海洋民族である倭人が日本列島にもたらした龍神信仰を考察し、日本の信仰の源を探る植島先生のお話。最終回は水の神・龍神が農耕民族の神となった経緯をたどります。 われわれは海と非常に密接な活動をしてきて、海から川を遡って、日本列島の各地に聖地をつくっていったわけですけれど、それらは色々な形で繋がっています。例えば、伊勢神宮(三重県伊勢市)と諏訪大社(長野県諏訪市)は龍神信仰で繋がっていますし、そして多くの神社がお互いに一番底のところで、雨乞いや子安や豊饒儀礼など、非常にプリミティブ(原始的)な自然信仰で繋がっていて、それらの影響関係をいまも見ることができる。それが大切なことなんですね。
人類学者の金関丈夫が今から40~50年前の書物のなかで「日本古代の海部は、支那海沿岸一帯の、海神をトーテム(宗教的な関係を持つ存在)とする文身族(文というのは刺青の形だといわれています)とその習俗、信仰をともにしていた。おそらく日本に弥生文化を運んだのは彼らの祖先であり、その渡来の初頭には、漁をしながら河口に近い湿地帯に稲をつくっていた。農耕神が龍であり、蛇であって、水辺の斎女(いつきめ:神に仕える未婚の若い女性)がこれと婚交することがその主要な祭事となっている」と書いています。
大嘗祭において斎女の役割をしているのを水の女(みずのめ)というのですが、民族学者の折口信夫は「水の女」という論文でそのことについて詳しく触れています。それを主要な祭事とする農耕民の信仰は、龍神、蛇神をトーテムとする海部の信仰と切り離して考えてはいけないだろう、ということになります。
いま、伊勢について集英社のWEBで連載しているのですが(伊勢神宮フィールドワーク)、これまで伊勢というと唯一、天皇家の氏神を祀ったところいわれていますが、もともと宇佐神宮(大分県宇佐市)だったのではないかということもたびたび文献に出てきます。とにかく、天皇の氏神を祀った所というのは宇佐神宮と伊勢神宮と二つあるんですね。いまは伊勢神宮にほぼ一元化されているように思いますが、宇佐神宮のほうがかつては大きな意味を持っていたかもしれません。天皇家に何かあったときには必ず伊勢神宮と宇佐神宮に指令が飛ぶわけですけど。
ではこの宇佐で、つまり、宇佐神宮、宇佐八幡宮で祀られている神様をご存知ですか? 伊勢神宮はみなさんご存知のとおり天照大神ですが、宇佐神宮で祀られている神様はなんと応神天皇なんです。正確にいうと、八幡大神(応神天皇)、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后が祀られているのです。このあたりを考えていくと日本の天皇とか支配者は必ず西から、東漸というのでしょうか、東へ移っていったという経路がうかがえるような気がします。
以前に、『世界遺産 神々の眠る熊野を歩く』(集英社新書ビジュアル版)という本でも書きましたが、熊野で一番大きな祭りといえば、熊野川の河口で行われている海の神様と川の神様が出会う祭りですね。熊野に限らないですけれども、河口に祀られている神様は非常に大事で、伊勢神宮の場合もそうです。
僕は的矢湾(三重県)からずっと船に乗って神様がどうやって入ってきたのか経路を調べてきました。五十鈴川はそのまま海から内宮に繋がっていますけれど、いまの五十鈴川はかつての五十鈴川ではなかった。もっと東側に河口があったのですが、それが1498年の明応地震によって流れが変わり、いまの地形になったのです。元の五十鈴川があった場所には江神社(江戸の「江」と書くのですが)があってそこは元々倭姫命(やまとひめのみこと)が遡って入ってきたところでした。そして途中に朝熊神社、鏡宮神社という川の分岐点に祀られる神社があり、そして、その奥に内宮、つまり、皇大神宮が祀られているのです。
