荷物を庭まで運んでいると、赤い壁に白い窓枠の愛らしい家の中から、ロマンスグレーの頬髭を蓄えた一人の男性が現れた。船乗りのカイだ。カイは、トーベの幼馴染であり、あのヴィクトリアを造ったアルベルト・グスタフションさんの息子で、子どもの頃から家族ぐるみでヤンソン一家と親交があった。挨拶を済ませると、カイはボート小屋まで私たちを案内し、荷物をボートに積み込むのを手伝ってくれた。ボート小屋は静かな入江の岩の岸辺に沿って建てられていて、その小屋の中からもすぐ向こうに海に浮かぶ島々が見えた。

美しいボート「アルベルティーナ」
風はほとんどなく、海は穏やかだ。今日、私たちをクルーヴハルまで運んでくれるのは 「アルベルティーナ」と名付けられたボート。アルベルティーナを造ったのも、アルベルトだ。アルベルトは、親しい人たちからは「アッベ」と呼ばれていた。東京で島への交通手段についてニナと相談していたとき、ニナはカイのことを話してくれた。
「ボートはカイに依頼することにしましょう。カイは、とても美しいボートを持っているの。あなたたちは、トーベたちのボートを造ったアッベの、もう一つのボートで島に行くのよ」
そのアルベルティーナが、目の前のボート小屋で私たちを待っている。アルベルティーナはヴィクトリアと同じように木材を張り合わせて造られていて、シンプルなヴィクトリアと違うところは、運転席に白い屋根のキャビンがあることだ。なんて美しいボートなのだろう。こんな立派なボートを造ってしまうなんて、アッベはいったいどんな才能の持ち主なんだろうと感嘆してしまう。ほれぼれと見惚れていると、
「アルベルティーナのネームプレートは、トーベがデザインしたのよ」
とニナが言って、船体につけられたプレートを示してくれた。そこには、「ARBERTINA PELLINGE」と、ヴィクトリアのネームプレートと同じ、踊るようなトーベの字が刻まれている。思わず見入ってしまいそうになるが、今の今は、そんなことをしている余裕はない。カイとヤスが次々と大きな荷物を運んできてくれるので、私たちは自分たちのリュックや運べるものをリレー方式で手渡し、アルベルティーナに積み込んだ。すべて運び入れると、カイは軽やかな身のこなしで船に乗り込み、私たちも乗るよう手招きをした。
いよいよだ。
アルベルティーナのデッキに降り立ち、そこからニナたちを見上げた。ボート小屋の板壁の隙間から、明るい光がいくつも筋になって差し込んでいた。ニナはにこやかな顔でカメラをこちらに向けている。ニナの友人のアコさん、その旦那さん、ヤスも並んでみんな笑顔だ。

