島にこそ行けなかったものの、そのときのフィンランド取材は実りが多かった。中でもトーベの二人の弟のうちの一人、写真家のペル・ウーロフ・ヤンソンさんのお話を聞けたことは、生涯の宝物のうちのひとつになった。ペル・ウーロフさんは当時93歳だったが、とてもそうは見えないくらいお元気で、お茶目で素敵なおじいちゃんだった。デジタルカメラを使いこなし、写真家として新しい表現に挑戦しながら、なお作品づくりを続けていた。先週はこんな作品を撮ってね、と現在のことにも目をきらきらさせながら話してくれる姿は、「おじいさん」というより「おじいちゃん」と親しみを込めて呼びたくなるようなたたずまいで、彼に姉トーベや家族について語ってもらったことで、私の心の中にトーベ・ヤンソンという作家の存在が、実感を伴って根付いたような気がした。インタビューに同席していた、生前のトーベに会ったことのある編集者たちが、ペル・ウーロフさんの青みがかった瞳がトーベの目によく似ていると話しているのを聞いたのも嬉しかった。
そうしてさまざまな人の力を借りて、特集を作り上げていった。現地で見たこと、聞いたことをまとめ、これまでにない手応えを感じながらも、私の心の片隅にはいつも島のことがあった。その頃、雑誌の仕事は多忙を極めていた。帰宅は毎日深夜近く。休日は溜まった疲れと睡眠不足で午前中は起きられず、午後は平日できなかった仕事のフォローで終わってしまうことが多くなった。数年前よりはるかにやりがいのある仕事を任せてもらえるようになり、提案した企画も通りやすくなった。場合によっては海外の取材にも赴くことができ、かつて願ったように自分の目で見て、足で知り得たことを誌面にできるようになった。自分の愛する作家や画家の創作の場を訪ね、読者に紹介するのは魅力的な仕事だった。
けれどもその一方で、生活のほとんど――そのときの人生のほとんどを仕事に費やしていることに、一抹の不安も感じずにはいられなかった。同級生たちは次々と家庭を持ち、子どもに恵まれる人もいた。自分はというと、当時交際していた人は遠く離れたところにいて、もしも結婚して一緒に住むことになるなら、今の仕事は諦めなければならない状況にあった。自分自身で考え、練り上げた大きなプロジェクトは深い充実感をもたらしてくれたけれど、それをやり遂げるためには、食事と睡眠以外の時間をほぼ仕事に捧げるような生活が要求された。この異常な毎日は、編集者であるところの私が、最もやりがいを感じていた部分が実は「書く」ことにあり、特に思い入れのある企画では、記事の執筆をできるだけ人に任せたくはなかったことにも原因があった。
終電を逃して仕方なく深夜タクシーで帰宅するとき、よく赤信号にひっかかって車が停止する交差点があった。その交差点の左側には単身用と思われるマンションがあり、外廊下には固く閉ざされたドアが等間隔でいくつも並んでいて、蛍光の外灯も同じように等間隔に灯っているのだった。これから自分が帰ろうとしている誰もいない部屋だって学生が住むような、より小さなアパートだったが、なぜかタクシーの窓からそのマンションの薄暗い白い光を見ているときに私は毎回言いようのないさみしさとわびしさを感じた。何かを変えなくてはならなかった。でも何を選び、何を決断したらよいのか、そのときの自分にはわからなかった。
もし今の仕事からも何もかも離れて遠くに行くのなら、その前にせめてトーベのあの島に行きたい、と私は思った。いつか行ってみたかった、で終わらせたくはない。仕事のためにではなく、自分のために。あれほど私を魅了した作家が愛した場所を、この目で見て感じて、トーベが日々何を見ていたのかを知りたいと思った。そして、次の年の夏のアーティスト・イン・レジデンスに申請することを決意した。
