島とトーベの文学に惹かれてから数年が経った頃、私にもう一度ムーミンの大特集を担当する機会が訪れた。しかも今回は他のプロジェクトと合同で取材を行うこともあって、念願のフィンランド取材にOKが出たのだ。提示された旅程には、トーベのヘルシンキのアトリエとともにあのクルーヴハルも入っていて、思いもかけない機会に胸が高鳴った。しかし島に実際に行けるのかどうかは、その日の天候や海の状態によるという。島には桟橋がないので、波が荒いとボートは岩に打ち付けられ上陸することはできない。私は取材の当日が好天候であることを祈り続けた。
9月上旬のその日は、朝から快晴だった。私を含め、いくつかの媒体の編集者やカメラマンなどが集った9名の取材陣は、フィンランド南東部の町ポルヴォーまでタクシーをチャーターし、そこからは地元の観光協会のサポートで車を出してもらって、ヤンソン一家が夏を過ごした地、ペッリンゲに向かった。ペッリンゲは約200の島々と無数の岩礁から成る群島地域で、道路で結ばれた主要な島は5つある。そして、住民の約95 パーセントがスウェーデン語系フィンランド人だ。フィンランドは1917年にロシアから独立して今日に至るが、およそ100年間にわたったロシアの支配の前は、長らくスウェーデンの一部だった。そのため、現在でも人口の5パーセントほどとマイノリティではあるものの、スウェーデン語を話す人々がいて、公用語もフィンランド語とスウェーデン語の二カ国語だ。スウェーデン語を話す人々は「スウェーデン語系フィンランド人」と呼ばれている。20世紀の初め頃までは、知識人や政治家など文化の上層部にいる人々は、スウェーデン語系フィンランド人が多くを占めていた。トーベ・ヤンソンもまた、スウェーデン人の母と、スウェーデン語系フィンランド人の父を持つ、スウェーデン語系フィンランド人のひとりだ。そうした事情もあって、ペッリンゲは一家にとって過ごしやすい土地だったのだろう。ペッリンゲの通年の定住人口はおよそ250人だが、夏期は都市部から夏を過ごしにやってくる人々で数倍に増えるという。
この群島地域で最も大きな島ストール・ペッリンゲ――雑貨店やB&Bなどもある――でレストラン兼宿泊施設を営み、漁師でもあるマルティンさんが、私たち取材陣のために船を出してくれることになっていた。クルーヴハルには今、ドイツ人のアーティスト一家が滞在しているので、彼らの邪魔にならないよう、手短に見学させてもらうということだった。波は穏やかで、空はどこまでも青かった。それでも船を出す直前まで天候を気にしていた取材陣に、マルティンさんは「ばっちりだ」と請け合ってみせてくれた。
白い船にエンジンがかかって入り江を進みはじめると、いよいよあの島に行けるのだという実感が迫ってきた。船は滑らかに島の間を抜けていき、両岸には白樺の木々の間に赤い壁と白い窓枠のかわいらしい家々がポツポツと現れ、後方に流れていく。湾の外側まで来ると、船はいったんスピードを緩め、それから一気に加速した。まるで海面を飛んでいるよう! 舳先(へさき)から少し身を乗り出すと、自分が鳥になって、波しぶきを受けながら水面スレスレを飛翔しているかのようなスリリングな体験が味わえた。波はきらきらと輝き、私たちの船は岩肌の上に森が茂る島々をいくつも通り過ぎた。周囲の島影が少しずつ消えていき、航路標識の周りに海鳥たちが舞っているのが目に入った。
やがて進行方向に、なだらかに盛り上がった岩の島が見えてきた。船はゆっくりとスピードを落としていく。遠くに標識柱と小屋の屋根が見える。トーベの島、クルーヴハルだ。
ところが、島まであと数十メートルかどうかというそのとき、船は急に進むのをやめてしまった。どうしたのだろうと思っていると、マルティンさんがガイドの方と何か話している。そして告げられたのは、今日は上陸できないという知らせだった。
