
ポルヴォーの町で島暮らしに必要なものを購入
その年の8月9日の午後、新谷さんと私はフィンランド南東部の町ポルヴォーのバスターミナルで、ある人を待っていた。夏のフィンランドの光はさわやかで美しく、こぢんまりとしたバスターミナルの広場には、花や生鮮食品を売る屋台のマーケットが出て、小さな町に彩りを添えていた。私たちはここで、今回の冒険の手助けをしてくれることになった、フィンランド人のニナと彼女のパートナー、ヤスと待ち合わせをしていたのだった。
ニナと知り合ったきっかけは、一通のメールからだった。クルーヴハルでの滞在許可が下りたことを知らせてくれたメールの送り主が、ニナだった。トーベの小屋を管理している地元の住民協会の役員だったニナは親日家で、日本の文化や人々に大きな関心を寄せていた。夏は水辺にある自分たちのサマーコテージで過ごすことが多い北欧の人々とは違って、私たち日本人の二人が電気も水道もない島に滞在することにはまったく慣れていないだろうと予想して、援助の手を差し伸べてくれたのだ。4カ月前、ニナはメールに、桜の季節に日本を訪れる予定があるからもしよかったら会いましょう、わからないことがあったら何でも聞いて、と書いてくれていた。そして4月の初め、東京を訪れていたニナとヤスに、私たちは会いに行くことにしたのだった。
ニナは50代半ばの笑顔がとてもチャーミングな女性で、ヤスは彼女と同年代の無口でやさしい、シャイな感じの男性だった(後にフィンランドの男性は「たいてい無口でシャイ」であることも、ニナの解説でわかった)。自己紹介をした後、どうしてフィンランドに関心があるのか、どうして日本が好きなのかを互いに語り合うと、私たちはすっかり打ち解けた。クルーヴハルで何をしたいか、何を感じ取りたいか。私のお世辞にもうまいとはいえない拙い英語を、ニナは真剣な眼差しで聞いてくれた。そして、できるだけのサポートをすると約束してくれた。ニナの細やかであたたかい友情と、そのエネルギッシュなマネージメント力に、どれほど助けてもらったかわからない。見ず知らずの二人組のためにこんなにも親身になってくれたニナの深い愛情が、私たちにとってフィンランドという国を他とははっきり違う、特別なものにしたのは間違いない。
居酒屋で刺し身をつまみながら、私たち4人はこの夏の計画について話し合った。まずは持ちもの。特に何を持っていけばいいのか尋ねると、まず島の岩は濡れるととても滑りやすいから、合成樹脂のサンダルは必須だという。「でも、もしなかったら貸してあげるから買う必要はないわよ」とすかさず頼もしいフォローも。それから「両手が空くように、頭に付けるヘッドランプなんかもあるといいわね」と教えてもらった。島のお手洗いは小屋の外。夜間にトイレに行くときは、そうしたライトがとても便利なのだという。小屋にはろうそくやランタンがあるが、当然のことながら扱いには気をつけなければならない。
実は当初、私は島での滞在を2泊3日で考えていた。アウトドアの経験がそれほどない私は、まず一週間分の水と食料がどれくらいになるのか想像がつかず、果たしてそれが自分たちで船まで運べる量なのかも見当がつかなかった。また、電気のない島で、どんな風に食料を保存したらよいのかもわからなかった。でも2泊3日くらいなら、レトルト食品などの保存食をバックパックに詰め込めば何とかなるのでは? そんな考えから、私は初め2泊3日で滞在希望を出していたのだが、小屋のレンタル期間は料金も含めて週単位だったし、一週間いられる機会に途中で引き揚げるのはもったいないという気持ちもあった。新谷さんの意見を聞いてみたら、せっかくだから一週間滞在しようよ、と背中を押してくれたので、私たちはそのことも相談したいと思っていたのだ。そんな空気を察したのか、ニナはところで、と言って微笑みながら尋ねてくれた。
「あなたは確か、最初2泊だけ島に滞在したいと言っていたわよね? 一週間いても途中で帰ってもこちらは構わないのだけど、どうするかは決めた?」
顔を見合わせ、私たちはうん、と頷く。
「一週間、滞在することにします」
ニナは、そうこなくっちゃ! というように頷いて、まるでひまわりの花が咲くみたいににっこり笑った。
