30年ほど前、東北の民俗服飾研究をされていた徳永幾久さん(大正8年生、元米沢女子短期大学教授)とともに、各地に残る在来型作業着を巡る機会がありました。その際、昭和初期の山形県の暮らしについて、「大人数の家族を養うのに食べることは何とかなったが、着るものの調達には、とにかく苦労した」と教えていただきました。物が溢れ、ファッションを楽しむ生活に慣れた現代人には、到底想像のつかない切実な思いに驚かされました。
昨年(2025年)の春に開催された特別展「はたらく装いのフォークロア」(埼玉県立歴史と民俗の博物館)は、「働くことは生きること」という視点から、農耕、狩猟、漁撈などの働く現場で生み出された衣服と用具の実用性、その美を伝える企画展示でした。ここで紹介されていた民俗学者の湯川洋司さん(昭和27年生)の論考『仕事』には、山村に暮らす明治生まれの夫婦の姿が描かれています。
「夫は田畑の耕作と桐の栽培、炭焼き、木材運搬。妻は牛馬の飼料確保、限られた食糧による食事の用意など、毎日毎日働き続けて、何とか生きていかれる。家事も稼ぎも区別なく働いて生活を営む」(注1)
家業と、引き継いだ田畑と山、そして家族を守るために、淡々と働き続ける夫婦の姿がそこに浮かび上がります。展示されていた端縫いの作業着からは、そうした日々が決して楽ではなく、厳しい現実と向き合ってきた人々の忍耐が伝わってきました。作業着とは、どんな暮らしを営んできたのか、それを語る生きた証なのだと、改めて気づかされます。

(写真1)端縫いの作業着(常民文化ミュージアム)
各地の郷土資料館や歴史民俗資料館を訪れると、既製服が普及する以前、昭和半ば頃までに実際に着られていた作業着を見ることができます。「ぼろ刺し」とか「べた刺し」(ぎっしりと一面に刺し縫いすること)「さしぼっこ」(ぼろ布を当て刺し縫いすること)などと呼ばれるそれらの衣服は、端切れを継ぎ合わせて、細かな差し縫いで補強したものです。
山間部や、気候風土の条件が厳しく木綿が育たない地域では、木綿が育たない地域では、山野に自生する植物、例えば、藤、しな、くず、ぜんまいなどや、栽培した大麻から工夫して繊維を採りました。自給で糸にし、布を織り、衣料を調達する労力は大変なもの。そのため木綿や麻の古布が貴重でした。どれほど小さくて弱い端切れも、衣服に適さない古布であっても、捨てるという選択肢はありません。布を重ね、刺し縫いして留めて、何とか作業着に仕立てたわけです。
最初から「べた刺し」にすれば、布は丈夫になり、長持ちします。厚く重ねることで、寒さや風雨から身を守る温かい衣服となります。全国各地の漁師が羽織るドンザ、ズブやボトと呼ばれる作業着に「ぼろ刺し」が多いのも、厳しい寒さから身を守るためでした。
衣服の形は、漁業、林業、農業など、それぞれの仕事の特性や動作によって異なります。上下衣、帯、前掛け、被物(かぶりもの)から履物(はきもの)、手甲(てこう)、脚絆(きゃはん)に至るまで、必要なものは全て手づくりされ、便利な作業着の知恵と縫い方が親から子へと伝承されました。家事や育児、野良仕事をこなしながら、家族皆の作業着を縫い、繕う。それが生きていくための当たり前の営みだったのです。

(写真2)作業着の雛形(常民文化ミュージアム)

