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書を持って、旅に出る?
夏のみじかさ イラストレーター・エッセイスト
浅生ハルミン
リレーエッセイ
 6月の初め。フランスの西のはしの港町、ブレストからアベルラックまで足をのばした。ブレストはむかしから軍港があるところ。アベルラックは車で1時間ばかりの別荘地。同じ海の町でもブレストのふねは艦で、アベルラックのは舟。お昼に海辺のクレープリーで蕎麦粉のクレープにほっぺたをふくらませ、黒い犬があっちのほうまで棒を拾いに泳いでいくのを眺めたりして、それからブレストに引き返した。

撮影:ゆかい(ただ)
 ホテルの部屋に着くなり、ベッドに体を投げ出してノートパソコンをひらくと、妹からのメールは来ていなくて、よ、よ、よかったと安堵した。どこまでいってもコンピューターを手ばなすことができないなんて、旅と日常の飛距離を大切にしているひとは私のことをこころのまずしい、道具に踊らされし者と思うかもしれない。メールを受信したところで要件には取り組めないし、なにしろ重いのだけれど、それでも持ってきたかったのは、家の猫の体調を妹が知らせてくるかもしれなかったのだ。ああこんな言いわけがいるなんて。
 ともかく、妹からメールは来ていなかった。そのついでにツイッターにつないで、フランスにいることを書き込んだ。

 「ホテルのWi-Fiが使えたのでノートパソコンから書いています。フランスのブレストという港町に来ました。夜の8時ですが夕方みたいに明るいです。日曜日でどこも開いていなくて閑散としています。この町はベアトリス・ダルの生まれ故郷だそうです」

 間をあけずにRさんから返信が来た。ジャン=ルネ・ユグナンという作家の『荒れた海辺』にブレストが出てくると書いてあった。
 「妹アンヌと兄オリヴィエ、妹の婚約者ピエールのもつれあったひと夏の出来事。夏の間なにも起こらなかったし、何もかもが変わったという青春の甘酸っぱい小説です」

 Rさんの返信を読んで、いっぺんにしびれてしまった。住んでおられるかたには申し訳けないけれど、さっきの海辺が「ひと夏」のためにあるように思えた。小さな入江、羊歯系植物、ゆきつもどりつしている下手くそな白いヨット、変わりやすい天気。「私フランスに来ている。やっぱりフランスの海って感じがする!」と、90年代に渋谷で観たむかしの映画を思い出してぽーっとしてしまったのだけれど、思えば「やっぱり」というのは、夏のみじかさ、去ってゆくものが美しいからだ。少ししかないからこそ高まったり、わざとあきらめたり、ため息をつく。私はまだ読む前の『荒れた海辺』にひたって旅をした。本が、灯台になって景色を照らしてくれた。Rさんから「下手くそなヨットはピエールですよ」と返信が来た。

イラスト:古知屋恵子
 ブレストでユグナンを探した。路地の本屋さんで名前の綴りを写した紙を帳場のめがねの女のひとに手渡すと、「残念だけどわからないわ」と申し訳けなさそうになさった。ありがとう。路面電車も走る大通りの大きな本屋さんなら、むかしの本でも日本でいったら文庫化とか新書化とかそういった復活のしかたをしているかもしれないと期待したが、空振りだった。入口のカウンターにいた若い女のひとは一生懸命メモ紙を見て「あなたの番号はいくつ?」と尋ねてくれたが、え?番号とはなんだろうか……とじっと目を見たところ、そこは予約した本を受け取るためのカウンターだったことを彼女の背後のラックから理解した。私は予約じゃなくて新規なの……この状況を伝えるだけでもジェスチャーをすごく必要とした。そういうわけで大きな店の奥まで入ってゆくことができなかった。コンカルノという河口湖みたいな町の本屋さんにもなかった。私は旅先で本を探しているとき楽しい。
 
 東京に帰って、獣医さんの待合室で日本語の『荒れた海辺』をひらく。名前を呼ばれるのを待つあいだ、2時間くらいは読める。アンヌとオリヴィエとピエールは、ブレストへお茶やお菓子を食べに出かけていた。泡立ちクリームのパイとジェリー・パフを食べていた。そしてブレストは、田舎町の彼らの家の近くにはないレコードが買える栄えた町だった。私が連れていってもらった、芸術品のようなすばらしいチョコレート細工(本物の盆栽と思ったらチョコ! パンと思ったらチョコ!)のお菓子屋さんは出て来なかった。ふたりが寝そべった「グリエクの島」は本当にあるのだろうか。潮が満ちると砂が動いて、旅人が埋まって死んだことがあると書かれる危険なところ。時がくるまで、ふたりは子どもの頃の遊びを思い出して横たわった。この兄と妹はちょっと大丈夫なのかなと思いつつ読み進めると大丈夫じゃなかった。何も起こらないけれど、感情の押し引きが、砂底の澪のように心のひだひだになって残った。雨のきざし、降りたままの白い鎧戸、ブルーグレーの海。そして昼の長いのがうれしかった旅。
 La c??te sauvage, by Jean-Ren?? Huguenin……ユグナンはこの一冊を残して交通事故で死んでしまった。私は La c??te sauvageが、地名なのか地形をあらわす言葉なのかを、いま調べているところ。


ハルミンさん所蔵の『荒れた海辺』
ジャン=ルネ・ユグナン著 
青木亨訳(筑摩書房)1965年刊


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【あさお・はるみん】
1966年三重県生まれ。イラストレーター、エッセイスト。著書に『私は猫ストーカー』(中公文庫)『猫の目散歩』(筑摩書房)『猫座の女の生活と意見』(晶文社)『三時のわたし』(本の雑誌社)『猫のパラパラブックス』(青幻舎)など多数。『私は猫ストーカー』は2009年に映画化され話題となる。現在資生堂『花椿』誌にて連載中。
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