【作品】『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー
【場所】マレ地区とポンピドーセンター
マレ地区に込められた望郷の念 修道院に身を隠していたジャン・バルジャンは、その後コゼットとともに点々と居を移します。最後に住んだのがマレ地区のオンム・アルメ街で、現在のサント・クロワ・デュ・ブルヌドリ通りとブラン・マントー通り付近といわれています。

ブラン・マントー教会
マレ地区はセーヌ川の北に位置するパリの右岸。ルーブル美術館より東にあるパリ市庁舎のさらに東で、『レ・ミゼラブル』には、このあたりの地名がたくさん出てきます。
やがてコゼットはマリウスと結ばれ、彼の祖父で富豪のジルノルマンの屋敷へ移っていきます。それはフィーユ・ド・カルヴェールにあり、ジャン・バルジャンが家から歩いてコゼットに会いにいける距離でした。彼は、ブラン・マントー教会の脇の道を通ったと書いてあります。この道は今も健在。もちろん、フィクションですけどね。

ヴォージュ広場

ユゴー記念館に飾られたユゴーの肖像
マレ地区は歴史的建物が多く、パリでは人気の観光エリア。中でもヴォージュ広場はパリで最古の広場として名高く、かつて王の館、王妃の館でもあった瀟洒な建物が、回廊のように正方形の中庭を囲む空間です。
その回廊の一角にあるのが、ユゴー記念館。彼の住居でもあった記念館には、83年と長寿だったユゴーの人生そして作品について、思い出の品々が展示されています。パリを不在にした亡命時代の資料も、たくさん見ることができました。
彼は単なる文学者にとどまらず、政治的な発言や行動にも積極的で、ナポレオン三世が帝政を敷くと、独裁体制を嫌い猛烈に反対。身の危険を感じてパリを脱し、以来長い亡命生活に入ります。実は『レ・ミゼラブル』も、1840年代に草稿をほぼ完成させながら公表の時期を逸したため、亡命先で練り直したものを1862年に出版したのです。
小説の中にパリの地名や地形が克明に記されている理由の一つには、帰ることのできないパリに対する望郷の念を込めたという側面もあったに違いありません。
本当の主人公はマリウス? 実際に記念館を訪れてみて印象的だったことの一つが、若きユゴーと父の関係です。父は軍人でナポレオン崇拝者、母は熱烈な王党派の貴族。これはそのままマリウスの、父と母方の祖父の政治的志向に重なる経歴でした。幼い頃は王党派である母の影響を色濃く受けたため父の存在が希薄だったのに、長じて父の情熱と率直さに触れ、軍人としての父に傾倒していく過程もそっくりです。
映画でもミュージカルでも、ジャン・バルジャンとジャベールの対立を中心にして描いているので、マリウスについては「コゼットの恋人」くらいの位置づけでしか受け止めていない人が多いのではないでしょうか。革命を目指す学生としても、一心に革命を志すアンジョルラスに比べ、彼は軟弱そのもの。コゼットとの恋にうつつを抜かしいったん戦列を離れたかと思えば、彼女と会えなくなった絶望で破れかぶれになって戻ってきます。そのうえ結局は生き残り、ブルジョアの一員として豊かな「戦後」を享受できた幸せ者……。日和見の男は人気が出にくいですよね。
けれどユゴーが描きたかったのは、「一つの思想を狂信してぶれない特別な存在」であるアンジョルラスより、「二つの思想に引き裂かれ、革命と恋にも揺れ、ただ幸せになりたい平凡な若者」マリウス、つまり自分であったのではないでしょうか。
亡命してまで政治的立場を表明し続けるユゴーは、一見すればアンジョルラスタイプ。けれど彼の心の内には、一つの正義だけを盲信せんがため、他者への寛容が失われることへの深い反省があります。マリウスというモラトリアムな人間像を通し、作品の中にそれが織り込まれたからこそ、この物語は複層的な奥行きと人生の割り切れなさを体現しているのだと思います。
「バリケード・ソング」が聞こえる 『レ・ミゼラブル』の大きな盛り上がりは、1832年の市街内戦「六月暴動」のドラマチックな描写です。暴動は庶民に人気のあったラマルク将軍の葬儀をきっかけに起きました。敷石をはがしてはバリケードを積み上げて通りを塞ぎ、その内部には決死の覚悟で戦う市民や学生たち。ミュージカルでもここはみどころの一つで、民衆を鼓舞する革命の闘士アンジョルラスが全員を率いて歌う「バリケード・ソング」の大合唱は、何度聞いても感動! ドラクロワの名画『民衆を率いる自由の女神』を連想する人も、多いことでしょう。
『レ・ミゼラブル』は群像劇です。このバリケードで命を燃やす学生たちを、ユゴーは一人一人、丁寧に描いており、マリウスやアンジョルラスだけでなく、他のメンバーにもそれぞれの人生と思想があり、とても魅力的だということがわかります。
そして彼らを支援すべく集まってくる市民たち。浮浪児のガブローシュはパリの町の象徴として悲劇的な最期を遂げ、マリウスを慕い彼のためだけに生きようとする孤独な娘エポニーヌも、このバリケードでマリウスをかばい、息を引き取ります。
理想と希望に燃えた若者が、圧倒的な軍隊の力によってほぼ全滅を余儀なくされる戦いは、いつの世でも世界中で繰り広げられる歴史の一コマ。近いところでは2014年の香港反政府デモ(通称:雨傘運動)、30年前となる1989年の天安門事件、あるいは1960年代の日本の学生運動などを思い出す人もいるかもしれません。政争に翻弄された愛すべき若者たち。そのパッションと悲劇が、このバリケードの場面に集約されているといってよいでしょう。
自由と平等の旗、ここにはためく ではこの六月暴動のバリケードは、いったいどこにつくられたのか。西は当時中央市場だったレアールやシャトレ―の近くから、東はバスチーユ広場までの広い範囲、ランビュトー通りを中心に大小いくつものバリケードが作られたといいます。
その象徴とされる、もっとも激しい攻防戦のあったバリケードの場所を、作品ではサン・ドニ通りからレアールの方に入った朝顔型の行き止まりの一角と記してありますが、実際はもう少し東寄り、サン・マルタン通りとサン・メリ通りが交差する辺りだったようです。

