思わず笑ってしまうくらい感動したのを覚えている。
翌朝、迎えに来てくれた大橋さんに話すと「食べたんですね」と言う。これから生産者のところへ行く予定になっているとのこと。そしてブッラータは、このロケ中に何度も口にすることになるのだった。今でこそ日本でも作られるくらい、モッツァレッラもブッラータも知名度が上がり入手しやすくなったが、僕たちが取材をした2010年当時はまだモッツァレッラすら入手が難しく、高額だった。
そんな衝撃からプーリアロケは始まった。
南イタリアの家族
取材は僕のリクエスト通り観光地巡りではない、ジョバンニさん、大橋さんの身近な人たちや生産者を中心に巡るから、どこへ行っても歓迎ムードだったし、プーリアが初めての僕にはどれも新鮮だった。それに6月のプーリアはもう夏のようだったから皆が明るく、開放的な気分で、取材はとても楽しく進んだ。南イタリアの陽気さを存分に感じていた。
ジョバンニさんが、紹介したい人がいると言って真っ先に連れて行ってくれたのは、彼の崇拝するおじさんのオラッツィオさん(ジオ)のところだった。遊びの天才で、ジョバンニさんは子どもの頃からずっと慕っていたというのだ。そのジオさんが、庭先のフィオローネという早生イチジクを次から次へともぎっては、我々に手渡して食べさせるのだ。それは確かにさわやかな甘さで瑞々しくおいしいのだが、そう何個もいっぺんに食べられるものでもないのに、飄々と収穫は続いた(笑)。おもしろ過ぎた。そしてジオさんは『イタリア好き』2号の表紙を飾っている。

ショートパスタのオレキエッテを作るルクレッツア
連載の「マンマのレシピ」には、当時、在日イタリア大使館で警備を担当していたラファエレさんのマンマ、ルクレッツァさんと、その妹のクレシェンツァさん(エンツァ)を紹介してもらい訪ねていった。夫同士も兄弟という血縁の強い家族だ。
海のブルーが際立つ港町、ポリニャーノ・ア・マーレのサマーハウスに着くと、二人はすでに食事の準備を始めていて、料理はほぼ出来上がってしまっていた(笑)。そう、料理を作りながら手順を教えるのではなく、どちらかというと家族の食卓に招待する、そんなつもりでいたらしいのだ。取材意図をもう一度伝えると、残っていた材料で一部を再現することになった。そんなわけで本誌には不自然にオーブン皿の一部だけが写っていたり、出来上がりの皿が違っていたりする写真を掲載しているのはご愛嬌だ。
料理の先生でもない、ごく普通の田舎のマンマが、雑誌の取材、しかも日本の……考えたことも無かったであろう出来事に、どう対応すればいいか戸惑っていたはずなのに、それでも嫌な顔一つせずに、一所懸命に取り組んでくれる姿がなんとも微笑ましかった。

