× close

お問い合せ

かもめの本棚に関するお問い合せは、下記メールアドレスで受けつけております。
kamome@tokaiedu.co.jp

かもめの本棚 online
トップページ かもめの本棚とは コンテンツ一覧 イベント・キャンペーン 新刊・既刊案内 お問い合せ
魅惑の19世紀文学案内
東京大学大学院総合文化研究科 准教授
出口智之
第7回 「ヴィクトリア」恋の苦しみを描いた名作ラブストーリー
 寒くなりましたので、ラブストーリーをもう一つ。といっても、前回「クオ・ワディス」のハラハラドキドキの大恋愛とは違い、ほろ苦く身に迫る恋物語です。

 ノルウェーの作家クヌート・ハムスン(1859-1952)は、1920年のノーベル文学賞受賞者ながら、日本ではあまり知られておらず、読まれてもいないようである。もっとも、同賞の受賞者がかならずしも一般的な人気を有するとはかぎらないし、後世の評価が伴わない場合だってあるから、決してハムスンだけが例外というわけではない。それでも彼の場合、敬遠されがちな理由はおそらく2つあり、まずは第一次大戦期から一貫してドイツ寄りの立場を取り、ナチス・ドイツの支持にもまわったこと。作品、特に政治色とは無関係な小説に罪はないと言っても、ハムスンを大々的に顕彰することは現在でもやはり難しい。

 もうひとつは、ハムスンの作品にはモダニズム的な性格が色濃いこと。モダニズム文学とは戦間期のヨーロッパで起った潮流で、前衛的な新しさと、その方法自体への強い意識を特徴とする。つまり、この連載で紹介してきた19世紀文学のような、わかりやすい豊かな物語性とは対極にあるし、むしろその破壊こそが目的のひとつなので、どうしても難解に傾きやすい。ハムスンはこの運動の先駆者的な位置にあり、続く文学者たちからは高く評価されたものの、一般にも受けるとは言いがたい。
 しかし、この「ヴィクトリア」(1898)だけは別で、城の令嬢ヴィクトリアと粉屋の息子ヨハンネスとの身分違いの悲恋は、広く読者の胸を打つだろう。

イラスト:楓 真知子


 幼なじみだった二人は、早くから思いあいつつ、それぞれのプライドに阻まれて距離を縮められない。主人公ヨハンネスは、ヴィクトリアの前にひれ伏して愛を乞いたいと願いながら、彼女は自分の能力に心酔するはずだと信じきっているし、ヴィクトリアはヴィクトリアで、身分と体面への強い矜恃を父から受継ぎ、粉屋の息子とは人前で親しく話すことさえできない。そればかりか、経済的な破綻を目前にしてなお、豪勢な城主という体面を保とうとする父の懇願を容れたヴィクトリアは、莫大な財産の相続人であるオットーと婚約してしまった。これが意に反した強制ならいかにも19世紀的な女性の悲劇だが、家と体面に誇りを持っていたのは実はほかならぬ彼女自身でもあったのだ。

 ヨハンネスは、かたや二人きりの時に愛を告白し、かたや人前では徹底して冷淡な彼女の心の動きをはかりかね、ただ狂おしく煩悶するばかりで、その気持ちをおもんぱかる度量を持たない。ヴィクトリアは人目がないからこそ素直になれるのに、憤りのあまり、そんな彼女を冷淡に突きはなしてしまうのだ。対してヴィクトリアは、ヨハンネスの懊悩をよく知りながら、自分の気持ちを押し殺して別の娘を彼にあてがい、あまつさえ婚約披露の晩餐会に彼を招待しさえする。詩人として輝かしい名声を得るヨハンネスと、母にだけは素直な気持ちを打明けられたヴィクトリアが、ともに謙虚さをもって歩み寄ればまったく違う関係を結べただろうに、それは二人の性格が決して許さないのである。

「ヴィクトリア」クヌート・ハムスン著(岩波文庫)

 この小説の読みどころは、何と言っても、恋とプライドの間で悩む二人の心情を見事に描き出しているところにある。
 謎めいた女の行動に翻弄され、それでも自分の考える男らしさを捨てられないヨハンネスの苦しみは、彼の書いた文章や幻想によって雄弁に語られている。まずは彼の煩悶を汲みとったあと、最後の手紙であかされるヴィクトリアの心情を念頭に置いて、もう一度はじめから読返してみよう。今度は、ヨハンネスの理解が届かず、明確には記されていない彼女の苦悩が行間からまざまざと立ちのぼってきて、重層的に絡みあう男女の恋愛心理に、読後の余韻がいっそう深まるはずである。

 もしも二人の心の動きが見えにくくなったら、冒頭に描かれる幼い日の場面に戻ってみよう。
 友達と遊びに出かける城主の令嬢から、冷淡にボートの番を言いつけられた粉屋の息子は、現実味のない夢物語にふける。彼は戻ってきた令嬢たちの心を惹こうとして、岩山から「でっかい岩を海に転げ落として」みせようと言うが、まったく歓心を呼ばない。ところが、冷たかった令嬢は二人で洞窟に入った途端、こんなことを言いはじめる。彼の空想に登場する王女も、「わたしほどあなたが好きなはずはない」のだと。この少年少女の関係は、小説全体を理解するための雛型になっている。
 幼い日も、長じてのちも、恋する相手のことはかくも見えにくく、だからこそいつの時代にも恋はロマンティックなのだ。

 それではみなさま、どうかよいお休みをおすごしください。また来年もよろしくお願いします。(つづく)
ページの先頭へもどる
【でぐち・ともゆき】
1981年愛知県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本文学。明治時代における文学、文人のネットワーク、文学と美術の交渉が研究テーマ。著書に『幸田露伴の文学空間』(青簡舎)、『幸田露伴と根岸党の文人たち』、編書に『汽車に乗った明治の文人たち』(ともに教育評論社)がある。
新刊案内