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もう一度読みたい文豪の手紙
POSTORY代表
近藤千草
第11回 文豪のノートと手紙 -思考の断片を残すことについて-
 文豪が後世に残してくれたものは作品のほかに、取り交わした手紙の存在があることは皆さまご承知の通りです。それから、日記や手帳、そしてノート、反故原稿や紙片の数々も現存しています。それらは、のちの世に軌跡を伝えたいと願う文豪の近親者の想いにより大切に保管され受け継がれてきたもの。
 今回はそんな文豪のノートや書き入れに見る思考の端々をご紹介いたします。彼らの覚え書きには創作の原案となる言葉が書かれたものもあれば、手紙の下書きも存在します。伝えたいことをまず下書きし、清書するという行為にはどのような意図があるのでしょうか。ご一緒に見てまいりましょう。


漱石のロンドン留学ノート



 「倫敦に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり。」と序文に記した著書『文学論』は、夏目漱石が留学先のロンドンから帰国した4年後の1907(明治40)年に刊行されました。1年8カ月の留学から帰国した当時は35歳。漱石にとって決して愉快な留学とはいかなかったものの、下記のように過ごしていたようです。

「余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。(中略)留学中に余が蒐(あつ)めたるノートは蝿頭(ようとう)の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』序)

 精力的に読書し、読んだ箇所に書き入れをし、必要毎にノートに記しまとめた漱石。その成果は帰国した年の1903年、東京帝国大学文科大学に講師として着任し、新学期にあたる9月から開講した講義に顕在化させました。その講義内容をまとめたのが『文学論』です。留学中のノートが講義の元となりました。

 ロンドンに留学中のノートはすべて横書きで無罫線の洋紙にペン、時折鉛筆が用いられています。ノートに書かれている内容は、全集で読むことができますが、その中に、

「(1)世界ヲ如何ニ観ルベキ
 (2)人生ト世界トノ関係如何.人生ハ世界ト関係ナキカ.関係アルカ.関係アラバ其関係如何(後略)」(「大要」)

というメモがあります。これは、留学先のロンドンから義父・中根重一宛の手紙の中にも同内容がしたためられています。中根重一とは、漱石の妻・鏡子の父であり、医学者・ドイツ語翻訳者です。以下にその手紙を一部引用いたします。

「(前略)私も当地着後(去年八九月頃より)より一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商買に致候(中略)先づ小生の考にては「世界を如何に観るべきやと云ふ論より始め夫より人生を如何に解釈すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の変化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其総合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及其何物なるかを論ず」る積りに候 (後略)」(1902(明治35)年3月15日付け)

 漱石いわく、哲学・歴史・政治・心理・生物学・進化論にも関係する大がかりな構想である『文学論』の構想は、ノートや手紙に記していた時には十年計画という大変なものでした。しかし実際の刊行にあたっては、教え子の中川芳太郎が講義内容を整理しアシストを務めたことで効率よく進み、早くに結実しました。優秀な協力者がいたことは大きな幸いです。

 

ある日の漱石



 そのようにして学び経験したことを着実に形にしてきた漱石にも、スムーズに仕事が捗らない日もありました。日記には執筆が進まないことを記しています。

「十二月十五日(金)
今日から小説を書かうと思つてまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出来ぬ位小説の趣向其他が気にかゝる也」(1911(明治44)年)

 何も手につかないほど、書かなくてはならない小説のことが気にかかっている──このパラドックスはどなたにも一度は覚えがあるのではないでしょうか。漱石はこの日の日記を書きながら、何もしていないのではない、これもまた必要な時間、しかし本心では真っ直ぐ取りかかりたい思いだったのかもしれません。漱石にもそんな日があったのです。