「食べもののことなら大丈夫。私たちに任せて。水のことも心配いらない。あなたたちにひもじい思いはさせないから!」
私にはその輝くような笑顔が、どんなお客さんもあたたかく食卓に招き入れ、おいしいパンケーキと熱いコーヒーをふるまう、あのやさしきムーミンママのように見えた。
そうしたわけで私たちはポルヴォーで島の食料の買い出しをすべく、ニナとヤスを待っていたのだった。4カ月月ぶりに会うニナは、4月に日本で会ったときは後ろでゆるく束ねていた髪をさっぱりと切ってふんわりしたショートヘアになっていて、より若々しくキュートに見えた。ハグして再会を喜び合った後、まずはさっそく広場に出ているマーケットをのぞくことにした。ニナは買ったものを入れるため、白木のかごを持っていた。フィンランドの白樺の木を編み合わせて作ったもので、持ち手の部分はねじり編みになっていて持ちやすそうだ。素朴で愛らしいかごを持ってマーケットに向かう姿はまるで絵本のようで、かわいいな……と眺めていたら、そうしたかごを持っている人が、他にもいるのだ。女性のみならず、おじいちゃんやおじさんたちも白樺のかごを持っている。そうしてビニール袋などは使わずに、マーケットで買った果物や魚などを、ごく当たり前のようにそのかごに入れているのだった。新谷さんと私はうっとりして、ほぼ同時に呟いた。
「あれ、買って帰りたい……!」
先を歩くニナはまず、魚を売っている移動販売車に近づいていく。
「島で魚食べたい?」
この店で売っているのは、下味のついている生の切り身のようだ。島で食べるまで保つのだろうか? 一瞬考えるが、それより先にどんな味なのかという好奇心が勝った。
「食べたい」と答えると、ニナはにっこり笑ってオーナーと言葉を交わしながら、その店の自慢だという白身魚を選んでくれた。それから野菜を売っている屋台に移動して、フィンランド料理には欠かせないジャガイモをひと袋。きれいな緑のさやに入った豆もひとすくい買う。でもこれは今、食べる用。北欧では、このヘルネ(herne)を呼ばれるエンドウ豆は茹でずにサヤを割って取り出し、そのまま食べるのだ。多くの人が買ってすぐに食べるので、屋台のそばにはサヤ用のゴミ箱も設置されている。夏の風物詩だというこの豆は、シャクシャクとみずみずしくて、ほのかに甘い。それから、これも北欧の食には欠かせないブルーベリー。フィンランド原産のブルーベリーは、「ビルベリー」と呼ばれる種類のもので、私たちが普段日本のスーパーマーケットで目にするものよりもだいぶ小ぶりで、深い紫色をしている。やわらかく果汁が多くて、やさしい甘みがさわやかだ。ブルーベリーの他にもフィンランドにはリンゴンベリー、ラズベリーなどたくさんのベリーが食べられているが、「今年は暑くて他のベリーは不作だったの」とニナは言う。

日持ちがする黒い群島パン
広場のマーケットには他にもパンを売っている店があり、ニナはおいしそうな白パンをひとつ選んでくれた。それで私は昨年クルーヴハルに向かったときに、船を出してくれた漁師のマルティンさんがふるまってくれた、特別においしい黒パンのことを思い出した。それは、群島地域で食べられている保存の効くパンで、フィンランドではサーリストライスレイパ(saaristolaisleipä)と呼ばれている。モルトを使ったりオレンジジュースを入れたり、場所によってはナッツ類が入っていたりして伝わるレシピは少しずつ異なるのだが、ずっしりと重く、甘くて芳醇な香りがする。マルティンさんは昼食に、ホームメイドの群島パンに自分でスモークしたサーモンをのせて出してくれたのだが、その豊かな味わいは今でも忘れられない。私はそのときからすっかり群島パンの虜になってしまっていた。それを伝えるとニナは頷いた。
「そうね、群島パンはもちろん持っていくべきね。でも群島パンは作っているところによって味がかなり違うから、いいのを選ぶのが大事なのよ。大丈夫、おいしい群島パンは私が買っておくから」(つづく)
(写真提供:内山さつき)
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