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もう一度読みたい文豪の手紙
POSTORY代表
近藤千草
第4回 森鷗外とその兄妹 -家族へのまなざし、慈愛の手紙-
 近代日本を代表する知の巨人、森鷗外。1881(明治14)年に、当時の東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医として勤めながら小説・戯曲・翻訳・評論を数多く執筆した人物です。また、作品のみならず、次女の杏奴が編んだ『妻への手紙』に表されているように、妻子に宛てた愛情に満ちた手紙もよく知られています。
 幼い頃から家運を背負い、必死に学んできた鷗外には、3人の兄妹がいたことをご存じでしょうか。5歳下の弟・篤次郎、8歳下の妹・喜美子、17歳下の弟・潤三郎です。3人は、子どもの頃から鷗外を道標のようにして勉学に励み、それぞれが文芸の世界でも重要な業績を残しています。
 今回は、喜美子への手紙を中心に、鷗外が家族に向けたまなざしをご紹介してまいります。


森鷗外、二つの顔



 森鷗外の本名は森林太郎と言います。彼が軍医から文学者・森鷗外になるのは、勤務を終えた帰宅後の真夜中でした。役所勤めの男を主人公にした、まるで私小説のような短編「追儺」には以下のように記されています。

“役所から帰って来た時にはへとへとになっている。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寐るのであろう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寐る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復している。それから二時まで起きていて書く。”

 仕事を終えて帰宅したあと、短時間睡眠で疲れた体と頭を束の間癒し、夜中に起きて再び別の仕事に取り掛かる。複数の仕事を抱える方には、もしかしたらお馴染みの状況かもしれません。育児中の方であれば、寝かしつけをして予定せずとも一緒に眠り、起きた後に本腰を入れて家事や残りの仕事を片付けることも多々あるのではないでしょうか。
 鷗外は自他ともに認めるショートスリーパーでもあり、睡眠時間は3~4時間。人の倍以上働くことを常とし、神童と謳われた幼い頃から実に地道な努力を重ねてきた人でした。家族はそんな鷗外を心の内で支え、また、鷗外によって支えられてもいました。


母への手紙が伝えたこと



 1900(明治33)年の秋頃、小倉の地で任務に就いている38歳の鷗外から、母・峰子に届いた手紙がありました。それは母宛でありながら、妹・喜美子に向けた内容でした。
 この手紙の当時、喜美子は嫁いでいて実家を離れていましたが、近隣に住んでいたため、母は娘に手紙を届けます。喜美子の著書『鷗外の思ひ出』によれば、半紙4枚を綴じた毛筆の手紙には以下のように記されていました。

「(前略)おきみさんより同日の書状まゐり候。家事(姑に仕へ、子を育つるなど)のため、何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来候。私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存じ候。おきみさんの書状を見るごとに、何とかして道を学ぶといふことを始められたしと存候。道とは儒教でも、仏教でも、西洋の哲学でも好けれど、西洋の哲学などは宜しき師なき故、儒でも仏でも、ちと深きところを心得たる人をたづねて聴かれ度候。毎日曜午前位は、子供を団子坂にあづけても往かるゝならんと存候。少しこの方に意を用ゐられ候はゞ、人は何のために世にあり、何事をなして好きかといふことを考ふるやうにならるゝならん。」(母・峰子宛ての手紙)

 当時喜美子は子育てや家事で文学に触れられず、自身の時間を作ることができないつらさを抱えており、兄に手紙を書くことが慰めだったといいます。鷗外は続けて伝えています。

「考へだにせば、儒を聞きて儒を疑ひ、仏を聞きて仏を疑ひても好し。疑へばいつか其疑の解くることあり、それが道がわかるといふものに候。道がわかれば、いはゆる家事が非常に愉快なる、非常に大切なることとなる筈に候。(中略)小生なども道の事を修行中なれば、矢張おきみさん同様の迷もをりをり生じ候へども、決して其迷を増長せしめず候。迷といふも悪しき事といふにはあらず、偏りたる事といふなり。小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据ゑてくるゝ処にすわり、働かせてくるゝ事を働きて、其問の一挙一動を馬鹿なこととも思はず、無駄とも思はぬやうに考へ居り候へば、おきみさんとても姑に仕へ、子を育つることを無駄のやうに思ひてはならぬ事と存候。それが無駄ならば、生きて世にあるも無駄なるべく候。(後略)」(同上)