ポンピドー・センター近くの路地
そこに今あるのは、ポンピドー・センター。古い街並みの中に忽然と現れる近未来的な建物は総合文化芸術施設で、1977年に完成しました。建設されて40年経ちますが、今でもまだ周りの景観にはなじんでいないように感じます。センターの周囲には狭い通りがいくつもあり、こんなところで石畳の敷石を積み上げたら、なるほどバリケードになるのではないかと想像できます。
しかし逆の立場から考えれば、いつでもバリケードに代えられるような小径は、権力にとって危険な地形ということになるでしょう。私たちが「美しい」と称賛し愛するパリは、整然たる都市計画によって人工的に作られた側面を持っています。観光客で賑わうシャンゼリゼ大通りも、軍隊がすぐさま移動してこうした暴動も鎮静できるよう、込み入った小径を一掃し、見通しよく幅広の一直線に作ったものでした(*)。

ポンピドー・センター外観
ポンピドー・センターの姿は、たしかに不調和な印象を与えます。ただ『レ・ミゼラブル』を読んでからここに立つと、それはバリケードの上に敢えてつくられた、若者たちの慰霊碑とも感じられるのは私だけでしょうか。広場で繰り広げられるパンクな催しも、自由気ままに座り、語り、描き、集う様子も、気骨と反抗を忘れないための新しい「バリケード」のように思えてきます。
何事も起こらなかったように風景に溶け込んでしまう再開発よりも、「ここは一体何なんだ?」と人々を立ち止まらせるような、不協和音を紡ぎ出す広場になってよかったかも。そんなふうに思えるバリケードの跡地でした。
(*)セーヌ県知事のジョルジュ・オスマン氏が、1948年の二月革命以後の第二帝政下で大胆なパリの都市改造を断行した。(写真提供:仲野マリ)
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