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書を持って、旅に出る?
読書の恩人 エッセイスト
平松洋子
リレーエッセイ
 旅にでかけるときの荷造りは、自分でも呆れるくらい時間がかからない。ことに季候のたいして変わらない国内の旅は15分もあれば十分で、昨日・今日・明日の繋がりをそのままバッグに入れればあっさり終わってしまう。ところが、雑誌の旅特集など読んでいると、「旅のワードローブ」という言葉に遭遇するので、自分の実情との落差を思い知らされる。そうか、そういう計画性も大事だなと思い直して入念に荷物をつくろうと試みるのだが、やっぱり15分ほどで終了し、苦笑い。温度調節はストール一枚をバッグに入れてすませようとするし、結局は荷物を減らすことに執着してしまう。いや、それ以前に計画性という名前の頭のネジが一本はずれているのかもしれないが。

撮影:牧田健太郎
 ただし、持ってゆく本の選択には頭をひねる。簡便で軽い文庫本のなかから選ぶのだが、それなりに頭をヒネろうとするのは、旅先で読む本によって旅の興趣が大きく変わる経験をしてきたからだ。鉄道の旅なら、短編集か随筆集。車窓の景色を眺める合間、ホームでの列車待ち、こまぎれになりがちな道中に寄り添うてくれる。宿で過ごす時間が多そうなら、読みはぐれていた小説。もちろん、北に向かうか、それとも南か、土地の空気によってもずいぶん違ってくる。

 とりわけ読書に集中できるのは新幹線で、とくに眺めたい車窓があるわけでもなく、座ってしまえば目的地まで席を立つ用もないから、まさに読書にはうってつけの空間だ。わたしの知人に、九州に出張するときは飛行機ではなく、わざわざ新幹線を使うというひとがいる。理由は「読書に耽りたいから」。

 「東京から九州までとなると、6時間くらいかかるでしょう。さすがに疲れませんか。腰とかお尻とか痛くならない?」
 「いや、そんなの気にもならない。6時間ずっと誰にもじゃまされず、一心不乱に本に集中できるなんて、神様からの贈り物に等しい」

 猛者だなあ。感嘆して、言葉がなかった。私だって、ヨーロッパに旅するときは、長時間のフライトの負荷をできるだけ少なくするために長編小説(探偵小説や推理小説なら、時間も気にならない)を選ぶから、気持ちはよくわかるけれど。つい先日ひさしぶりに会ったとき、「“新幹線読書”つづいてますか」と確認してみると、「死守しています」のことだった。

イラスト:古知屋恵子
 旅先での居心地のわるさに救いの手を差し伸べてくれるのも本である。
 初めてシンガポールに旅をした20年近く前の夏のこと、シンガポールに1週間、つづけてマレーシアに1週間滞在する予定であった。しかし、残念なことに、どうにも私はシンガポールとの相性がよろしくなかった。街中がひたすら清潔で、社会のすみずみまで管理が徹底しているさまが肌を通して伝わってきて、街を歩くだけで息苦しさを覚えた。

 なごむためにやってきたつもりが、生体反応を起こして逃げ出したい。あせった私は、どうしたか。オーチャードロードにある日系デパートの階上の書店に駆けこみ、すがるようにして棚の端から1冊ずつ、背表紙に視線を走らせた。
 そして、ぴたりと狙い定めて1冊の文庫本に指を伸ばした。海老茶色の地に白抜きの題字。

 『用心棒日月抄』藤沢周平 新潮文庫

 藤沢周平の小説をいつか読みたいと願いながら、それまで縁がなかったのである。それに、棚を観察してみると、藤沢周平の著作はほかの作家のものに較べて冊数が多く、当地で藤沢周平が広く求められていることを示していた。さあ、いまこそ。最初のすがる思いは、早々に読書欲に切り変わっていた。

『用心棒日月抄』藤沢周平著(新潮文庫)
 脚をもつれさせるようにして一直線にホテルに戻り、昼過ぎに1ページめを開いた。そして、気がついたら部屋には夜の闇が忍び込んでおり、窓の外には満天の星が広がっていた。

 翌日、私はふたたび書店を目指し、猛然と残りの文庫本を買い集めた。『狐剣 用心棒日月抄』『驟り雨』『刺客』『凶刃』。シンガポールからマレーシアに渡ったのちも、つぎつぎに読み耽りながら藤沢周平の魅力に浸っていった。あのとき、もし書店に駆け込んでいなかったら――想像するだけで、ひやりとする。藤沢周平に出逢わせてくれたシンガポールの旅は、いまや恩人というべきものである。



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【ひらまつ・ようこ】
1958年岡山県生まれ。エッセイスト。東京女子大学文理学部社会学科卒業。世界各地を取材し、食文化と暮らしをテーマに執筆活動を行う。『買えない味』で第16回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞、『野蛮な読書』で第28回講談社エッセイ賞受賞。『夜中にジャムを煮る』『なつかしいひと』『サンドウィッチは銀座で』『ひさしぶりの海苔弁』『本の花』など著書多数。
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