 このように鷗外は、日常の瑣末に思われる物事に反目するのではなく、その細々とした事柄自体を無駄と思わず暮らすようにと喜美子を諭しています。同時に、自身も同じ気持ちになったことがあると寄り添い、経験談を交えつつ、いずれかの道を学んではどうかと提案をします。
 この手紙には鷗外による家族への二つの心遣いを感じます。

① 母に対して
 公務と執筆で多忙な中においても妹を想い、家族想いであることが伝わるこの内容は、「自分達のことを気にかけてくれている」という安心感を与えてくれます。母を安心させたい、という思いが働いていたのだと思います。

② 喜美子に対して
 週一回は子どもを実家に預けて自身の道のための勉強の時間を作ってはどうか、という提案を直接喜美子に宛てるのではなく、あえて実家の母宛の手紙にしたためたところに鷗外の優しさが見てとれる手紙です。

 まず母が読むことによって「鷗外と母、二人の約束事」になることを意図しています。多忙のなか、長い手紙を書く妹想いの長男に母は心を打たれたでしょうし、そんな息子を誇らしくも思ったことでしょう。そして喜美子にとっては、他ならぬ兄の言いつけであるという大義名分が成立。兄の提案であれば憚りなく実行できます。
 この時代、母親が幼い子どもを実家に預けて自分のための勉強をする時間を作るというのは今以上に難しく、罪悪感を持たざるを得ない状況だったと思います。そこに兄の鶴の一声です。実際に実行するにしてもしないにしても、この提案がどれほど喜美子を慰めたでしょうか。


鷗外を支えた親友の言葉



 こうして妹を諭し、助け舟を出す鷗外ですが、鷗外自身も心が砕かれそうな時にその形を留めてくれた存在がありました。
 話は、先ほどの手紙から2年ほどさかのぼります。
 手紙にも名の出てきた「小池局長」こと小池正直は、鷗外とは出世を競い合ってきた人物でした。小池は、1898(明治31)年に、鷗外より先に陸軍省医務局長に昇進しました。その1年後、鷗外に突然の辞令が下ります。新設された小倉師団の軍医部長に任命されたのです。すなわち東京から離れる辞令でした。
 この辞令を受ければ、その頃受け持っていた慶應義塾での審美学の講義や東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋美術史などの講義も中断することにもなります。
 東京にいたほうが関係者とのやりとりがしやすいことから、離れれば執筆活動にも影響が生じます。ましてや慣れない土地です。当時、軍医でありながら新聞や雑誌に健筆をふるい、多方面に活躍する鷗外を面白く思わない者たちも存在したことでしょう。
 鷗外はこの人事の不満を東大寄宿舎時代に知り合った終生の友・賀古鶴所にぶつけました。すると賀古は、せっかくこれまで勤めてきたのに今辞めたら相手の思う壺だと諭します。ここは辛抱して九州でも四国でもどこでも命じられるままに従い、足を引っ張ろうとする者たちが乗ずる隙のないように過ごし、また折りをみて力を振るうべき地盤を作る方がよいだろうと鷗外を諌め、励まします。こうして一時は辞職も考えた鷗外でしたが、親友・賀古や篤次郎、潤三郎の説得にあい、思い直したということがありました。


妹の幸せを願う鷗外



 かつて、喜美子の縁談が持ち上がったのは、鷗外が陸軍に入省し、衛生学研究のためにドイツに留学していた1888(明治21)年春のこと。鷗外は当時26歳でした。妹の縁談相手は、鷗外より3歳年長の東京帝国大学教授、解剖・人類学者の小金井良精。小金井は鷗外より先にドイツに留学しており、二人は現地で顔を合わせたこともありました。鷗外はこの縁談が無事に成立したことを知って、小金井にドイツから手紙を書きます。

「名士貴兄のごときを、お喜美の配に得たる、家門の大幸福、先に郷書に接したる時の喜び、お察し下されたく候。東洋の謙遜流儀にて申さば、不束者御厄介にて事足るべけれど、美人でこそなけれ、志は健気なる者に候間、御鍾愛あらんことを。(後略)」(小金井良精宛ての手紙 5月17日付け)