クルーヴハルの入り江でアルベルティーナ
の錨を上げるカイ・グスタフションさん
「いってらっしゃい! 楽しんでね!」
カイは船尾に回ってもやい綱を外し、それからエンジンをかけた。アルベルティーナが息を吹き返したかのように身震いし、その体に力をみなぎらせていく。船はゆっくりと動き出し、手を振って見送ってくれるニナたちを後ろにしてボート小屋の外に出ていった。そして、滑らかな動きで船首を海に向けると、島を目指して一心に進みはじめた。
このときほど、一体これから何が起きていくのだろうという期待と、少し怖いような気持ちの入り混じった、不思議な感情で胸が高鳴った瞬間はない。海は眩しいほどにきらきらと輝き、岩たちの黒い影が海面に丸く顔を出していた。そして水平線に沿って木々を茂らせた島影があちこちに浮かんでいる。トーベが愛した群島の海の風景だ。
カイは、座って景色を眺めていた私たちに、デッキの台の上に立って、キャビンの屋根に掴まると海がもっとよく見えるよ、と声をかけてくれた。立ち上がって示された場所に登り、屋根越しに顔をのぞかせると、風があたって心地よく、より高い視点から海を見晴らすことができた。
船室で舵を握るカイの姿もとても絵になる。「写真を撮ってもいいですか?」と聞くと、ちらっとこちらを見たあと、無言でぐっと背筋を伸ばし、ポーズを取ってみせてくれた。船のキャプテンらしく顎も少し反らして、「どうだ」と言わんばかりの表情。思わず笑いながら、撮れた写真を見せると、うーん、と少々不満気で、もう一回。今度は、まあこんなものでしょう、と許可が下りた。そんなカイのユーモアたっぷりでやさしい人柄に、私たちはすっかりファンになってしまった。
30、40分ほど行くと、やがて真正面に低い岩の島が見えてきた。なだらかに盛り上がった岩の上にまっすぐに立つ標識柱と、灰色の屋根に煙突。クルーヴハルだ。船は前回引き返したところよりもさらに進み、空色の窓枠と、小屋の建つ岩と入り江の岩とをつなぐ手すりのついた桟橋もだんだん近づいてきた。一艘の白いボートが係留されている。サングラスをかけ、バンダナを付けた女性が一人、岩場に腰掛けて微笑みながら、私たちを待っていた。
アルベルティーナはゆっくり速度を落としていき、白いボートの横を抜けて、島の小さな入り江に優雅に接岸した。岩場に係留しエンジンを切ると、船に当たる水音と海鳥たちの声が聞こえるようになる。バンダナの女性は、もやい綱を持ってアルベルティーナを岩に近づけるのを手伝ってくれ、カイと言葉を交わしている。彼女はこの地元の住民協会の人で、私たちの前に小屋に滞在していたのだそうだ。女性一人でなんてさすがだなと感心しながら私たちも挨拶する。
「あなたたちが今日から滞在するのね」
彼女はにっこりして言った。そして慣れた様子で荷物を引き上げるのにも手を貸してくれた。
「昨日はトーベの誕生日だったでしょう、だからここでも100周年のお祝いがあったのよ。夜、地元の人たちで100のキャンドルを灯したの。ほとんど片付けたと思うんだけど、ちょっとだけ残っちゃってるかも。ごめんね」
そんな素敵なイベントがあったとは! 無数のキャンドルの灯火が揺れる島の夜は、さぞ美しかっただろうなと思った。彼女は挨拶を済ませると、白いボートに乗って颯爽と帰っていった。
カイは桟橋に引き上げた荷物を小屋まで一緒に運んでくれるという。それから小屋の設備の説明をするからね、と言いながら、改めてニナの用意してくれたたっぷりの食料に目をやってこう言った。
「君たちはここで、一カ月月は暮らせるね」
穏やかな、美しい夕方だった。小屋の扉は開け放たれていたが、白いストリングカーテンが戸口にかかっているので、近づくまで中は見えない。桟橋を渡り、小屋の建つ岩に着いて、その中に足を踏み入れたときのことは今でも忘れられない。
ひと間の小さな小屋の中には8月の、午後6時を過ぎてもなお明るい光が窓から静かに差し込んでいた。壁に沿ってベッドが2つ、部屋の中央に丸テーブルがひとつ、南東の窓のそばには作業机が、北の窓のところには4人がけのテーブルが、それぞれ置かれていた。テーブルクロスやカーテンはオレンジと黄色でまとめられ、薪ストーブのあるキッチンの煉瓦の風合いや、木の壁と相まって、あたたかく心地よい雰囲気を作り出している。まるで時が止まったかのようにトーベとトゥーリッキの暮らした空間がそのまま目の前にあった。
カイはガスの使い方、薪の場所、雨水を貯める場所などをひと通り説明してくれたあと、6日後の正午にまた迎えに来るよ、と言って帰っていった。
「嵐が来なかったら、だけどね」
と茶目っ気たっぷりの言葉を残して。
私はすでにこの島に魅了されていた。水も電気もないこの島に、嵐が来たらどうなってしまうのだろう。嵐が大好きだったトーベ。トーベの小説の中には、魅力的な嵐の描写がたくさん出てくる。目まぐるしく変化する空、浜の草原を大きくなびかせる風、あたりを鮮烈な光できらめかせる稲妻、泡を立てながらうねる海……、それらは間違いなく自然の脅威だったが、おそろしく魅惑的で、私はひそかに嵐が訪れることを期待せずにはいられなかった。
こうして、島で過ごす一週間が始まった。(おわり)
(写真提供:内山さつき)
本連載が本になりました! つづきは新刊
『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』でお楽しみください。ひと足早く購入できる先行販売も実施します。
<8月下旬より全国発売>
新刊『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』
内山さつき 著

定価2420円(税込)
「ムーミン」シリーズの生みの親で、芸術家としても知られるトーベ・ヤンソンがこよなく愛した島クルーヴハル。彼女が26年間、ほぼ毎年の夏を過ごしたその孤島に著者・内山さつきさんが訪れ、1週間滞在します。この忘れがたい日々と、トーベの友人たちが語った友情の思い出――二つの記憶を重ね合わせながらトーベの面影を探す旅のエッセイです。アトリエや幼少期を過ごした家、ムーミン美術館など、トーベゆかりのスポットも収録。ムーミンを愛する人、トーベ・ヤンソンに魅せられた全ての人に贈る1冊です。
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会期:2025年9月17日(水)まで
会場:森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ森タワー52階)
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