次の日の朝、私たちはB&Bをチェックアウトし、旧市街をもう一度散歩して昼食を取ってから、島に向かうことにした。ニナからは、ペッリンゲ行きのバスは一日一本くらいしかないから、ポルヴォーからはタクシーで向かうようにという指示が出されていた(本当は迎えに行ってあげたいけどちょうどゲストが来ているから難しいのよ、ごめんなさいね、とやさしい気遣いも添えられていた)。タクシーは前日、バスターミナルにあるオフィスで予約してあった。私たちは旧市街の中心にある広場に面したB&Bに宿を取っていたのだが、がたがたした石畳はスーツケースを運ぶのにはなかなか苦労したので、広場の前までタクシーが来てくれたのはありがたかった。

ポルヴォーの石畳の道
タクシーはポルヴォーの町を背にして南へ走っていく。ペッリンゲまでの道はほぼ一本道で、二車線のなだらかな道路が気持ちよく延びている。道の両脇はのどかな牧草地で、その奥には白樺の木立や森が見えた。とてもよいお天気だった。緑は輝き、青空はどこまでも広がって、牧草地には干し草をまとめたヘイロールがいくつも転がっている。ペッリンゲまでは一時間ほど。新谷さんと私はたわいもないおしゃべりと周りの風景を楽しんだ。話はヘルシンキの国立美術館アテネウムで観た「トーベ・ヤンソン展」と、トーベの人生にも及んだ。日本ではその頃、ムーミンというキャラクターが高い人気を保ち続けている半面、その生みの親であるトーベ・ヤンソンが芸術家として具体的にどんな人生を送ったのかということは、まだほとんど知られていなかった。トーベ・ヤンソン研究としては、スウェーデンの研究家のボエル・ヴェスティン氏による、決定版とも言える評伝があったが、2014年当時は原書のスウェーデン語、翻訳はその前年に出版された英語版のみで、一般の人々がしっかり読み込むのにはなかなかハードルが高かったこともある(日本語版は2014年11月に出版された)。トーベは2001年に86歳に亡くなり、生前日本にも二度訪れている。そのため、その際のインタビューや交流があった人たちのエッセイなどはそれなりに残されていて、彼女の人となりについてはそこから垣間見ることはできた。しかし、そうした文献から得られる人物像は、当然のことながら語る人によってさまざまで、本当のところ、トーベがどういう人だったのか、なかなか実像には迫れないようなところがあったのだった。
しかし、この生誕100周年を機に、トーベ・ヤンソン展のキュレーションを務めた美術史家トゥーラ・カルヤライネン氏が、フィンランド語で書かれた新しい評伝を上梓した。そしてそれが、日本に巡回するトーベ・ヤンソン展に合わせて、日本の出版社によっていち早く翻訳されたのだ。この評伝によって、トーベの若い頃の人間関係などがかなり詳細に明らかになり、私にとっては大きな発見もあった。
カルヤライネン氏の評伝で印象的だったのは、彫刻家の父と挿絵画家の母のもとに生まれ、幼い頃から画家を目指していた若き日のトーベが、自分の進む道についてや、戦争中の重苦しい日々、家族や大切な人との関係で、悩んだり葛藤する生身の姿だった。晩年あれほど自分の軸を持ち、確固たる文学世界を築き上げたトーベだったけれど、若い頃には自分の仕事のままならない現実や恋人との関係に、あるときは天にも昇る気持ちになったり、あるときはひどく傷ついたりしていて、その姿はとても繊細で共感が持てるものだった。トーベが二十代半ばのとき、第二次世界大戦が始まり、彼女は戦場に弟や当時の恋人を見送らなければならなかった。休暇ごと戦地からヘルシンキに戻ってくる恋人とは、次第に心がすれ違っていくというつらい経験をしている。戦禍に心を痛め、絵が描けなくなってしまった時期もあった。また、三十代になってからは魅力的な舞台監督のヴィヴィカ・バンドレルに惹かれ、初めて女性に激しい恋をした。同性間の恋愛は法律で禁止されていた時代だったが、トーベは心から人を愛するという喜びを受け入れる。この恋愛はヴィヴィカの心変わりによって長くは続かなかったが、ヴィヴィカはトーベの生涯の友人になった。トーベが親しい人に宛てた数々の手紙からは、彼女のやわらかな感性と相手を思うやさしさが伝わってくる。どんなに深く傷ついても、トーベは愛することを恐れなかった。
カルヤライネン氏の評伝に対しては、「トーベのプライベートな人間関係にばかり焦点を当てすぎている」という批判もあったが、私にとっては、「文学史上に残る偉大な作家」だったトーベが、自分と同じように夢と現実の狭間で苦しみ、模索していたことを知ることができ、ヴェスティン氏の評伝と並んで大切な本のひとつになった。女性が芸術家として仕事をしていくことが、今とは比べものにならないくらい困難な時代だったにもかかわらず、トーベは希望を失わず、自分の中にあった豊かな世界を育て続けたのだ。
「トーベのまっすぐな生き方って、今の私たちにも響くよね。女性が自立して生きていくのが難しかった時代に、芸術家になることを目指してそれを貫いたなんて。今だって、アーティストとして食べていくことは大変なのに、当時はどれだけのことだったかを思うとさ」
と新谷さんは言って、私も心底その通りだと思った。新谷さんはちょうど英訳されたばかりのヴェスティン氏の評伝をフィンランドに持ってきて読んでいるところだった。
「すごく勇気がいることだよね」
「それをやりきっちゃう才能がまたすごいよね」
「トーベは本当は画家になりたかったけど、ムーミンの方が世界的に売れて認められて、自分の思い描いていた理想の姿とは違ったことにも葛藤があったみたいだよね。でも、晩年は大人向けの小説も書いて、また違う分野でも傑作を生み出して」
