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書を持って、旅に出る?
この一冊の舞台へ-文学の描いた場所- 東京大学大学院総合文化研究科 准教授
出口智之
リレーエッセイ
 観光名所をめぐる旅も、秘境に分け入る旅もそれぞれに好きだけれど、時おり、文学作品に描かれた場所に行ってみたくなる。こう書くと、いかにも名作の舞台を訪れるように聞えるが、かならずしもそういうわけではない。『坊っちゃん』の松山、『城の崎にて』の城崎温泉、『伊豆の踊子』の天城峠よりも、無名だがどことなくしっくりくる作品に描かれた、何の変哲もない街並や郊外の景色に、無性に心が惹きつけられる。それは単なる坂道だったり、川や海辺だったり、あるいは橋や寺や小池などのありふれた風景なのだけれど、作品の世界と思いあわせた時、特別な意味を帯びて光り輝いて見えるのだ。

イラスト:古知屋恵子
 この感覚は、鉄道の車窓から見える場所に行ってみたくなるのと似ている。住宅街の一角の少し変った地形や、小さな神社や公園など、それ以上に何があるわけでもないのだが、一度心が止まるとやけに目につき、やがてその場所に立ってみたくなるのである。そして実際にそこを訪れ、すでに見慣れた風景の片隅に身を置くと、なんだか絵のなかに入り込んだかのような不思議な感覚に襲われる。走り過ぎる鉄道の窓という境界を超え、親しいけれど決して届かなかったもう一つの世界を訪れることによって、どこにでもありそうな風景が新鮮な感覚で彩りなおされるのである。

 文学作品もまた絶対に入れないフィクションの世界だから、描かれた場所を訪れるのは、いわば時空を超えた越境に近い。もちろん、現実の風景が作品から想像していたのと異なるのは当然で、時には面影もない変わりように失望することもあるが、それよりも作品世界と現実とが二重写しになって物語中に迷い込んだように思われ、平凡な眺めが興趣深く感じられることのほうが多い。これまで、堀辰雄『晩夏』の描く野尻湖や、井上靖『大洗の月』の大洗海岸など、いくつもの作品の舞台を訪れてきたが、なぜさほど有名でもないこれらの作品に惹かれるのか、自分でもはっきりとはわからない。鉄道沿線の何気ない風景と同様、理由もなくただ心に残って忘れがたいのである。

 なかでも印象に残っているのは、泉鏡花『春昼』『春昼後刻』の舞台となった、逗子の岩殿寺とその裏山だろうか。鏡花中期の秀作と評されるこの作品は、思いを秘めた男女が山中での逢瀬を思わせる不思議な体験ののち、相次いで死に向う物語である。暖かな春の光で包まれた逗子の町に、いかにも鏡花らしい不気味な怪異が忍びこんでくるのだが、どうしても現実のその場所に行ってみたくなり、横須賀線に乗ったのはもう十年も前のことだった。作品の季節よりやや早い春先の町に下立ち、岩殿寺や、小坪あたりの名越切通しを訪れていると、ただの寺や山道でしかないこれらの場所が、いつしか鏡花の作品世界と重なりあい、物語の舞台をいま眼前に見ているかのように思われた。

 あるいは、大戦末期を背景に若き男女のみずみずしい恋愛を描いた、北杜夫の『神々の消えた土地』も忘れがたい。暗い時代を扱いながら、全篇がロマンティックな色彩に包まれたこの作品は、二人が松本から三城牧場を通って美ヶ原までゆく小旅行の場面でクライマックスを迎える。牧草の広がる美ヶ原の平原には幾度か足を運び、岩塊の露出した王ヶ鼻にも立ってみたが、その風景は描かれたそのままに残り、主人公の恋人たちが胸をはずませて歩く姿が見えるようだった。今や観光地としても知られるようになったこの美しい土地は、清新かつ純朴な物語とぴったり合うように感じられるが、その作品を思い起すことによって、逆に現実の美ヶ原もより魅力的に見えてくるというのが面白い。

 ここ数年、仕事もあって毎年数回は松本に出かけているが、たいていは主人公が松本高校(現信州大学)受験の際に泊った浅間温泉に宿を取り、市中からは王ヶ鼻を遠望して美ヶ原に思いをはせている。だが一方で、文学作品の呼び起すイメージを現実に重ねるこのような楽しみは、かなり私的かつ個人的なもののようにも思われる。北杜夫のなかでも決して代表作ではないけれど、なぜかわたくしの心を惹きつけてやまないこの作品は、しかし誰かほかの人にとっては取立てて言うほどもないただの小説かもしれず、そしてその人にはその人でまた特別な、どうにも心から消せない固有の一作なり一節なりがあるはずなのだ。その意味で、こうした旅は名作の舞台や文学碑などをめぐる、いわゆる文学散歩とはどこか決定的に異なっているのである。

 ガイドブックに載るどころか、行っても何があるわけでもない場所が、好きな作品とともに特別な魅力を持ちはじめる楽しみ。ひそやかだが、ほかの土地には代えられないもう一つの旅の楽しみである。


『春昼・春昼後刻』泉鏡花著(岩波文庫)

『神々の消えた土地』北杜夫著(新潮文庫)


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【でぐち・ともゆき】
1981年愛知県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本文学。明治時代における文学、文人のネットワーク、文学と美術の交渉が研究テーマ。著書に『幸田露伴の文学空間』(青簡舎)、『幸田露伴と根岸党の文人たち』、編書に『汽車に乗った明治の文人たち』(ともに教育評論社)がある。
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