(写真3)端切れ箱(常民文化ミュージアム)
昨年6月、神奈川大学にある常民文化ミュージアムを訪ね、学芸員の加藤友子さんの案内で、展示室の端縫い作業着(写真1)を見せていただきました。同館は、1921年に渋沢栄一の孫・渋沢敬一により創設された日本常民文化研究所の展示施設です。民衆の生活・文化・歴史を調査・研究する場として、これまで収集されてきた資料が公開されており、
本連載の第1回〜第3回で取り上げた端縫袋も約400点が収蔵されています。展示は、若い人にもかつての暮らしが伝わるように工夫されており、多様な作業着の雛形(写真2)が特に印象的でした。端切れが詰まった箱(写真3)の展示もあり、各家で端切れを保管する日常が目に浮かびます。
端縫いの作業着は実用性のためだけの衣服ではありません。端切れの色柄、縞や絣の配置には作り手の遊び心や願いが込められていました。
明治時代以降、綿紡績技術の発達により、機械紡績の木綿糸が広く流通し、各地で縞や絣が盛んに織られるようになりました。大正から昭和初期にかけては、作業着にも無地だけでなく縞や絣が取り入られます。行商人が古布を運んだことで、地織木綿布が手に入りにくい地域にも、縞や絣の古布や端切れが出回るようになりました。
それによって「無地合わせだけではつまらない」と、折り返すと見える袖口裏や紐、肩や裾など、ふと目に入る部分に柄物を使う工夫が生まれます。また、絣の端切れはとても高価だったため、「粋で絣を肩に入れた」など、とっておきの絣を目立つ肩部分に入れて自慢したという記録も残っています(注2)。物づくりが当たり前だった時代、人々は使われている端切れの色柄や風合いを敏感に見分けていたことでしょう。今の日常では失われつつある感覚かもしれません。
25年ほど前に、鰹縞(かつおじま)と呼ばれる縞織物を生産する、静岡県焼津市を訪ねました。鰹漁が盛んな土地で、一本釣り漁師は抱えた魚が滑らないように、厚く刺し縫いした作業着を着たそうです。焼津漁業資料館に保存されていた鰹漁師の作業着、カツギモンは、背中の目立つ場所に地織り縞の端切れを配した端縫いでした。妻や母親が、主人や息子の男前を引き立てるように、また漁の安全を祈願しながら縫い上げた一着です。万が一、漁で遭難する不幸が起きたときには、その着物の接ぎ合わせの特徴で誰かがわかるほど、端切れには家族の記憶が宿っていたといいます。
端縫いの作業着で名高いのが、九州の対馬最南端の漁村、豆酘(つづ)に伝わるハギトウジンです。絣、縞、無地木綿の長方形の端切れを規則正しく配置し、前後身頃から袖まで全て接ぎ合わせたものです。これほどの美しい作業着は、他の地域では見たことがありません。江戸時代、豆酘では古手木綿を接ぎ合わせて刺し縫いしたドンザが着られていました。明治・大正時代も木綿布の入手は楽ではなく、やがて昭和に入って、博多から「カライウリ」と呼ばれる行商人によって久留米絣の端切れが流通するようになり、その魅力に惹かれて、創作的なハギトウジンが生まれたとのこと。大分県由布市にある「由布院空想の森美術館」で拝見したハギトウジンは、ぼろ継ぎという印象を超え、大柄の絣は肩や背中に配し、小柄と無地を交互にバランスよく組み合わせた大変美しい作業着でした。
ハギトウジンには「美女伝説」と呼ばれる由来譚が残されています。村一番の親孝行で働き者の娘が、都に連れていかれることになり、老いた母一人を置いて行く悲しさから自害。これ以降、美しい娘を隠すため、あえて継ぎ接ぎのハギトウジンを着せたという物語です。しかし、ぼろ刺しが日常だった時代に、これほど整った美しい接ぎ合わせはむしろ目立ってしまうので、伝説は後世の創作なのではないだろうか。初期のハギトウジンは、もっと素朴な姿だったのではないか……。目の前の見事な一着を眺めながら、いろいろと思いを巡らせました。(つづく)
(写真提供:玉田真紀)
<参考資料>
注1)埼玉県立歴史と民俗の博物館編集・発行 特別展図録「はたらく装いのフォークロア」2025年
注2)神奈川大学日本常民文化研究所編 調査報告「仕事着―東日本編―、―西日本編―」第11集、第12集、平凡社、1986年、1987年