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もう一度読みたい文豪の手紙
POSTORY代表
近藤千草
最終回 画家と文豪たち -響きあう魂、共創の道-(上)
 文学者の手紙を見ていくと、彼らが同時代の画家の動向に深い関心を寄せている様子を度々目にします。文面からは作品やその制作背景にまつわる教養の豊かさだけではなく、時にそれらを作り出す作者との接点が見られることも多々あります。作者と挿絵画家、装丁家という関係に留まらず、芸術の道を志す者として共鳴する存在でもあった文学者と画家たち。
 最終回となる今回は、上・下の2回に分けて、洋画家で書家の中村不折の元に残されていた手紙から、文豪と画家の芸術の交差点、そのつながりをご一緒に見てまいりましょう。


『吾輩は猫である』を支えた画家たち



 1903(明治36)年に留学先のロンドンから35歳で帰国した夏目漱石が、俳句文芸誌の『ホトトギス』で初の長編小説『吾輩は猫である』の連載を始めたのは、帰国から2年後の1月でした。
 漱石が10回にわたって発表した『吾輩は猫である』は好評を集め、『ホトトギス』の売り上げを伸ばし、文芸誌としての名を高めることに貢献します。『吾輩は猫である』は、連載継続中だった1905(明治38)年10月に上編が刊行されました。中編が翌年の11月に、下編がさらに1年後の1907年の5月に刊行されています。
 『吾輩は猫である』全3編の装丁は、当時、東京美術学校の学生だった橋口五葉が手がけました。五葉と漱石には、五葉の兄・貢が漱石の熊本第五高校時代の教え子だったという関係がありました。『吾輩は猫である』は五葉の記念すべき装丁家デビュー作品でした。
 そして、『吾輩は猫である』の上編の挿絵を担当した画家が中村不折になります。
 中編と下編で挿絵を担当した浅井忠は、不折の洋画の師です。浅井は、不折、五葉をはじめとする後進の画家に大きな影響を与えた近代洋画の先駆者でした。


江戸に生まれた中村不折



 中村不折は、1866(慶応2)年に江戸京橋東湊町(現・中央区新川)で生まれました。本名を鈼太郎さくたろうといいます。父・源蔵は東湊町の書役や名主の補佐役を務めていましたが、明治維新で職を失い、不折は父の郷里の長野県の高遠で育ちました。
 家が貧しかった不折は、10代のはじめから商店や呉服店の奉公人、菓子職人になって働きました。元来、絵を描くことと学問が好きだった不折は、独学で勉強を続け、18歳で小学校の代用教員になりました。
 そんな不折に転機が訪れたのは1888(明治21)年春、22歳の時。不折は絵を学ぶために、教員時代の貯えを手に上京します。東京では、小山正太郎が主宰する十一会で洋画を学びました。
 24歳になった1890年には、日本初の洋画団体・明治美術会の第2回展に水彩画を出品。そして27歳で参加した第5回展には油彩画を出品し、若手画家として認められるようになっていきました。洋画家として頭角を現した不折の元には、新聞や雑誌の挿絵、本の装丁の依頼が来るようになります。洋画の研究・制作を続けていく一方で、それらの仕事に精力的に取り組んでいきました。
 1901(明治34)年にはフランスへ留学、ラファエル・コラン、ジャン=ポール・ローランスに学びました。1905年に帰国後は、小山、浅井の教え子を中心に結成された太平洋画会の会員になりました。1919(大正8)年帝国美術院会員、1929(昭和4)年には太平洋美術学校校長に就任しています。
 洋画家、教育者として日本の美術の発展に熱意を傾けていく一方で、不折は書道の研究にも没頭します。書家としても精力的に活動しました。


書道博物館と子規庵



 中村不折の書の作品で、現代の私たちが最も触れる機会があると考えられるものの一つに、新宿中村屋の屋号の揮毫が挙げられます。明治の末頃に書かれたこの揮毫は、ロゴとして現在も用いられているので、見覚えのある方も多いのではないでしょうか。
 不折は、稀代の書道資料蒐集家としても知られました。その個人コレクションは、のちに国宝6件、重要文化財6件に指定されたものがあったという驚きの熱意と目利きの人でもありました。
 不折は生涯をかけて集めてきた書を次世代に継承していくために、70歳になった1936(昭和11)年に財団法人を設立し、下谷区上根岸町(現・台東区根岸)の自宅に書道博物館を開きました。書道博物館は、現在は台東区の管理に受け継がれ、台東区立書道博物館として運営されています。
 書道博物館は、現地を訪ねてみると分かるのですが、正岡子規の旧宅・子規庵の目の前に建っています。そのことには理由があります。
 話は1894(明治27)年、不折が28歳の駆け出しの画家だった時代にさかのぼります。この年、不折は浅井忠の推薦で、陸羯南くがかつなんが創刊した家庭向けの新聞「小日本」の挿絵画家になります。   
 その編集責任者が1歳年下の子規だったのです。編集者と画家の関係から始まった二人はすぐに意気投合し、生涯の友になりました。
 子規が1902(明治35)年に34歳で亡くなった当時、不折は留学中でフランスにいました。帰国は3年後の1905年の春のことです。そして、8月に届いたのが漱石からの『吾輩は猫である』の挿絵依頼でした。皆様もご承知のとおり、俳人・子規は不折の親友であったのと同様に、漱石が文学者になるためのさまざまな刺激を受けた親友でした。

 ここで漱石から中村不折への手紙をご紹介いたします。

漱石居士書翰・下(台東区立書道博物館所蔵) ※全ての画像の無断転載を禁じます


「拝啓 かねて御面倒相願候「吾輩は猫である」義発売の日より二十日にして初版売切 只今二版印刷中のよし書肆より申来候。是に就ては大兄の挿画は其奇警軽妙なる点に於て大に売行上の御景気を助け候事と深く感謝致候 拙作も御蔭にて一段の光輝を添候ものと信じ改めて茲に御礼申上候 以上(後略)」(1905(明治38)年10月29日付け)

 この手紙には、『吾輩は猫である』の上編が発売後20日にして初版が売り切れたことの報告に併せて、不折の軽妙な挿画が売り上げに大きく貢献してくれたとして感謝を述べる漱石の思いがしたためられています。くずし字の大変流麗な文字で、手紙の明るい内容に伴いどこか柔らかさ、華やかさを感じさせる書きぶりです。
 不折はこの手紙をとても大事に思っていたのでしょう。封書で届いた手紙を巻物に仕立て、「漱石居士書翰」とタイトルをつけて大切に保管していました。いただいた言葉やその思いを乗せた手紙に手を施して保管するという一連の行為に、敬愛の念が表れており、美しさを感じます。
 この手紙が届いた頃、帰国後の多忙を極めていた不折は神経衰弱に陥っていたといいます。もしかしたら、この漱石の手紙のようなあたたかな眼差しを心の支えにして、過ごした日々もあったのかもしれません。

(つづく)


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【こんどう・ちぐさ】
東京都生まれ。“手紙を書く時間を創造する”『POSTORY(ポストリー)』代表。経営者への手紙コンサルティング、企業用プロダクト制作、プロップスタイリング、撮影、執筆等を手がける。日本橋の老舗和紙舗『榛原』運営のはいばらオンラインミュージアムにて「折り折りの美-手紙の時間-」を連載中。
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