
コトカは海辺の町
フィンランド東南部の港町、コトカには
第2回で紹介した「フェアリーテイル・パノラマ」以外にも、実はもう一枚トーベ・ヤンソンの壁画がある。それは1952年に職業訓練学校の食堂に描かれたもの。「フェアリーテイル・パノラマ」のあるオフィスへ私を繋いでくれた知人が、「壁画を観ながら食事ができるの」と教えてくれたのだった。学校のサイトを調べると、確かにそこには料理人を目指す学生たちが腕を振るうレストランがあり、一般の人たちも利用できるらしい。私は、コトカを訪れた日のランチはそこにしようと心に決めていた。
その日は朝の早い時間に「フェアリーテイル・パノラマ」を見せてもらったので、お昼までにはまだ余裕がある。午前の光を受けて輝くばかりの並木道や、公園に咲き乱れる花々などに見とれながら、私はそのレストランを目指した。職業訓練学校はコトカの中心地から歩いて15分ほど。美しい公園を抜け、集合住宅街が並ぶなだらかな坂を下っていく途中にあった。
さて学校を見つけたのはいいものの、肝心のレストランがどこにあるのかがよくわからない。学校の敷地は広く、建物もいくつかあり、入り口はどれも似通っている。そのとき手前の建物の入り口で自転車に荷物を乗せ、帰り支度をしていた初老の女性が目に入り、私は思い切って声をかけてレストランの場所を尋ねてみた。すると彼女は少し考え、
「ああ、レストランね……。確か表通りを少し行って左側の奥まった建物にあったような気がするんだけど……」
と言って、颯爽と自転車に乗って去って行った。なるほど、と私がその方向に歩いていくと、先ほどの女性がものすごい速さで戻ってくる。そして、「合ってた! ちょっと分かりにくいの、庭の奥まで入って行くのよーっ!」と指差し、そのまま逆の方向にみるみる遠ざかっていった。私のために、わざわざ帰り道とは反対方向に確かめに行ってくれたのだ。彼女のおかげで、レストランは無事見つかった。

学生たちが腕を振るう、レストランの入り口
レストランは校舎の一角にあり、どちらかというと食堂といった雰囲気だが、テーブルには白いクロスがかけられ、テーブルセットもされて、花が活けられている。カウンターにはいかにも学生といった感じの若い人たちが3人ほど、手持ち無沙汰そうに立っていた。看板にはランチビュッフェの文字がある。先に支払いを済ませ、自分の好きな席に着くスタイルのようだ。念のため、「私もここでランチできますか?」と尋ねると、彼らはどうして観光客がこんなところに、というように訝しげにしながらも「もちろん」と対応してくれた。そこで私はスープランチを注文し、壁画を眺めながら食事ができる席はあるだろうかと食堂内を見渡した。
ところが、どの壁にもそれらしきものがないのだ。
……本当にこのレストラン? でも地図上は合っているし、知人が教えてくれた施設名とも一致している。私は困惑しながらカウンターに戻り、学生の一人に「ここに、トーベ・ヤンソンの壁画があるって聞いたのだけど」と聞いてみた。すると彼女は「トーベ・ヤンソン……」と小さく繰り返し、奥の方にいた仲間と相談をはじめた。
(以下はフィンランド語で繰り広げられた会話なので、おおよその想像です)
「ねえ、トーベ・ヤンソンの壁画って知ってる?」「え? 何? トーベ?」「あるんだって、ここに」「えー、知らない」「●●なら知ってるかな? 聞いてみる?」「電話してみてよ」
ひげを蓄え、シェフの着る白いコックコートに身を包んだ恰幅のいい男子学生が、ポケットから自分のスマートフォンを取り出し、誰かに問い合わせてくれている。礼儀正しく応答している様子から察するに、相手はおそらくスタッフか先生なのだろう。数回やりとりをし、彼は「はい、わかりました」と電話を切ると、少々緊張したような面持ちで私に向き合って言った。
「はい、確かにあります。ご案内しましょうか?」
立派なひげはあるものの、まだ幼さも残るこの学生が、とたんに頼もしく見えた。
「ありがとう! ぜひお願いします」
しかし彼は、トーベの壁画というものが一体どんなものなのかはよく知らない模様だった。「えっと……、壁画らしきものは地下にもあるんですけど」と言ってまず連れて行ってくれたところは、ひとつ階段を下りた自転車置き場だった。そこには確かに壁に絵が描かれていたけれど、カラフルな森の中にいる数頭の鹿の絵で、作風はトーベのものとはおよそかけ離れていた。
「これはたぶん、トーベ・ヤンソンの絵ではないような……?」
おそるおそるそう伝えると、人の好さそうな彼は
「ですよね……? 壁画って言うから一応ここもと思って」
と額の汗を拭きながら、わたわたしている。親切心で案内してくれたのだと思うと申し訳なくなり、でもありがとう、とお礼を伝えて記念にその壁画の写真を撮った。
彼は「じゃ、上に行きます」と言って、再び歩きはじめる。もうもうと湯気を立てる広い厨房の鍋の間をすり抜け、(え、入っていいの? と聞くと、OK、OKとジェスチャー)、扉を開けてバックヤードのような階段を上がり、細長い廊下をずっと渡って突き当りの角を曲がり、扉開けてまた階段を上がり……。いつになったらたどり着くのだろう。まるで迷路のような道のりに何だかおかしくなってしまった。ひとりではとても元の場所に戻る自信がない。
もうどこにいるかまったくわからない、と思ったとき、急に開けた場所に出た。そこは広い食堂で、レジの前にはトレイに食事を乗せた学生が列を作って並び賑わっている。
「そこですよ」
指差された先の壁に、大きな人魚と灯台の絵があった。人魚は帆船を手のひらに乗せ、大きな貝に身をもたせかけている。波が彼女の膝のあたりを洗っていて、灯台の下では白波がくだけ、その背後には星座を配した地球儀のような影が淡く浮かんでいる。漁師や馬も描かれ、海のモチーフを巧みに盛り込んだ幻想的な絵だった。人魚のなびく髪や波のしぶき、飛び跳ねる魚に、湿った海の風が感じられるようで、今度こそトーベの絵だと一目でわかった。
「ここは、ここで学ぶ学生のための食堂なんです」
そういうことなのか、と私は納得した。同じ敷地内に一般の人も入れるレストランがあったため紛らわしかったのだが、トーベの壁画を観ながら食事ができるというのは、この学生食堂のことだったのだ。壁画の前のテーブルでは女学生が一人食事をしていたが、ほぼ食べ終わった頃のようで、すぐにトレイを持って立ち上がった。
私は学生たちの邪魔にならない程度の間、絵を鑑賞した。食堂にいるたくさんの学生の中に、この壁画に注意を向ける人は誰もいない。それはこの壁画が、彼らの日常にやさしく溶け込んでいることをよく表していた。自然とそこに存在しながら空間を美しく、あたたかく彩ること。壁画の役割とはまさにそういうものだ(この壁画は本国の
ムーミンの公式サイトで「Kotka Maritime school’s mural, 1952」として紹介されているので、全体はそちらでご覧ください)。
案内してくれた彼に、改めてお礼を言った。突然壁画が見たいと言って現れた、変な日本人を案内するというミッションを達成した彼は、晴れやかな表情になっていた。そしてこうアドバイスしてくれた。
「今はお昼どきだから混んでますけど、あと一時間ほどもしたら人がいなくなるから、もし時間があるなら、レストランでランチした後にまた見に来るっていうのもいいと思いますよ」
「ありがとう、でもおかげさまでちゃんと観られたから大丈夫です。それに、ここまで来る道、私にはちょっと難しいかな」
そう言うと、彼は「じゃ、帰りは違う道で行きますか」と笑った。そしてちょうど食堂を通りかかった先生らしき人を呼び止め、何やら話したあとに「エレベーターで行きましょう」と言って、食堂に面していたエレベーターのボタンを押したのだった。どうやらそのエレベーターは教員かスタッフでないと操作できないものらしい。呼び止められた先生らしき人は、カードキーをタッチして1階のボタンを押し、私に向かってにっこりした。
「トーベ・ヤンソンの壁画を観にいらしたのですね。まあ、日本から。素晴らしい壁画をご案内できて光栄です。どうぞよい一日を!」
そう言って自分は乗らずに手を振り、去って行った。

