「英語が話せないから、個人旅行は無理ですよね……」
ととら亭を開店して以来、いったい何度、この言葉を聞いたことでしょう。どうやら自由な旅の前に立ちはだかる最大のハードルは、英会話のようです。英語が話せない限り、個人旅行には行けない。しかし、そんな国際ルールはありません。それをどう説明したらよいのかと考えていて気づいたのが、「まじめな人ほど、このワナにはまりやすい」という傾向です。学生時代、“赤点キング”だった僕は、その点に関してある種の免疫がありましたが、成績優秀でまじめな人ほど、「できないこと」「間違えること」を必要以上に恥ずかしいと感じてしまうようです。ならば、ここで断言しましょう。旅先での英会話は、テストではありません。いや、英会話に限らず「何かができない」「間違える」なんていうのは当たり前のこと。異なる文化圏に足を踏み入れるのですからね。大切なのは英会話力より、
第5回で触れた「柔軟な発想」です。

世界一美しい散歩道と称されるミルフォードトラック。ここはテ・アナウ湖畔から
徒歩2日で超えたマッキノンパス(標高1154メートル)
それを体現していた旅人に、ニュージーランドで会ったことがあります。
あれは南島のテ・アナウ湖畔で、トレッキングの情報を集めるためにツーリストインフォメーションを訪れたときのこと。外に出たところで、僕より少し年上と思しき日本人男性が「お願いしてもいいでしょうか?」と声をかけてきたのです。「フィヨルドが見たいので、ミルフォードサウンドのクルージングを予約してほしいのですが」
僕は一瞬、首を傾げました。なぜ自分でやらないのだろう? 見たところ彼はソロですし、テ・アナウといえば空港のあるクライストチャーチからだいぶ離れた田舎町。ここまで1人で来ているくらいですから、ある程度、英語が話せるに違いない。ところが、彼の答えは「私は英語がまったく話せないのです」
「では、どうやってここまでたどり着いたのですか?」
「どこに行ってもあなたのような日本人がいるでしょう? そういう人を見つけて、そのつど通訳をお願いしているのです」
なるほど、その手があったか! 意表を突かれた僕は、彼の答えに深くうなずいていました。
ちなみに、僕は日常会話程度であれば英語が話せます。しかし、このスキルは学校で身に付けたものではありません。僕は横浜の本牧という、米軍に接収されていた地域で生まれ育ち、幼いころからアメリカ人や、外国にルーツのある子どもたちと遊んでいたので、自ずと英語が身に付いていたのです。ところが、外国語を子ども同士で教え合うとなれば、真っ先に覚えてしまうのが悪い言葉。だからうっかりすると、今でも学校では教えない、いや、絶対に教えてはいけないスラングが口から出そうになって困ります。まぁ、普通の会話はともかく、こうした悪癖が役に立つのは、字幕を見ずに映画を観ているときか、旅先でトラブルになって相手に抗議するときくらいですけどね。

苦労して取ったブラジルのビザ
しかし、英語が話せるからといって、自由に個人旅行ができるのかというと、それは言葉の過大評価でしょう。だいたい英語は世界語ではありません。確かに、2024年の後半に行ったヨーロッパ横断旅行では会話に不自由しませんでしたが、たとえばアメリカ大陸でさえアメリカの南側の国境を越えれば、英語を話す人は極端に減ってしまいます。2009年にメキシコシティを訪れたときなど、到着した翌日、ブラジル大使館にビザを申請しに行ったところ、スペイン語かポルトガル語以外はまったく通じなくて往生しました。まがりなりにも大使館なのに!……ですよ。そこへきてビザの申請書までスペイン語版のみでしたから、本当に冷や汗ものでした。幸い、親切な大使館員が来館者の中から英語を話す人を探してくれて、この難局を乗り切った次第です。
こうした例は、中央アジアやコーカサス地方(共通語はロシア語)、北アフリカ(アラビア語かフランス語)でも珍しくありません。たとえ英語が話せても、それが用をなさなければ、話せない人と状況はまったく変わらないのです。