南イタリア料理の定番「パルミジャーナ・ディ・メランザーネ」
この日は二人が腕を振るって、野菜を多く使った前菜が並ぶプーリアらしい料理を山ほどごちそうしてくれた。中でもレシピとして紹介してくれた、パルミジャーナ・ディ・メランザーネは、ナスの季節になれば必ず出る、南イタリア料理の定番だ。エンツァ流はクラシックなタイプで、衣を付けて揚げたナスに、モッツァレッラ、モルタデッラ、トマトソースを重ねてオーブンに入れて焼く。ボリュームもあり、家族皆の大好物でもある。小さな耳の形をしたショートパスタのオレキエッテは皆で一緒に作るなど(これがなかなか難しい)楽しく準備は進んだ。そして野菜を中心にたくさんの料理が食卓に並んだ。
ご主人はトマトやナスなど夏野菜のなっている自家菜園へ案内し、真っ赤になったトマトを自慢げに見せてくれた。イタリアあるあるだ。毎年7月の終わりに収穫して、家族総出で1年分のトマトソースを作るというのだ。今日の料理に使っているのは前の年に作られたものだ。
しばらくすると、家族や親族が三々五々集まってきた。長く並べられたテーブルにたくさんの料理が並んで家族が囲む。それは映画や雑誌で見たことのある、まさに南イタリアの家族の食卓の光景そのものだった。初めての体験に取材も忘れ心が躍った。自家製の少し酸っぱいワインも進む。
手打ちパスタを打って、自家製のトマトソースを使って、家族で食卓を囲む。最高だ!
エンツァが外へ肉を焼きにいくようだ。ご主人が用意した炭火がちょうどいい具合になっていた。紙に包まれたサルシッチャ(肉をハーブやスパイスと共に腸詰めにしたもの)と肉を取り出し、炭火の上に載せ、素手でひっくり返して焼き加減を見みたりしている。豪快だ! カタコトのイタリア語と身振りで感謝の気持ちを伝えると、「たくさん食べて」と笑った。僕は恥ずかしがるエンツァをなだめながら二人で写真を撮った。なんだか自分の母親のような親しみを感じていた。
幼いときに母親を亡くしたエンツァは「家族のために料理を作ることが自分の幸せ」と言う。私の味をしっかり子供や孫に伝えたい気持ちが強いのだと。分量や味付けは、何度も繰り返し作るうちにいい味が決まり、それが自分の味になると。家族好みの味付けは、エンツァの愛情の証しなのだ。
幸せな空気をいっぱい浴びた時間は「あっ」という間だった。家族の時間はまだまだ続くようだったが、お礼を伝えて、後ろ髪を引かれながらその場を後にした。
エンツァ日本へ

エンツァと僕(筆者)
取材から2年と少し経った2012年秋。日本でイタリアマンマの料理を食べるイベント「マンマの料理フェスタ」の第1回を兵庫県赤穂市で開催した。その会場にエンツァ夫妻を呼び寄せプーリアの家庭料理を作ってもらった。海外旅行は初めてで、パスポートすら持っていなかった二人を日本の地方の町に呼び、そこで地元の料理を振る舞ってもらうという、かなり無謀な企画だったが、どうしてもエンツァに来てもらいたかった。
このときはほかにピエモンテ、ウンブリアと合わせて3組を招待したのだが、エンツァ以外は地元でも家族以外の大人数の料理を作っている経験者だったり、この日のために助っ人も連れてきたりと万全の体制で来日した。しかし、エンツァは、ご主人と二人きりで来た。ご主人はまったく料理をすることはなく、彼女は一人で奮闘していた。ほかのマンマやスタッフも手伝ってくれたが、オレキエッテなどは、ほかの人が作ったのを見て、「私の形とは違うわ」と言って作り直し、一所懸命に約50人分のオレキエッテを黙々と作っていた。
自分の料理を味わってもらいたいという気持ちが参加者に伝わったのだろう、エンツァの食事会が終わったら自然と拍手が湧いて、プーリアの片田舎のマンマがスターにでもなったかのように皆から記念撮影を求められ、本当にうれしそうに「グラッツェ、グラッツェ」と挨拶を交わしていた。その印象的な様子を見ながら僕はウルウルしていた。
2015年、再びプーリアへ
それからさらに3年。再び取材のためプーリアを訪れたときにはランチに招いてくれた。11月だったこともあり、このときはサマーハウスではなく自宅のアパート。着くとすでに皆が集まっていた。そう5年前の顔が皆揃っていて、歓迎してくれている。うれしい。まるで海外から帰国して自分の家に帰ってきたようだった。あのときよちよち歩きだった子供はぷっくら太って、立派に成長していた。皆同様に5年分歳をとっていた。

5年ぶりの集合写真
でも食卓は変わらずに二人の作った料理がずらりと並んでいた。「あー最高だ!」「マンジャ、マンジャ」と、どんどんすすめてくる、後先考えずに端からすべて食べる。「うまい!」。温かい家族、にぎやかな食卓、うまい料理、幸せのひとときだった。エンツァが僕に、出会えたこと、日本に行けたことに「ありがとう」と言ってきた。お礼を言うのはこっちだよと返し、5年前と同じように二人で写真を撮った。同じように全員でも写真も撮った。
そして僕は『イタリア好き』を続けていることの喜びを噛み締めていた。(つづく)
※写真:萬田康文
※フリーマガジン『イタリア好き』の公式ホームページ
https://italiazuki.com/★松本浩明さんのインタビュー記事「だから、イタリアが好き!」は
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