ランチメニューのスープとサラダ。自分で食べたい分だけ取るビュッフェ・スタイル
来るときはあんなに複雑だったのに、エレベーターを使うと、あっけないほどすぐにもとのレストランに帰ることができた。案内してくれた学生は自分の持ち場に戻っていき、私は改めて、レストランでのランチを楽しんだ。きのこのクリームスープに、マッシュポテトとミートボール、サラダ。フィンランドらしいメニューだ。ランチには、プッラ(菓子パン)とコーヒーも付いていた。親切で素朴な学生たちが作った料理は、形はやや不揃いだったりもしたが、とてもおいしかった。地元の人たちや関係者に愛される、リーズナブルで素敵なレストランで、私は心もおなかもたっぷり満たされたのだった。(つづく)
(写真提供:内山さつき)
【内山さつきさんのInstagram】
https://www.instagram.com/satsuki_uchiyama/?hl=jaトーベとムーミン展
~とっておきのものを探しに~
[長野会場]
[会場]長野県立美術館 (長野市箱清水1-4-4 城山公園内・善光寺東隣)
[会期]2026年2月7日(土)~4月12日(日)※休館日:水曜日、2/11(水・祝)は開館、翌2/12(木)休館
[開館時間]9:00~17:00(展示室入場は16:30まで)[公式サイト]https://tove-moomins.exhibit.jp/(最新情報をご確認ください)◆長野会場にて、書籍『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』を販売しています。この機会にぜひお買い求めください。好評既刊『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』
内山さつき 著

定価2420円(税込)
「ムーミン」シリーズの生みの親で、芸術家としても知られるトーベ・ヤンソン。彼女が26年間、ほぼ毎年の夏を過ごした場所は、フィンランド湾に浮かぶ小さな島クルーヴハルでした。今なお水道も電気もないその島に滞在した忘れがたい日々と、トーベの友人たちが語った色褪せることのない思い出――。この二つの記憶を重ねるように綴られる旅のエッセイです。アトリエや幼少期を過ごした家など、ゆかりのスポットも収録。ページをめくるたびにトーベが見つめていた世界に出会えます。
●書籍の詳細・購入は⇒
こちら