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書を持って、旅に出る?
Roman Someday クラシックギタリスト
森田 茂
リレーエッセイ

 中学校1年生のとき、通りすがりの楽器店でふと目にしたギターを、突然弾いてみたくなった。理由はよくわからない。当時流行し始めていたグループサウンズのギターの音が耳に残っていたからかもしれない。とにかく、母親を拝み倒してようやくクラシックギターを手に入れたその日から、すっかりのめり込んでしまった。ベルギーで開催された国際音楽コンクールのファイナリストになったのは17歳のときのこと。そのご褒美にもらった奨学金でローマの音楽大学に留学したのは21歳のときだった。

 ローマを留学先に選んだのは、当時読んでいた塩野七生さんの『ルネサンスの女たち』に触発されたからかもしれない。この本に登場するのは、イザベッラ・デステ、ルクレツィア・ボルジア、カテリーナ・スフォルツァ、カテリーナ・コルネールの4人の女性たちだ。塩野さんは彼女たちの生涯を通して、芸術が花ひらき欲望と権謀術数が渦巻いたルネサンスという時代を、くっきりと浮かび上がらせている。文献や資料を綿密に調べ、丁寧に分析し、冷静と情熱の限りを込めて書かれたと思われるこの作品は、小説でも伝記でも研究書でもない全く新しいスタイルで、歴史の面白さをたっぷりと味わわせてくれた。

 とりわけルクレツィア・ボルジアに共感したのは、強烈な個性を持つ父や兄に翻弄された彼女の生涯が、自分の母親の人生と重なったからだ。離婚を余儀なくされた母は、まだ幼い3人の子どもたちを引き取って女手一つで育てあげた。時代も環境もスケールも違うけれど、母はルクレツィアと同じように、愛し、憎み、迷い、傷つき、ときに情に流され、ときに意に抗いながら、最後には運命を受け入れて自分の生を生ききったように思う。

 などともっともらしい理由を挙げてはみたけれど、実は「明るい太陽」「輝くエーゲ海」「オペラの本場」といった眩しすぎる魅力に誘われてローマ行きを決めた、というのが正直なところで……。キラキラした世界に想いを馳せて胸をときめかせながら、『ルネサンスの女たち』をスーツケースに入れて日本を後にした。

 ローマでの日々はひたすら楽しかった。ラテン気質が性に合ったのかもしれない。学校では、あえてギターではなく声楽やピアノを勉強し、新鮮な気持ちで音楽と向き合った。奨学金をもらっていたとはいえ財布に余裕があったわけではないから、しばしば街に出ては、観光客を相手にギターを弾いて小遣いを稼いだ。『オ・ソレ・ミオ』『アルハンブラ宮殿の思い出』、とりわけ『さくらさくら』を演奏すると、皆、喜んでくれた。

 ストリートパフォーマンスで効率よく稼ぐにはコツがある。シエスタで街が静まり返る前に、トレヴィの泉やエマニュエル2世記念堂のある広場など、観光客がたくさん集まる場所で演奏するのだ。しかしこれらの有名な観光スポットでの「営業」は、実はご法度だった。観客は多いのに競争相手はいないから絶好の稼ぎ場所なのだけれど、警察官に見つかると面倒なことになる。

 ある日トレヴィの泉の脇でギターを弾いていると、2人の警察官がこちらに向かって走ってくるのが目に入った。あわててギターをケースにしまって顔を上げると、向かいのカフェのおやじさんが「こっちへ来い」と手招きする。誘われるままに店に駆けこむと、奥の席に案内された。
「ここに座っていろ」
どうやらかくまってくれるつもりらしい。間もなくコーヒーを持ってきてくれた。

イラスト:古知屋恵子
 こうしておやじさんのカフェは「避難所」になった。お巡りさんとはしばしば追いかけっこをしたけれど、今思えば本気で捕まえる気はなかったに違いない。避難所の奥からこっそり眺めていると、彼らはいつも周囲の店の人たちとひとしきり談笑してから、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち去った。
 “ゲリラライブ”で稼いた金で、ナポリ、フィレンツェ、スイス、フランスなどを旅しては、避難所のおやじさんのためにお土産を買った。なにしろ10回に1回しかコーヒー代を払わせてもらえなかったから。

 裏通りのレストランのご主人にもかわいがってもらった。初めてその店で食べたパスタのおいしかったこと! 何度も「おかわり」をしてすっかり呆れられたのだけれど、2度目に行ったときは、「これでどうだ!」とばかりに大盛りパスタが運ばれてきて感激。この店でときどき食べるフルコースは、ローマでの最高の贅沢だった。

 市井の人々と話すのが楽しかった。冬の旧市街の、夜のほの暗さが好きだった。安ワインの瓶を腰にぶら下げて、どこまでもどこまでも歩いた。そんなふうにして、あっという間に2年の留学期間が過ぎた。あれから1度もローマには行っていない。

 「今、旅に出るとしたらどこに行きたいか」と聞かれたら、迷わずに「ローマ」と答える。そしてもし本当に行くことになったなら、そのときはやはり『ルネサンスの女たち』を持って行く。
 30数年の時を経て訪れるローマで再びこの本を開いたら、4人の女性たちは昔とは違った表情をのぞかせて、より深い色の歴史を見せてくれるように思う。
 けれども、ローマの街はきっと何も変わらずにいるに違いない。香りもざわめきも、肌触りもまなざしも、あのころのまま変わらない。ずっと変わらない――。なんだかそんな気がする。

『ルネサンスの女たち』塩野七生著(新潮文庫)     ※森田さんが読んだのはハードカバーの初版本












◇森田茂オフィシャル・ウェブサイト
 http://shigeru-m.com/

◇コンサート情報
 「グラン・パウゼ・トリオ 京都公演」
  10月4日(土)14:00開演 大江能楽堂(京都府京都市)
  問い合わせ:075-561-0622

 「森田茂・岩崎慎一 ギターDuo」
  10月25日(土)14:00開演 東京オペラシティ近江楽堂(東京都新宿区)
  問い合わせ:090-1629-1318
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【もりた・しげる】
東京都生まれ。クラシックギタリスト。中央大学法学部卒業。17歳でベルギー国際音楽コンクールのファイナリストとなり注目を浴びる。大学入学と同時にプロとして演奏活動を開始。上海交響楽団、上海室内管弦楽団などと共演。東京文藝祭2008で音楽・芸術部門特別賞を受賞。フラメンコギター、中国琵琶奏者と組んだ「グラン・パウゼ・トリオ」など、ジャンルをこえた幅広い音楽活動を展開している。上海音楽院客員教授。
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