日記を愛したドナルド・キーン



 日記といえば、『百代はくたい過客かかく 日記にみる日本人』を著した日本文学者ドナルド・キーン氏が思い起こされます。この『百代の過客』というタイトルは、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」で始まる松尾芭蕉『おくのほそ道』からきています。百代の過客とは「永遠の旅人」の意です。
 ドナルド・キーン氏は1922(大正11)年、米ニューヨーク市ブルックリン生まれ。飛び級をして16歳でコロンビア大学に入学後、アーサー・ウェイリー訳『源氏物語』と出会ったことをきっかけに日本研究の道に進みます。1942(昭和17)年には米海軍日本語学校に志願し、海軍情報士官として太平洋戦線の地で日本語の解読と通訳を務めました。のちにコロンビア大学の大学院で学び、ハーバード大学とケンブリッジ大学で研究を続けて、51年に近松門左衛門の浄瑠璃研究でコロンビア大学から博士号を取得しました。1953年からは京都大学大学院に3年間留学しています。この留学中に、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らと知り合いました。帰国後は、コロンビア大学で日本文学を教える傍ら、古典から現代文学にいたるまで広く研究して世界に紹介。日本文学の国際的評価を高めることに貢献しました。
 キーン氏は1974年、52歳の時に東京都北区西ヶ原に居を構えると、東京とニューヨークの二つの自宅での暮らしを始めました。2008(平成14)年には、外国出身の学術研究者として初めて文化勲章受章。2012年に日本国籍を取得します。日本に永住を決めたことで、蔵書を整理するにあたり選出した本を地元の北区立中央図書館に寄贈しました。この時に氏は、「散歩の途中で赤レンガ図書館に寄り、懐かしい本に再会することを楽しみにしています」と言葉を寄せています。
 現在、キーン氏の寄贈した本はコレクションコーナーが設けられ、閲覧することが可能です。総数788冊(和書490冊、洋書298冊)あり、キーン氏による書き込みのある大変貴重なコレクションを手に取ることができます。
 中でも『三島由紀夫 十代書簡集』への書き込みは必見です。全201ページ中、127ページにもわたり鉛筆で書き込みがあり、一つひとつ、大事に読み込んでいたことが伺えます。
 ドナルド・キーン氏と三島由紀夫の交友は、キーン氏が三島作品を翻訳していたという仕事上だけではなく、日頃からあたたかな友情で結ばれていました。三島によるキーン氏宛の書簡集『三島由紀夫 未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』も刊行されています。その中の一つに、

「(前略)この前は、太平洋で手紙がすれちがひ、あなたに出したあくる日に、あなたの手紙をうけとりました。」(1960(昭和35)年 月日不詳)

としたためられたグリーティングカードが存在します。
 太平洋ですれ違うというダイナミックな表現と、投函した翌日にキーン氏からの手紙が届いたという内容に、手紙ならではの浮遊感が漂います。ひとたび手を離れると相手に届くまではまるで形而上的なものであるような、そんな手紙の性質が表れているようにも感じます。


永井荷風と『断腸亭日乗』



 日記の書き手として忘れてはならない文豪が永井荷風です。ドナルド・キーン氏は永井荷風を訪問した日のことを思い出としてたびたび語っています。以下の文章は、永井荷風の印象を伝えるキーン氏の回想です。

「(前略)彼の話す日本語は、私がかつて聴いたことがないくらい美しかったのだ。第一、私は、日本語がこれほど美しく響き得ることさえ知らなかった。その時彼が話したことの正確な内容を、それが無理ならせめて発音の特徴だけでも憶えておけたらよかったのにと悔やまれる。(中略)彼の話し言葉の美しさだけは、あまりにも印象深くて、忘れようにも忘れられない。」(「永井荷風の美しい話し言葉」)

 どのように美しい話し言葉だったのか、それは荷風の作品から想像する他はありませんが、日本人以上に日本語に詳しいと評される研究者キーン氏が惚れ込むほどですから余程のことでしょう。それもそのはず、永井荷風といえば、江戸文学や外国文学の研究を行い、洗練された品位を重んじる文体で同時代の作家の中でも際立った存在でした。荷風は、敬愛する森鷗外と上田敏の推薦により1910(明治43)年に慶應義塾大学の教授となり、今に続く『三田文学』の創刊に尽力しました。のちに文化勲章も授与されています。

1917(大正6)年に書き始められた永井荷風『断腸亭日乗』。清書には日本橋の和紙舗・榛原の雁皮紙が使われた(写真提供:永井壮一郎)※全ての画像の無断転載を禁じます