独自の「智子語」で交渉し、きっちり買い物をする。メキシコのメルカド(市場)で
では、英語が通じない場合、僕はどう対応しているのか。料理探しという仕事上、ある程度の細かいやり取りは避けられないので、移動、取材、食事、宿泊など、各シーンに合わせておよそ50種類くらいの現地語フレーズを覚えて行きます。しかし、しょせんは一夜漬け。通じるときもあれば、発音が悪くて通じないこともしばしば。そんなときはにっこり笑みを浮かべ、ゆっくり、短く日本語で話します。もちろんこれだけで意図は伝わりません。この段階ではまず相手を安心させるため、こちらが友好的で無害な相手だというメッセージを送っているのです。
次に相手の表情から緊張感が消えたら、できれば笑いを誘い、ジェスチャーを交え、必要に応じて紙に画を描きます。値段が知りたければ、電卓を渡して意思疎通を図る。スマートフォンがオンラインであれば、翻訳アプリを使うこともあります。いずれの場合もコツは、落ち着いて、シンプルに、短く意図を伝えること。そしてヒアリングでは、語彙の量よりも勘が頼りになります。自分の置かれた状況を手がかりに、「この文脈であれば、たぶんこんなことを言っているのかも?」と推測してみるのです。不思議なもので、母語が違っても、伝えようとする努力と、理解しようとする熱意さえあれば、たいていのことは何とかなりますからね。

ドイツ・ケルンのビアレストラン街の一角
ともあれ、これは難易度の高い地域を旅する場合の例ですので、台北やソウルなど、文化的なギャップが小さい場所に行くなら、「こんにちは」「ありがとう」「すみません」「さようなら」くらいの基本的な現地語を覚えるだけでも十分でしょう。もう一つ加えるとしたら、簡単かつ使用頻度の高い「お願いします」を覚えておくと便利です。この単語と料理名を知っていれば飲食店で注文ができますからね。言語によって語順は前後しますが、たとえば名詞の後に続く「プリーズ(英語)」「ポル・ファボール(スペイン語)」「ジュセヨ(韓国語)」「ポー(フィリピン語)」、逆に名詞の前に置く「コー(タイ語)」「トロン(マレー語)」などがあります。さらに覚えておくとよいのが、一緒に行動する人数の数字。たとえば、ドイツでビールを2人分注文するなら、メニューを指さしてVサインでもいいのですが、「ツヴァイ(2)、ビア(名詞)、ビッテ(お願いします)」と言えば、ウェイターもにっこりウィンクで応えてくれるかもしれませんよ。

エコノミーでもおいしいターキッシュエアラインズの機内食
この練習はまず飛行機の中から始めてみましょう。機内食が配られるとき、料理の選択を聞かれて「チキン!」とか「フィッシュ!」ではなく、たとえばパスタを選ぶなら「パスタ、プリーズ」と言ってみてください。そして、受け取ったら「サンキュー」を忘れずに。
旅は出会い、出会いはコミュニケーション。しかし、繰り返しになりますが、コミュニケーションは流暢な英会話で行わなければならない、という規則はありません。文法がデタラメでも、単語が間違っていてもOK! 柔軟な発想でジェスチャーや筆記用具、スマートフォンなどを駆使し、それこそ「出たところ勝負」
(第5回)でトライしてみてください。要は伝わればいいのですからね。そして何かが通じたとき、きっと皆さんにもわかっていただけると思います。本当に大切なのは、伝え方より、伝える中身だということを。(つづく)
▶次回のレシピ▶▶▶
メキシコのテオティワカン遺跡
昨年の長旅で痛感しましたが、旅のやり方もずいぶん変わったものです。その変化の中心はテクノロジー。好き嫌いにかかわらず、今やスマートフォンなくして個人で旅をするのは難しくなりました。そこで次回は「スマホを持って出かける旅」と題し、旅先で遭遇するさまざまな電気からくりとの付き合い方をお話します。
(写真提供:久保えーじ)
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