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かもめアカデミー
恋と歌舞伎と女の事情 エンタメ水先案内人
仲野マリ
第1回 東海道四谷怪談㊤ 長女・お岩の結婚~優等生の誇りと誤算~③
青天の霹靂! 夫が私を捨てる??
 前述のように、お岩と伊右衛門との結婚は、四谷の家を守るための婿取りです。当時の女性としては珍しくありません。
「お父さんが決めた人だから結婚する」――これは常識的な考え方だったと思います。
 同じように、「お父さんが言うのだから」実家に戻ったお岩さん。自分の気持ちより、娘として、常に「あるべき姿」を歩もうとする女性でした。
「お父さんだから、(どんな苦労をしてでも)娘として支えていく」、その父親が殺されれば「娘として仇を捜して討ち果たすのが義務」と思い、夫に嫁せば「妻だから、どんなときも夫の世話をする」――お岩にとって、それは「当たり前」だったはずです。

 世間の常識の中で生き、親に孝行し、夫に尽くしてきました。「そんな私だから、必ず夫も私を愛してくれているはず」と思ったことでしょう。お岩は何一つ悪いことをしていないのだから。女性にとって、日々の暮らしの積み重ねほど強いと思えるものはありません。「暮らしの重み」が女性の心を支え、夫を信頼できる希望へと変わっていくのです。
 病気になっても、けがをしても、顔に傷ができても、きっと夫は私を捨てはしない。たとえ浮気をされたとしても「寄り道しているだけ。あの人はきっと帰ってくる」と思えるのは、カッコいい部分だけじゃない、人に見せられないくらいの面目なさも、二人で分かち合ってきた生活の積み重ねがあるから……。

 体の調子が思わしくないお岩は「私が死んでもすぐには奥さんをつくらないわよね?」と、尋ねます。それは軽い気持ちから出た言葉だったかもしれない。「当たり前だろ、俺はお前の夫だよ」――そう言われ、この世を去る前に愛を確認したかっただけかもしれない。お岩は伊右衛門の愛を信じていました。

 それなのに、伊右衛門は「お前が死んだらすぐに後添えをもらう。ていうか、もう決まってるんだよ。早くくたばっちまえ!」みたいなことを言うわけです。お岩の絶望は計り知れません。

「……なんで……?」

 伊右衛門は弱るお岩と泣く我が子を尻目に、家からありったけの金目のものを掴んで家を出ます。赤子を蚊から守る蚊帳まで持っていかれては、と伊右衛門にすがりつくお岩の姿は、女として捨てられても、せめて母親としての存在意義は失うまい、子への義務だけは守らなければ、と鬼気迫るものがあります。

「髪梳き」の場に込められた女のプライド
 伊右衛門不在の間に不義を仕掛けてきた宅悦に対し、お岩は激しく抵抗し、最後は小刀をもって身を守りきります。が、なんと宅悦は伊右衛門の指図で動いたとわかり、そのうえ伊藤家の使いからもらった薬が毒だったと聞いて、怒りは頂点に! 本妻がいると知っていながら、なお伊右衛門とお梅を夫婦にしようとする企みも知れ、伊藤家に乗り込んで恨み言の一つも言わねば気が済まぬ、と身支度を整え始めます。

「髪もおどろのこの姿、せめて女子(おなご)の身だしなみ、鉄漿(かね)など付けて髪も梳き上げ、伊藤親子へ言葉の礼を」

 容貌が崩れた上に、口の中をおはぐろで真っ黒にし、髪を梳くとどんどん髪が抜けていよいよ恐ろしい顔になっていく過程を、歌舞伎では一つのプロセスも抜かず、ゆっくりと、ゆっくりと見せていきます。
 ややもすれば「女がお化けになっていく」見世物的な要素だけで語られがちですが、武士の妻としてのプライド、「私こそが伊右衛門の本妻」という気概だけを支えとし、弱る体に鞭打って身支度を急ぐお岩の「髪梳きの場」は、女の哀しさがもっとも色濃く出る場面と言えるのではないでしょう。

 そもそも、身だしなみを整えるためには、鏡を見なければなりません。女性の心は、吹き出物が一つできてもデートに行きたくなくなるくらい繊細なもの。騙されて飲んでしまった薬によって崩れた自分の顔を、鏡の中に見たときの衝撃はいかばかりだったでしょう。
 取り落とした鏡を、再び手にすることを拒んでいたお岩が、覚悟して鏡をみつめ「これが私の顔かいのう」と何度もつぶやいて泣き伏す場面は、痛々しいほど哀れです。
 そして涙をこらえ、身支度を始めるお岩。鏡の中の自分を見るたび、自らをこんな顔にした伊藤家の人々への恨みがマグマのように体中を巡ったことでしょう。その凄絶な形相に恐れをなした宅悦がお岩の外出を止めようとしたことから揉み合いになり、お岩は小刀が首に刺さって絶命してしまいます。 (つづく)


【仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド】
http://kabukilecture.blog.jp/
【エンタメ水先案内人】
http://www.nakanomari.net

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【なかの・まり】
1958年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒。演劇、映画ライター。歌舞伎・文楽をはじめ、ストレートプレイ、ミュージカル、バレエなど年100本以上の舞台を観劇、歌舞伎俳優や宝塚トップ、舞踊家、演出家、落語家、ピアニストほかアーティストのインタビューや劇評を書く。作品のテーマに踏み込みつつ観客の視点も重視したわかりやすい劇評に定評がある。2013年12月よりGINZA楽・学倶楽部で歌舞伎講座「女性の視点で読み直す歌舞伎」を開始。ほかに松竹シネマ歌舞伎の上映前解説など、歌舞伎を身近なエンタメとして楽しむためのビギナーズ向け講座多数。
 2001年第11回日本ダンス評論賞(財団法人日本舞台芸術振興会/新書館ダンスマガジン)「同性愛の至福と絶望-AMP版『白鳥の湖』をプルースト世界から読み解く」で佳作入賞。日本劇作家協会会員。『歌舞伎彩歌』(衛星劇場での歌舞伎放送に合わせた作品紹介コラムhttp://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n01)、雑誌『月刊スカパー!』でコラム「舞台のミカタ」をそれぞれ連載中。
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