 名士である貴兄、そして大幸福。相手を敬う気持ちと大きな喜びが伝わる言葉です。半ば冗談のように「東洋の流儀」として謙遜しつつ妹の志の健気さを伝えるこの手紙に、喜美子の幸せを願う鷗外の兄としての想いが込められています。
 喜美子と小金井の二人の仲を取り持ったのは、他ならぬ鷗外の親友・賀古です。賀古は蘭方医の家に生まれ、のちに東京大学医学部で鷗外と出会い、衛生学の教授を通じて小金井とも知り合っていました。
 ちなみに、S F小説の第一人者でありショートショートという分野を開拓した作家・星新一の作品をご存じの方も多いと思います。この星新一の祖父母が、小金井良精と喜美子です。小金井良精の日記をもとに丹念に調査した『祖父・小金井良精の記』は、S F小説とはまったく印象の異なる星新一の側面を知ることができる作品でもあります。


国家を事するのも道、顔を洗うのも道



 鷗外が母と妹への手紙に記した「道がわかれば、いはゆる家事が非常に愉快なる、非常に大切なることとなる筈に候。」という志向性は、小説の中でも表現されています。
 1911(明治44)年に発表した短編「カズイスチカ」は、こちらも私小説のような作品です。開業医の父「翁」と東大医学部を卒業した医学士「花房」のやりとりには、医者であった父・静男に向けられた鷗外のまなざしが少なからず写し出され、深い敬愛が込められているように感じます。
 「カズイスチカ」では、次のような父と子のやりとりが展開されます。
 ある日花房が翁に、経験値は低い自分だけれど、医学の勉強に励んだため知識はある。家業の診療所を少々手伝いましょうか、と申し出ます。すると翁は、難しい症状の病人がいたら診てもらおう、と快諾します。かつて自身が学んだ医学より、息子が会得した知識の方が優れていると医学の進歩を思うと同時に、勤勉な息子に対し相応の信頼を寄せていたからです。息子の花房もまた、翁の知識はやや古く、時に不十分であると感じています。しかしながら翁による病人の見立ては神がかり的なものがあり、自身がまったくかなわないことを理解しています。それは経験の差だけではなく、他にも理由がありました。

“翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫(もてあそ)んでいる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。”

 花房は最初、翁をつまらない人物に思います。しかし、江戸前期の陽明学者・熊澤蕃山の書物に「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳(くしけず)ったりするのも道を行うのである」という意の文章があるのを読み、気がつきます。翁の振る舞いは、浮ついた心とは真逆です。始終もっと他にしたい事、するべき事があると思いながらそれがなんだかわからず、先ばかりを見て目の前のことをいい加減に済ませてしまう花房に引き換え、つまらない日常の万事に心を入れて過ごすゆえに、翁は花房の到底届かない境地にいるのです。
 もちろんこれは小説ですので、実際の思い出ではないかもしれません。ですが後年、鷗外の次女・杏奴の著書『晩年の父』には、この翁を彷彿とさせる鷗外の姿がありました。整理整頓が好きで、本の埃を払っている時などに楽しそうにしている鷗外の様子を振り返り、
「「なんでもない事が楽しいようでなくてはいけない」というのが父の気持だった。」
と残しています。鷗外は父の心持ちを尊敬し、その在り方に倣ったのではないでしょうか。


互いを照らした文学活動



 鷗外の5歳下の弟・篤次郎は、1890(明治23)年に東京帝国大学医科大学を卒業すると、医者の道に進みました。在学中から三木竹二の筆名で文芸活動に取り組み、鷗外とは共同で戯曲や小説の翻訳を発表しています。喜美子もまた、月刊雑誌に翻訳詩を発表するなど、二人の兄の背中を追って自身の活動に取り組んでいました。
 1888年にドイツ留学から帰国した鷗外が文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊すると、この雑誌は篤次郎と喜美子にとり貴重な活動の発表の場になりました。
 医者として働く一方、歌舞伎や演劇の批評に取り組んだ篤次郎は、やがて演劇研究家・三木竹二として頭角を現します。1900年には演劇雑誌『歌舞伎』を創刊しました。鷗外もこの雑誌へ執筆者として加わります。しかしながら篤次郎は、雑誌創刊の8年後、外科手術後に帰らぬ人になりました。
 この篤次郎宛の印象的な手紙が存在します。

