最終回 画家と文豪たち -響きあう魂、共創の道-(下)
森鷗外の墓碑
夏目漱石と双璧を成す文豪・森鷗外も中村不折と深いつながりがあります。
鷗外は不折の書のファンであり、たびたび不折に書を依頼していました。また、共に文展の審査員を務めるなどして親交を結んでいます。
1922(大正11)年7月に世を去った鷗外は、自身の死期を、亡くなる3日前に医師として悟ると、親友の賀古鶴所に遺言の口述筆記を頼みました。
遺言の中で鷗外は、自分の墓石には肩書きを記さず、不折の書で本名である「森林太郎」と篆刻してほしいと述べました。陸軍医であり官僚であり、文学者でもあり数々の功績を残した鷗外でしたが、最後は私人に還りたい――そのような意志を感じるメッセージです。
賀古に託されたこの遺言は叶えられました。鷗外の墓は、東京都三鷹市の禅林寺にあります。不折による「森林太郎墓」という文字が碑に記された静かな佇まいの墓所に鷗外は眠っています。
与謝野鉄幹からの手紙
鷗外と中村不折を結んでいた友情のつながりは、鷗外の没後も広がっていきます。
鷗外が亡くなったその年の10月、不折の元に一通の手紙が舞い込みました。差出人は歌人の与謝野鉄幹からのものでした。以下に一部抜粋します。
与謝野鉄幹 中村不折宛書簡(台東区立書道博物館所蔵) ※全ての画像の無断転載を禁じます
「(前略)このたび、急に森家と書肆との間に話がまとまり、鷗外先生の全集を出版致候事と相成候。就ては先生に表紙の図案の中へ 鷗外全集 第一巻 と云ふ風にお書きを願上候。之は故先生の思召に叶ひ候儀と存じ候はゞ、是非お引受奉願上候。(後略)」
(1922(大正11)年10月29日付け) 手紙の内容は、鷗外亡き後、鷗外全集を出版するにあたって、不折に全集の題字を依頼するというものです。手紙の差出人が与謝野鉄幹だったことは、森鷗外の最初の全集『鷗外全集』は、鉄幹が代表となって編集が進められていたことを意味していました。
歌人の鉄幹が鷗外全集の編集責任者となった理由には、次のようなことが考えられます。
鷗外は、鉄幹が設立した新詩社や、その機関誌として出発した『明星』の精神的支柱でした。そして鉄幹には、憧れの文豪・鷗外は、自分を常に庇護し続けてくれた恩人であったという思いがありました。鷗外は、鉄幹・晶子の娘で双子の
八峰と
七瀬の名付け親でもありました。
中村不折は、この題字作成を引き受けています。墓碑銘を手がけたことと同様に、鷗外全集の題字作成は、不折にとって願ってもないことだったに違いありません。
『明星』とその時代
『明星』は、歌人として出発し、のちに編集者としても多くの業績を残した与謝野鉄幹が、妻の晶子とともに発行した月刊文芸誌です。
明治、大正、昭和初期にかけて、美しい詩歌とともに、当時の最先端の西洋文学の話題を月替わりに紹介した『明星』が、幅広い教養を求めた人々によって支持され、カルチャームーブメントを起こしたことは、世に知られる通りです。1900(明治33)年から1908年にかけて第1期が刊行され、1921(大正10)年から1927(昭和2)年にかけて第2期が刊行されています。
『明星』は、与謝野鉄幹・晶子が雑誌の中に花開かせた文化サロンのような場であっただけに、関わるのは文学者のみならず、さまざまな芸術家が集いました。雑誌のビジュアルにおいては、黒田清輝や岡田三郎助、和田英作、藤島武二らの画家が表紙絵や挿画を手がけました。
大正の息吹を伝える月光荘
今回はここまで、明治・大正の文豪と画家の芸術の交差点、そのつながりを見ていくために、中村不折の元に残されていた手紙から、話を進めてまいりました。
最後の話題として、大正時代、与謝野鉄幹・晶子の薫陶を受けて誕生し、今も銀座の地でその精神の息吹を伝えている画材店を紹介したいと思います。そのお店『月光荘画材店』は、銀座8丁目にあります。
月光荘は、日本で初めて顔料から作る純国産絵の具の開発に成功した挑戦的でクリエイティブなメーカーでもあり、創業時の1917(大正6)年から現在まで数々のアーティストに愛されている伝説的な画材店です。そのシンボルマークのホルンは「友を呼ぶホルン」として親しまれています。
創業者の橋本兵蔵氏は富山県出身。1912(大正元)年に18歳で上京し、住み込みで書生として働いていたところ、そのお宅の前に与謝野夫妻の自宅があったことが転機となりました。故郷で晶子の歌集を愛読していた橋本氏は、ある日、思い切って憧れの与謝野夫妻の家を訪ねました。
当時の与謝野夫妻は、第1期の『明星』刊行を終えていて、引き続き鷗外らと共に『スバル』を発行していた頃でした。
書生の橋本青年を温かく迎えてくれた与謝野夫妻の元には、北原白秋や石川啄木などの文学者のほか、藤島武二、有島生馬、梅原龍三郎、高村光太郎などの画家や芸術家が集っていました。彼らの話を見聞きする中で、この魅力的な人々の仲間に加わり、何か役に立つことができないだろうかという願いを橋本青年は持つようになります。
