インタビュー「古着でひもとく日本リサイクル史」(全4回)で取り上げられた「端縫い(はぬい)」を詳しくひもとく新連載です。布切れを生かして新しい形へと生まれ変わらせる端縫いには、暮らしの中で培われた知恵と技、地域に根づいた習慣、そして作り手の思いが息づいています。その背景にある創意工夫や文化的な意味を、長年衣服のリユース・リサイクルを研究してきた玉田真紀さんに、インタビューに引き続き教えてもらいます。* * *
布を得ることがとても大変だった昭和初期までの生活では、どんなに小さな端切れも無駄にすることは考えられませんでした。端切れを縫い合わせる「端縫い(はぬい)」という技芸は、寄せ裂(ぎれ)、切り継ぎとも言います。手芸好きなら、欧米のパッチワークと聞くとイメージしやすいかもしれません。生活を営む上で必須のもので、衣服や生活用品を自作するために、あるものを生かす知恵として、端縫いは生まれました。困窮する庶民を支えた端縫いは、実用的な物作りの方法ですが、そこには、使う家族や贈る友人などへの思いが込められ、単なるぼろ継ぎ以上の意味がありました。
現代の大量生産・消費型の社会で暮らす私たちには理解しにくく、過去の古臭い行為と思うかもしれません。しかし、端縫いの物語を振り返ることで、布で創造する楽しさや、家族への思い、周囲の人とのつながり、支え合って生きて来た社会のあり方なども気づかされます。ここでは、作り手の厳しい境遇から創造的な側面まで、今昔の物語をお話していきます。

色とりどりの布を縫い合わせた端縫袋
今から約30年前、日本の伝統的作業着や布類、それと関わる生活を考える研究会「民俗服飾部会」で、10年ほどかけて、北海道から九州各地の郷土資料館や地場産業を訪ねる機会がありました。まだ私も30代で、60〜80代の先達の識者が経験の引き出しから、あれやこれやと語るのをそばで聞き、今思えば、かけがえのない体験をしました。
色や柄の異なる端切れを縫い合わせた端縫袋(はぬいふくろ)を見てあれ? と最初に思ったのは、飛騨の里民俗村を訪れたときでした。当時はアメリカのパッチワークキルトが私の研究テーマで、『キルトと結ばれた暮らしと文化〜映画・小説・芸術より』(キルトジャパン、日本ヴォーグ社)という連載を執筆中。19〜20世紀初頭のアメリカの生活で欠かせなかったベッドカバーとしてのキルトの歴史について、日々考えていました。飛騨で端縫袋と出会って、日本にも同様の民衆芸術があると、今更ながら気づかされたのです。
最近、4枚の布を縫い合わせて作る「四合わせ(しあわせ)=幸せ袋」が手芸好きの間で話題になっています。浴衣用バックやお弁当袋に使うなど、それぞれのライフスタイルに合わせて楽しめる可愛らしさが人気です。そのルーツが端縫袋で、日本の風習と結びついた生活に根ざしたものでした。どんな使われ方をしていたのか? 今回はそれがテーマです。

袋の内側に地名(新潟県燕町)や名前が墨書きされている。上の袋は南会津郡下郷町で米寿祝に作られたもの
端縫袋はいろいろな呼び名があります。袋の大きさから「一升・二升・三升・五升袋」、接ぎ合わせの形から「仕合わせ・四合わせ袋」「ねじ袋」、嫁入りの際に持参するので、一生添い遂げますようにという意味で「夫婦袋」「一生袋」、そして最も良く聞くのが、米や穀類、豆類を入れてお供えするという意味の「仏供米(ぶぐまい)袋」「五穀袋」「米袋(こんぶくろ)」「褻稲(けしね)袋」「斎米(ときまい)袋」の名称です。褻稲とは日常の食事、穀物のことを指し、斎米とは斎としてお寺や僧侶に施す米のこと。お裾分けに自家用の穀物を持参するという意味を表しています。
五穀(米・麦・きび・あわ・豆)の農作が日本各地で営まれたからこそ、お世話になっている檀那寺や、法要をする菩提寺に自給の収穫物を持参する風習があり、それらを入れる袋が必需品となったわけです。米などの穀類は、各家で行われる葬儀や法事、婚礼の際に持参する必要もあり、貨幣ではない形での相互扶助でした。米を渡した後に空の袋を返すとき、団子などを入れて戻す地域もあったようです。
岐阜県飛騨の里民俗村で見た2つの端縫袋は、底は円形で、一つは昭和の洋服地の端切れを使った三角つなぎ、もう一つは縮緬などの和裂で作られた六角つなぎ(亀甲)の少し古いものでした。民俗村で織物をされていた平野しずえさん(昭和9年生、丹生川村)にうかがったところ、一升袋とか二升袋と大きさで呼び、お寺や各家庭での法事の際に米を入れて持って行ったそうです。袋は嫁入りの際に持参する人もいましたが、平野さんは嫁ぎ先にあった型紙で作ったということでした。

米や豆を持参する仏供米袋の一升袋。袋には年代や用途が異なる多彩な布が使われている
飛騨から帰宅後、南会津郡下郷町に暮らす私の姑(大正15年生)にも、こうした風習があるかを尋ねたところ、平成13年の当時も葬儀の際は各家が米を入れた袋を持ち寄ったそうです。底を4枚布で接ぐと一升に、5枚布で接ぐと二升の大きさになるので、縫い合わせる布の枚数が容量の目安になったと教えてくれました。葬儀の後に袋は持ち主に返すため、屋号や名前を書く習慣もありました。
南会津郡の針生で民宿を営んでいた叔母(昭和4年生)の地域でも同様に端縫袋を使っていました。それは”結の道具”。つまり、集落の人が互いに労力を提供し合うという意味で、葬儀や結婚の祝儀のときに米や豆を袋に入れて持ち合い、「お互い様」として助け合ったと言います。
叔母が持っていた一升袋は、叔父が誕生した際に着た鶴文様の産着のほかに、昭和初期のものらしい友禅染の子供祝着、絽の着物、プリントされた洋服生地など、20種類以上の端切れが上手に組み合わされていました。ミシン縫いの部分もあり、平成まで生活必需品として使って来たことが実感できます。
このように端切れがたくさん使われた端縫袋を見ると、細かな布も捨てずに大切にされ、繰り回す習慣が近年まで日本に息づいていたことがわかります。端縫袋は一つとして同じものはなくて、丁寧に作られた手仕事に感動するとともに、使われた端切れは、いつの時代の誰が着ていた服だったのか。布にまつわる思い出も伝えてくれる魅力があります。
そして、姑からの話の結末は衝撃的でした。平成ではこの袋を使う人は減り、若い人たちはスーパーのビニール袋で米を持参するようになったそうです。些細な袋のことですが、効率化で日本の生活文化が消えていく寂しさを感じました。
次回は、他の地域で使われた端縫袋と思いを込めた技芸について、お話したいと思います。(つづく)
(写真提供:玉田真紀)
布を再利用してきた歴史や現代の古着問題について玉田真紀さんにインタビュー(全3回)
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