島の小屋の脇の雨水を貯める桶のそばには、旗を立てる場所がある。そこに旗が立っていれば「ウェルカム」、しかし立っていなければ、それは「上陸はしないでね」という合図だというのだった。そして今、どういう事情があったのかはわからなかったが、歓迎の意を表す旗は出されていなかった。
あと数十メートルのところで、島への訪問は絶たれてしまった。島を訪れるために、それまで一つひとつクリアしてきたことが、最後の最後でガラガラと崩れ落ちたような気持ちになった。静かに浮いている船に、海鳥たちの声が聞こえる。なぜという問いと、どこかでまだ事態が好転するのではないかという諦められない思いがせめぎ合っていた。しかし、船は無情にももと来た方へと引き返しはじめた。せめてもの気持ちで、遠くに見える小屋の写真を数枚撮った。

クルーブハルへの上陸を断念した日に遭遇したアザラシ
すっかり意気消沈してしまった私たちを慰めるためだっただろうか。しばらくするとマルティンさんが再び船のスピードを落とした。
「ほら、アザラシがいる」
指し示された方向を見ると、波間に何か黒い粒のようなものが浮かんでいる。カメラのレンズをのぞいてズームアップしてみると、つややかなアザラシの丸い小さな頭が二つ、首から上だけを海面から出して、つぶらな瞳でこちらを見つめているのだった。そういえば『島暮らしの記録』にも、昔はクルーヴハルの岩の溜まり水でアザラシたちが遊んでいたのだが、後にもっと沖合の方に移ってしまった、という記述があったのを思い出す。それを受けるかのようにマルティンさんも言った。「以前はたくさんこのあたりにいたんだ、でも最近ではちょっと珍しいね」。
アザラシたちはあまり逃げる様子もない。気持ちが少しだけふっと軽くなったような気がした。アザラシ、姿を見せてくれてありがとうね。心の中で呟いて、シャッターを切った。再び泳ぎ出したアザラシたちのうちの一匹の横顔が、小さく映った写真が撮れた。
その後、船に置いてあったトーベとトゥーリッキのサインの入った『島暮らしの記録』の原書を見せてもらった。トーベのサインは丸みを帯びた中にもキリッとした意志を感じさせ、トゥーリッキのサインは風のように軽やかで流れるような筆致。トゥーリッキが手がけた、島の風景を描いた見事な版画が収められたスウェーデン語の美しい本を見ていると、ますます島に行けなかったことが残念に思われた。甲板に座って、ため息をつきたいのをこらえて本を眺めていた私に、共に取材をしていた一人の方が声をかけてくれた。
「きっとまた来られますよ」
やさしい慰めに思わず本音が漏れてしまった。
「でも、雑誌は予算も限られているし、こんな機会はいつまためぐってくるか……」
「それなら、自分で来たらいいんですよ。今日滞在していた人みたいに、アーティストとして島に来たら」
そう、クルーヴハルでは芸術家に限って、トーベたちが作ったコテージを貸し出している。トーベとトゥーリッキは1991年に島を離れるとき、地元のペッリンゲ住民協会に小屋を寄贈し、管理を託した。地元の人たちは、二人が島でそれぞれの作品制作に打ち込んだように、この特別な環境でアーティストたちにさまざまなことを感じ取ってもらいたいという思いで、アーティスト・イン・レジデンスを行っているのだという。それを聞いたときには、なんて素敵な取り組みなのだろうと感銘を受けた。今日島に滞在していた家族も、そうしてアーティストとして滞在を許された人たちなのだった。
でも、アーティスト? 私が? そう言いたげに見えたのだろう、その人は続けて言った。
「あなたはジャーナリスト。文章を書く人だってアーティストでしょ」(つづく)

フィンランド湾沖に浮かぶペッリンゲ群島地域
(写真提供:内山さつき)
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