年月日不詳 森篤次郎宛て鷗外自筆年賀状
(森鷗外記念館(津和野町)所蔵)
※全ての画像の無断転載を禁じます


「恭賀新年 愚兄 林太郎
 篤次郎様」

 恭賀新年ですから年賀状ですが、宛先の住所が書かれていないので、葉書ではなく封筒に入れて送ったグリーティングカードかもしれません。カードの表は写実的でドラマティックなチューリップの意匠で、ドイツ語による「心からの祝詞」を意味する言葉がプリントされています。裏には信念を寿ぐ言葉と、林太郎の名の横に「愚兄」とあります。鷗外ほどの人物でありながら、家族宛の手紙においても自身をへりくだって表す場面があったことに、相手を敬う気持ちがここに極まれり、と感じる手紙です。そんな鷗外だったからこそ、家族から惜しみなく愛されたのだとも思います。

年賀状の表にはドイツ語による「心からの祝詞」を意味する言葉がプリントされている


 最後に、一番下の弟・潤三郎のエピソードを紹介いたします。
 潤三郎は、長じて歴史家・書誌学者となりました。鷗外とは17歳の差があり、ぐずる幼い潤三郎と一緒に、まるで若い父親のように写る鷗外の写真を目にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 鷗外の最期を看取った潤三郎は、その頃43歳になっていました。一週間もの渾身の看病の結果、高熱を出して難聴になってしまったほどでしたが、そんな潤三郎は、兄の死後間もなく、伝記を作るべく材料となるものを蒐集し奔走します。そうして刊行された『鷗外全集』、潤三郎の著書『鷗外 森林太郎』は、兄への敬慕が随所にしのばれる、鷗外研究の名著として光を照らし続けています。


何事もないときに手紙を書いてみる



 さすがの鷗外は親兄妹妻子へと、家族としての務めをこれ以上なく立派に果たしていますが、私たちは普段、家族にどのような顔を見せているでしょうか。関係性は状況・環境、その時々に左右されますので、現在ご実家やご兄弟とは疎遠になっている方も中にはいらっしゃることでしょう。
 連絡を取るタイミングが掴めない場合、手紙を書いてみるのはいかがでしょうか。もちろん、普段から頻繁にやり取りをしている場合においてもきっと手紙は別物です。手紙を出すことが当たり前ではなくなった現代において、「手紙を書いてみたくなったから」は手紙を投函する理由になります。
 道のため、なんでもないことを楽しく大事にする鷗外に倣い、何事もない平時においても手紙を出せたら、大切に思う気持ちがそれだけでも伝わるかもしれません。

(つづく)


©2022 POSTORY



近藤さんより
「鷗外といえばビール好き、と思い出す方もいらっしゃるのでは。青年の時を過ごしたドイツの思い出、若き情熱をイメージして撮影しました。薔薇の葉書は、鷗外や妻しげも愛用した日本橋の和紙舗・榛原(はいばら)のものです」


<参照文献>
『鷗外全集』(1971–1975年 岩波書店)
小金井喜美子『森鷗外の系族』(1943年 大岡山書店)
小金井喜美子『鷗外の思ひ出』(1956年 八木書店)
森潤三郎『鷗外 森林太郎』(1942年 丸井書店)
森於莵・森潤三郎編『鷗外遺珠と思ひ出』(1933年 昭和書房)
小堀杏奴『晩年の父』(1936年 岩波書店)
星新一『祖父・小金井良精の記』(1974年 河出書房新社)
木村妙子『三木竹二 兄鷗外と明治の歌舞伎と』(2020年 水声社)
『鷗外宛年賀状聚成』(2004年 森鷗外記念館) 


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【こんどう・ちぐさ】
東京都生まれ。“手紙を書く時間を創造する”『POSTORY(ポストリー)』代表。経営者への手紙コンサルティング、企業用プロダクト制作、プロップスタイリング、撮影、執筆等を手がける。日本橋の老舗和紙舗『榛原』運営のはいばらオンラインミュージアムにて「折り折りの美-手紙の時間-」を連載中。
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