島に行くことを決めたのはいいものの、果たして電気も水もない島の生活を、一人でどうやってやりくりしたらいいのかはさっぱりわからなかった。それに申請は受理される前に、まずは審査があるようだった。トーベが遺した大切な島のコテージを貸し出すのだから、滞在できるアーティストたちが厳しく審査されるのは当然のことだ。特に代表作と言える作品があるわけでもないジャーナリストの私が選んでもらえるとはあまり思えなかったが、手がけた特集を送ることにした。そこにはペル・ウーロフさんのインタビューに加えて、トーベが島暮らしに必要なものを調達しに通った雑貨店を営むオーナーの話や、その土地の美しい森や海の写真もたくさん収められていたから、日本語が読めないにしても地元の人たちが記事を眺めてきっと喜んでくれるのではないかと思ったのだ。
次に、私はこの素晴らしい冒険を誰か共有できる人がいないだろうかと考えた。一人では難しくても、二人だったら乗り越えられることもあるかもしれない。万が一、島で不測の事態が起こったり、具合が悪くなったりするようなことがあっても、もう一人が対応できれば心強い。これは間違いなくとても貴重な機会だから、まずトーベの芸術をリスペクトし、その価値を心から理解してくれる人がいいなと思った。それから、いつ滞在できることになるのかはまだわからないから、なるべく柔軟に仕事の都合がつけられる人。そう考えると、自ずと候補は私と同じように、正規の会社員ではない人ということになった。そしてその両方を満たす人は、実は私のすぐそばにいた。
新谷麻佐子さんは、フリーランスで私と同じ月刊誌の編集やライティングを手がけている人だった。編集者としての仕事ぶりはいつもきちんとしていて気持ちがよかったが、加えてイラストも得意で、彼女のスケジュール帳の表紙にはクマなどの動物のイラストがのびやかに描かれていた。編集者であり絵を描く人が、画家であり、ムーミンの生みの親のトーベ・ヤンソンに関心がないわけはなく、新谷さんとムーミンの特集を楽しく手がけたこともあった。朗らかな彼女の人柄も、冒険の相棒として魅力的だと思った。それまで私は新谷さんと共に旅をしたことはなかったけれど、いくつかの仕事で一緒になったり、仕事仲間と集まって飲んだり、時には少し遠出して作家のワークショップに行ったりした付き合いがあった。
さっそく新谷さんをカフェに呼び出し、来年の夏、フィンランドに行こうと思っていること、そしてトーベの島に滞在したいと思っていることを話した。新谷さんはいいね、と相槌を打ちながら聞いてくれていたが、島に滞在してみないかと誘うと、目を輝かせて身を乗り出し、「行きたい!」と言ってくれた。実は来年の夏はロンドンにイラストの勉強をしに行くつもりだったけれど、もし島に行けることになったなら、絶対に時期は合わせるよ! と。なんて頼もしい返事なのだろう! 私の心配の半分はもう溶けてなくなったようなものだった。
「一緒に見てくれる誰かがいた方が、貝殻だってもっと素敵ですよね」
トーベの描いた絵本『さびしがりやのクニット』の一節が心に浮かんだ。あの憧れの島の風景も体験も、きっと誰かと分かち合った方がより豊かなものになるに違いない。私には最高に素敵な旅の仲間ができたのだった。
その知らせは、春の兆しが少しずつ感じられるようになった頃に届いた。朝、目覚めたら、見覚えのないアドレスから英語のメールが入っていた。半分寝ぼけながら読み進めると、なんとクルーヴハルを管理しているメンバーの一人からの連絡だった。
雑誌を送ってくれてありがとうございます!
ミーティングがあった日に、ちょうどあなたの雑誌を受け取りました。私たちはみんな、あなたの作った特集に感嘆したのです。本当にありがとうございます。
2014年夏のクルーヴハルの第33週をあなたにオファーします。期間は、8月10日(日)午後6時から、8月16日(土)正午まで。それは、ちょうどトーベが生まれてから100年目の夏のことだった。(つづく)
(写真提供:内山さつき)
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