「そうだねー、いつも新しいことに挑戦し続けてたっていうのが素敵だよね。私たちもいつかこんな仕事がしたいって思っていることはたくさんあるけど、なかなかできない。トーベの生き方には、すごく励まされるよね」
「うん、こんなふうに若い頃のことがわかると、より存在を近くに感じるね……」
そんなことを話しながら、私はもう一人の作家のことを思い出していた。それは、日本の子どもの本の世界の礎を築いた、作家であり、編集者であり、翻訳者であった石井桃子さんのことだった。石井桃子さんは誰もが幼い頃に親しんだことがあるだろう絵本、『ちいさなうさこちゃん』や『ちいさいおうち』、『クマのプーさん』などの本を翻訳したり、岩波少年文庫や絵本の編集を手がけたり、『ノンちゃん雲に乗る』などの小説を送り出したりした、子どもの本の世界では神さまみたいな人だ。その石井桃子さんについても、その仕事と人生に迫った初めての評伝『ひみつの王国』が、この年の初夏に出版されたばかりだった。トーベと同じように、これまでは人生の大まかな道筋しか知ることができずにいた作家の、生身の苦悩や葛藤、胸に秘めていた人間関係などが明らかになり、私はこの本も夢中で読んだ。石井桃子さんは1907年に生まれ、2008年に101歳で亡くなっている。1914年に生まれ、2001年に亡くなったトーベとはほぼ同時代だ。二人はまったくタイプの違う作家ではあったが、共に戦争を経験し、生涯仕事を持って自らの手で運命を切り開き、自立して生きることを選んだ女性たちだった。日本で評伝が手に取れるようになったのが奇しくも同じ時期だったこともあって、二人の人生の選択、生き方、それぞれが胸に迫って感じられていた。新谷さんにそのことを話すと、彼女は興味深そうに聞いてくれていた。そして、「内山さんて、そういう作家の生き方とかにすごく興味があるんだねえ」と感心したように言った。自分ではほとんど意識していなかったことだったので、指摘されて少々驚いた。「まあ、好きな作家だけだけど」と言って、トーベ・ヤンソンも石井桃子も、その才能もさることながら、自分だけにしかできない仕事をやりきったという姿にきっと感服しているんだなあ、と思った。
「それから、こんなふうに一人の作家の人生を、読者がまるで一緒に歩んでいると思えるみたいな評伝にして書き上げる作家も、すごいなと思うんだ。いつか私も、評伝ではないにしても、自分にしかできない仕事がしたい。長い作品をまとめてみたいな」
思わずそう口にしていた。
「新谷さんはどう? どんな仕事がしたい?」
「私は、絵をもっと描きたいな。編集の仕事も好きだけど、自分の好きもの、素敵だと思えるものを描ける絵の仕事をもっと増やしていけたらいいな」
そんなふうに互いの夢を語り、それが実現することを願い励まし合いながら過ごしたペッリンゲまでの道のりを、今も懐かしく思い出す。

ペッリンゲの村の風景
ペッリンゲに着いたのは午後4時半を過ぎた頃だった。橋やカーフェリーを渡って島に入ると、道の両脇にはだんだん森が多くなっていく。日差しはまだまだ明るかったが、昼間と比べるとだいぶ穏やかなものになっていた。指定された場所でタクシーを降りると、そこにはすでに私たちの食料を持ってきてくれたニナたちが、車を停めて待っていた。ニナとヤス、そして昨日ヘルシンキに着いてニナの家に滞在している、友人夫妻が一緒に立っている。ここは今日、私たちを島まで連れて行ってくれる船乗りのカイ・グスタフションさんの家で、船着き場はその敷地内にあった。森の木立に夕方のやわらかな光が差し込み、庭の芝生は日を受けてあたたかく光っていた。
ニナは、昨日一緒に買い物をした食料、貸してくれると言っていたゴム製のサンダル、小屋のベッドで使うシーツなどをイケアの大きな袋にまとめてくれていた。10リットルのウォータータンクが5つ、2リットルのボトルも何本か並んでいた。こんなに丁寧に準備してくれるなんて。感激してお礼を述べると、いつもの素敵なスマイルが返ってきた。そして「説明があるのよ」と私たちを荷物の周りに並ばせ、解説と注意点をひとつずつレクチャーしてくれた。
魚やバター、牛乳は傷まないよう、プラスティックのウォッカボトルに水を入れて凍らせ、保冷剤代わりにしたものにひとつずつ包んであった。小屋には床下に貯蔵室があって温度が低いから、生ものの食材はそこに置くようにと教えてくれる。マーケットで昨日買った魚は、今夜必ず食べること。バターや牛乳は、3、4日は保つだろうけど、食べる前に一応注意すること。荷物の中には、水に生けられた生のディルがひと束あった。「魚料理やスープに添えると美味しいのよ。フィンランド料理には欠かせないの」と言う。「使うときはこうやって、ちょっと摘んでね。これできっと一週間くらいは楽しめると思うわ。他にもおすすめの食材を入れておいたから、料理に使ってみて」
まるで冒険の旅に出るムーミントロールとスニフに、食べものや防寒具を詰め込んだリュックを持たせて送り出すムーミンママのよう。そのやさしさとあたたかな気遣いに、私たちはまた胸がいっぱいになった。それと同時に、自分たちが実は三十代の、それなりにいい歳したムーミントロールとスニフだということも思い出し、少々照れくさいような気持ちにもなった。(つづく)
(写真提供:内山さつき)
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