しかし、さらにですね、さらに五十鈴川を遡ってみたんです。どこまで行くんだろうかと思いまして。すると上流に鏡岩という巨大な岩があって、そこではやはり水の神が祀られているのです。江戸時代に書かれた「伊勢参宮名所図会」にも鏡岩が描かれています。いまはほとんど訪れる人もないそうです。しかし、そうやって人々が動いたプロセスを辿っていくと、水源のみならず人々が信仰を伝えた道筋が見えてくるんじゃないかと思います。
最後に一つ付け加えるとしたら、伊勢神宮の禰宜(ねぎ:神職の名称の一つ)の家系ですが、度会(わたらい)という人たちが磯部の人々の代表で、現在は外宮の宮司をしていて、内宮は荒木田家が代々禰宜をしているのですが、どうやら荒木田家というのは比較的新しい系譜のようですね。この地では度会家が一帯の信仰を支えていたと思います。その度会の「ワタ」というのは海神(わだつみ)の「ワダ」でもあって、そして韓国でいう「パタ」になると海ですね。度会は「パタライ」、つまり、海を行き来する人々という語源説も考えられます。
上:天岩戸神社西本宮 下:天安河原。天照大神が岩戸に隠れたとき、神々が集まって神議したと伝えられる大洞窟。 写真提供:高千穂町観光協会 |
これまでのように陸地を中心に考えてくると、聖地は、辺境とか、または奥深い、山の奥みたいなところにあるという認識をぼくらは持ってきました。海からという視点で見ていくと逆に、人々が最初に目にしたところ、海から見たところ陸地にまず橋頭堡を築いていったことがわかります。どんどん川を遡って信仰を広めていったのがわかってくるような気がします。
龍穴と天岩戸はまったく同じ意味だとぼくは思うんですけど、「天岩戸神社西本宮」というのが宮崎県の高千穂にあります。西本宮には拝殿があって、ほとんどのみなさんはその前でお参りして帰ってしまうんですけれど、宮司さんにいうと誰でも内部まで案内してくれます。ただの社殿の奥の遠方に、川が流れていて巨大な龍穴が見えます。天岩戸はこれだったのか、としみじみと感じさせられました。そういう、一面に緑が茂っている中にひそむ巨大な裂け目、川の向こうなので遠いのですけど、これこそ天岩戸神社のご神体なんですね。
さて、みなさんがもし聖地に興味をもって行かれるなら、是非一言ぼくのところに声をかけてください。いろいろご案内したいと思います。どちらかというと海外の方が専門なんですけれど、ここのところ日本の仕事ばかりやっています。どちらでもみなさんのお相手をしたいと思っています。今日はどうもありがとうございました。
【かもめ編集部から】 「かもめブックスの編集部です」と自己紹介をしたとき、「かもめブックス? いい名前だなあ」と喜んでくださった植島先生。その笑顔にすっかり魅せられてしまいました。植島先生の著書『日本の聖地ベスト100』を読むと、先生と一緒に秘境に分け入り聖地を旅しているような気分になります。いつか植島先生と「聖地をめぐる旅」に出る日を楽しみに……。
※この記事は、2014年6月7日に栃木県・那須の二期倶楽部「観季館」で開催された「山のシューレ」(主催:NPO法人アート・ビオトープ)の基調講演の内容を掲載したものです。「山のシューレ」は自然に耳を傾け、人々が創り上げてきたさまざまな物事について学び、領域を超えて語り合い思想を深め合う“山の学校”で、毎年夏に開催されています。
◇山のシューレ
http://www.schuleimberg.com/◇NPO法人アート・ビオトープ
http://www.artbiotop.jp/【プレゼントのお知らせ】 「山のシューレ」主催者代表の北山ひとみさんの著書『人分けの小道』(ライフデザインブックス)が発売されました。株式会社二期リゾート代表取締役社長で二期倶楽部支配人でもある北山さんが、リゾートホテルの新しい意味とかたちを求めた30余年の日々をつづった一冊です。
かもめブックスでは抽選で3名の方にこの本をプレゼントします。ご希望の方は、住所、氏名、年齢、電話番号をご記入の上、2014年10月31日(金)までに下記アドレス宛てメールでお申し込みください。
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