 日記文学の不朽の作品と称される『断腸亭日乗』は1917(大正6)年、38歳の時に書き始め、1959(昭和34)年、79歳で亡くなる前日まで書かれた日記です。通常、私的な日記は人に読まれることを想定しないものですが、荷風の場合はあらかじめ読者を想定して執筆していました。そのため、一度下書きしたものを別の紙に清書をして綴じていました。
 そんな荷風に、『三田文学』誌上で短編「刺青」を絶賛されたことで世に出た谷崎潤一郎は、終生、荷風への敬意を示していました。
 谷崎は、戦争中の1944年に荷風の元を訪ねた際に、発表される前の原本『断腸亭日乗』を見せてもらい、その美しさを『疎開日記』に残しています。

「荷風氏の未発表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり、日記は榛原(はいばら)製雁皮の罫引(最近は紙質変りたる由)に実にていねいにそのまゝ版下になるやうに記してあり、美しく製本して五冊づゝ帙入りになりをれり」(1944(昭和19)年3月4日)

 “榛原製雁皮”とは、1806(文化3)年創業より日本橋に今も続く老舗、和紙舗・榛原製の雁皮紙のことを指しています。文学作品としての自覚を持つ日乗(日記)の清書用として由緒ある美しい原稿用紙を選び、書き写した荷風。日記文学として、作品の中身のみならず、その在り方も粋であるよう、人々に鑑賞されるにふさわしい佇まいを求める荷風の美学が表現されているように感じます。


夢への一歩となる言葉



 ノートの言葉や覚え書きは完成作品と違って本来であれば表に出ないもの。だからこそ後世の私たちは、それらを展覧会や文学館、図書資料で目にすると、純度の高い文豪を垣間見た気持ちがします。
 しかしながら、荷風の『断腸亭日乗』が私的な日記の性格を持ちながら作品として書かれたことを思うと、そのほかの文豪のノートや紙片の言葉も、「文豪」であるがゆえに、読まれることを前提とした記述だった可能性もゼロではありません。言い換えれば、後世に読まれる覚悟を持ちながら書かれた言葉の数々が、彼らのアイディアと創造力の源泉であったかもしれないのです。
 ノートや日記に感情や構想を書き表すことは、こうありたいと意図することと同時に、夢の実現化への第一歩といえるのではないでしょうか。
 文豪にならい、まずは気軽に思いついたこと、学び得た知識を書き留めてみたいところです。その言葉の断片は、まるで自身への手紙のように時差を生じながらも、のちの自分に必要なヒントになってくれるのかもしれません。

(つづく)


©2023 POSTORY



近藤さんより
「今回のイメージ写真は、永井荷風の小品「葡萄棚」から葡萄と、荷風が愛用した日本橋はいばら製の原稿用紙を合わせて撮影しました。果物の美しさもおいしさも、そして書き留めることもまた、日々の大切な彩りなのだと感じます」

☆ 『もう一度読みたい文豪の手紙』 次回の更新日は11月23日です。第12回もどうぞお楽しみに! ☆


<参照文献>
『底本 漱石全集』(2016-2020年 岩波書店)
ドナルド・キーン『百代の過客 日記に見る日本人』(1984年 朝日新聞社)
『ドナルド・キーン著作集 第四巻 思い出の作家たち』(2012年 新潮社)
『三島由紀夫 未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(2001年 中央公論新社)
『新潮日本文学アルバム23 永井荷風』(1985年 新潮社)
『谷崎潤一郎全集』(1981-83年 中央公論社)
『永井荷風と谷崎潤一郎展』(2019年 市川市文学ミュージアム)


【POSTORY】https://postory.jp/
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【こんどう・ちぐさ】
東京都生まれ。“手紙を書く時間を創造する”『POSTORY(ポストリー)』代表。経営者への手紙コンサルティング、企業用プロダクト制作、プロップスタイリング、撮影、執筆等を手がける。日本橋の老舗和紙舗『榛原』運営のはいばらオンラインミュージアムにて「折り折りの美-手紙の時間-」を連載中。
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