橋本青年は、大正初めの当時、上質な絵の具がまだ国内では手に入らず画家たちが不便を感じていることに着目しました。そこで、画家たちのために、質の良い絵の具の輸入をはじめます。のちに絵の具の研究と国内製造に着手しました。
月光荘がくぐり抜けた歴史
橋本兵蔵氏は、1917(大正6)年に新宿の駅前に月光荘を開きました。6年後に起きた関東大震災では苦難をくぐり抜けた月光荘でしたが、昭和戦前期に入って、氏の最大の理解者であり支援者であった与謝野夫妻が相次いで世を去りました。満州事変の3年後の1935(昭和10)年に与謝野鉄幹は亡くなりました。晶子が世を去ったのは太平洋戦争中の1942年でした。
時を経て1945(昭和20)年、敗戦となり、新宿の月光荘も空襲で焼失してしまいます。
戦後、事業再開の機会を伺っていた橋本氏は、1948年に画家の猪熊弦一郎に勧められ、銀座で店舗を再開します。猪熊弦一郎といえば、ご存じ三越百貨店において1950年から現在まで半世紀以上も採用されている包装紙『華ひらく』をデザインした人物としても知られています。
青年時代、与謝野夫妻の家で芸術家たちと出会い、「この方たちの何か役に立つことができないだろうか」と願って月光荘をはじめた橋本氏。平和が戻った時代となり、氏にとっては憧れの存在であり、自分の顧客でもあった芸術家たちの助けを得て、事業を再開していくことができました。
月光荘の店内には現在もたくさんの画材が並び、そのほかオリジナルの葉書や便箋も販売されています。上質の美濃和紙を用いたレターセットには、与謝野晶子が大正6年の開店時に月光荘に贈った歌、「大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」が、絵はんこ作家・カキノジンさんによる石印で表されています。封筒の切手を貼る部分に記されているため切手を貼ると歌が隠れてしまいますが、まるで雲に隠れた月――たとえ見えなくても昼夜存在している――のようで、そこに月光荘の美学を感じます。
与謝野夫妻は、月光荘の名づけ親でもありました。フランスの詩人ヴェルレーヌの「月光と人」に店名は由来し、現在使用されている看板の書体にも晶子の筆跡が用いられています。その名に相応しい静かで美しい書体です。
時をこえて存在する手紙の原型
夏目漱石の『草枕』にあるように、住みにくい世の中を少しでも住みよくすること、そこに芸術の意義があるとするならば、私たちは芸術を積極的に享受する必要がありそうです。もちろん、芸術家当人も芸術を欲しますし、その芸術を欲する思考にはいつの時代にも他者への憧れやリスペクトが内在しているように感じます。
依頼や感謝の気持ちの大元にある、敬虔な思いが私たちに手紙を書かせるのだとしたら、尊敬の念こそ、多くの手紙の原型なのではないでしょうか。平易な用件であれば指先のみで瞬時に伝えられる今、手紙は少し「特別」なものになりました。その特別を形成する思いは、物質以上に大切なもの。だからこそ形に残しておくことをおすすめいたします。もし書きぶりに悩んだ時には、もう一度文豪の手紙を読んでみるのはいかがでしょうか。その時のあなたに最適なメッセージがもしかしたら見つかるかもしれません。
(了)
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近藤さんより
「『大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ』――月光荘のレターセットにも表されている与謝野晶子の歌をイメージして撮影しました。普遍的な美や神秘性を象徴する月の光は祈りにも似ていて、手紙を書く行為もまた、敬虔な気持ちの表れであるとあらためて感じた次第です」
<Information>
今回ご紹介した文豪の2通の手紙、「漱石居士書翰・下」「与謝野鉄幹 中村不折宛書簡」は、台東区立書道博物館で2023年12月17日(日)まで開催中の企画展『没後80年 中村不折のすべて』の展示作品として鑑賞できます。
企画展の概要や開館日は、台東区立書道博物館のホームページ(https://www.taitogeibun.net/shodou/)でご確認ください。
<参照文献>
『底本 漱石全集』(2016-2020年 岩波書店)
中村不折著・台東区立書道博物館編『僕の歩いた道 自伝』(2014年 台東区芸術文化財団)
『画家・書家 中村不折のすべて 台東区立書道博物館蔵品選集』(2020年 台東区芸術文化財団)
『新潮日本文学アルバム24 与謝野晶子』(1985年 新潮社)
木股知史監修『晶子アール・ヌーヴォー』(1994年 堺市)
平子恭子編『作家年表読本 与謝野晶子』(1995年 河出書房新社)
月光荘画材店『人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ』(2017年 産業編集センター)
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