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魅惑の19世紀文学案内
東京大学大学院総合文化研究科 准教授
出口智之
第9回 「ヴィネトゥの冒険」アメリカ先住民への共感を胸に
(特定の文学作品の紹介であることにかんがみ、「インディアン」「酋長」等、いずれも訳書の用語をそのまま用いる。)

 志賀直哉に「ジイドと水戸黄門」という、あまり知られていない小品がある。
 夜ふけに寝室でアンドレ・ジッドの「狭き門」を読んでいると、息子の直吉がやってきて、さかんに「ええなあ」と言う。直吉の部屋では、姉たちが一緒に寝ていて、電灯をつけられないのだ。場所を空けてやると、歓声をあげて飛込んできて、自分の背中と背中をくっつけ夢中で何か読んでいる。話しかけても上の空で、ようやく聞き出したのは、「黄門が隠居して百姓をしてる」話とのこと。脇目もくれずに没頭する様子がいかにも面白そうなのに、「ジイドではそれ程になれなかった」と結ばれる、短い作品である。

 もちろん、ジッドがつまらないということではないだろう。大人と子どもでは、興味の覚えかたも熱中の度合いも同列には語れない。それでもやはり、直吉のように夢中になれる読書がうらやましく、大人もたまにはそんな読書をしてみたい。どこかにいい本はないだろうか?
 これまでご紹介してきた「高慢と偏見」や「クオ・ワディス」も、間違いなく直吉のような読書体験をさせてくれる作品だ。それに加えてもう一作挙げるなら、ドイツの国民的作家、カール・マイ(1842-1912)の「ヴィネトゥの冒険」(1893)をお勧めしたい。

イラスト:楓 真知子


 マイもまた日本ではほとんど知られていないが、ドイツでは圧倒的な知名度と人気を誇り、広範な読者を有する作家である。世界中を舞台にした冒険小説を得意とし、波瀾万丈のストーリーと異国情緒とで読者を魅了してきた。「ヴィネトゥの冒険」は彼の代表作で、西部開拓時代の米大陸に渡ったドイツ人青年が、アメリカ・インディアンの若き酋長ヴィネトゥと堅い義兄弟の絆を結び、悪漢たちに立ち向う物語である。これまた長い作品ながら、目をそらすことを許さない面白さで、夢中な読書にいざなってくれること疑いない。

 鉄道用地の測量技師として雇われた若き主人公は、その圧倒的な腕っぷしへの称賛をこめて、オールド・シャッターハンド(鉄腕)のあだ名を獲得した。原野の遠征測量中、隊の無頼漢が酔ったあげく、アパッチ族の尊敬を集めていた白人教師を射殺したため、一行は復讐の襲撃に怯えねばならなくなった。主人公も一度はアパッチ族に囚われるが、カイオワ族との争いのおりに酋長父子を助けたことから赦され、逆に酋長の息子ヴィネトゥと義兄弟になって強い信頼関係で結ばれる。ところが、インディアンの金塊に目がくらんだ悪人ザンターと、彼にそそのかされた白人やインディアンの部族たちが次々に襲いかかり、ついにヴィネトゥは落命する。主人公は嘆き悲しみながら、金塊のためにヴィネトゥの遺書を奪ったザンターを追って、さらに西部の奥地へと分け入ってゆく…。

日本語版では「ヴィネトゥの冒険 アパッチの若き勇者」(上・下)カール・マイ著(山口四郎訳、筑摩書房)がある

 物語の誘引力もさることながら、この作品を読んでもう一つ感動させられるのは、アメリカ先住民の文化と権利を尊重し、彼らの土地を奪う侵略者として、白人を厳しく糾弾する姿勢である。本作の序文でマイは言う。「彼らの住んでいた土地が、彼らのものだったことにはまったく何の異論の余地もない。それなのに、その土地は彼らから奪われたのだ」と。現在ではごく当然の、しかし20世紀終盤にやっと市民権を得たこうした考えかたが、まだフロンティアが残っていた19世紀後半の時点で(本作の一部が最初に発表されたのは1875年のことだ)、渡米の経験さえないマイによって書かれたのは、実に驚くべきことと言うほかない。

 もっとも、白人の領土的侵略は批判されても、キリスト教による文化的侵略はむしろ是とされ、ヴィネトゥさえ死の間際に「ヴィネトゥはクリスチャンだ」と独白している。また、インディアンをまだ「向上発展」していない人々と捉え、酋長率いる戦う男たちの集団と描いているあたりも、真に彼らの文化を理解して尊重しているとは言いにくい。とはいえ、それは時代的に言って、やむをえない限界であったろう。
 ここに描かれたインディアン像が、あくまで当時の理解であることへの注意はもちろん必要だ。だが、まだインディアン戦争さえ続いていたなかで、アメリカ先住民の悲劇的な運命を嘆き、彼らの文化と権利に共感を寄せようとしたマイの姿勢は、時代的な制約を超えて深い感銘を与えてくれる。物語それ自体の魅力と感動に加え、異質な他者の声を聞き、自文化の人々の行動を内側から批判しようとする作者の見かたこそ、本作のもう一つの読みどころなのだ。

 一点だけ惜しむらくは、いまだ完訳が備わらないこと。19世紀文学には長大な作品が多く、それがネックで未邦訳となっている傑作が少なくない。英国のアン・ラドクリフ「ユードルフォの謎」を落とした残念さは以前書いたが(第2回「マンク」輝きを放つ華麗な悪の魅力参照。ついでに言うとR・D・ブラックモア「ローナ・ドゥーン」も邦訳を切望)、本作も原著の3巻本を2巻にした抄訳しか行われていない。これだけの面白さなのだから、どこかの版元で出してくださらないかな?(つづく)
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【でぐち・ともゆき】
1981年愛知県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本文学。明治時代における文学、文人のネットワーク、文学と美術の交渉が研究テーマ。著書に『幸田露伴の文学空間』(青簡舎)、『幸田露伴と根岸党の文人たち』、編書に『汽車に乗った明治の文人たち』(ともに教育評論社)がある。
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